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外で抱きしめられたのははじめてのような気がする。
息がつまって苦しい。
一彦に抱きしめられるときは、いつも苦しく感じた。
それがただ単に強い力で抱きしめられているからなのか、それとも別のなにかがあるからなのかは、倫之助にはわからない。
「おまえが今、なにを考えているのか分からねぇが」
背中にまわされた手が、倫之助が着ているパーカーにしわをつくる。
「昨日、どこにも行かないって言っただろ」
このひとと、一緒にいたい。
ずっとでなくていいから、そばにいたい。
そう思っている。
けれどきっと届いていないのだろう。倫之助が、言葉にださないから。なにもいわないから。
「いたいです。一緒に。ずっとじゃなくていいから」
倫之助の願いだった。
ただひとつの願いでもあった。それでもこの願いは果てなく、辛くてかなしい。
重くて苦しくて、つらい。
どちらかが先にいなくなってしまうと分かっているから、約束はできない。
約束をしたいのにできないことがこんなにも悲しいことだったのだろうか。
ヒトではない倫之助。人間である一彦。
さだめの先は同じではないから。
「……そうだな」
ため息をつくように、一彦は囁いた。
けれど体は離さない。一彦の胸に耳をあてて、鼓動を聞いた。
いきている。
風彼此を手にたずさえて戦わない日はまだ慣れない。
それは幸福なことなのかもしれない。
慣れないということは生きているから感じることだ。
倫之助は自分が「生きている」のかどうかは分からない。
それでも自分の血はたくさん見た。
さすがに胸を開くことは今までになかったけれど、たぶん、心臓のようなものはあるのだろう。
内臓もきっとあるのだと思う。
人間とおなじだな、と感じた。
だが中身が同じだからといって、内面がおなじとは限らないことは知っている。
おそるおそる、一彦の背中に手をまわした。
ヒトであろうとすることはこれからもできないかもしれない。
観測者としても、陰鬼の亜種としても役立たずでできそこないだった倫之助に残されたものは何なのだろうか。
人間でもなくて、人間の敵でもなくて、ただぼんやりとした亡霊のような存在に。
目を開いたまま、一彦の顔を見上げようとする。
「一彦さん」
「ん」
短い返事。
倫之助は首をすこし、傾けた。
「どうしてこんな面倒なのを好きになったんですか」
「面倒?」
苦笑いをしているような声色。
ようやく体を離した一彦は、内ポケットに手をいれて、なにかを探しているようだった。
大方、たばこだろう。
そして一本だけになっていた箱を握って、ジッポに火をともす。
禁煙したかったのでは、と思ったが、倫之助がそれを言うことはなかった。
「恋なんて、みんな面倒なもんだ」
嗅ぎなれたにおいがする。
一彦は海のむこうを見上げて、ふう、と息をついた。
白い煙がゆらりとゆらぐ。倫之助はその煙を目でおって、まばたきをひとつ、した。
「面倒なのに恋をするんですか。人間は」
「そうだな。好きになっちまったもんはしかたねぇし。惚れた弱みってやつだよ」
「あなたは何回、恋をしましたか」
まるでロボットかなにかのような問いにも、一彦は丁寧にゆっくり指折り数えている。
そんなに恋をしてきたのだろうか。
たばこを咥えて指をおるしぐさをじっと見つめて、心のなかで倫之助も数えてみた。
「3回……か4回くらいか」
「全員、女のひとですか?」
「そうだけど。不満か?」
「いや、べつに。そういうわけじゃないんですが」
眼鏡を押し上げながら、ぼそりと答える。
このひとは男が好きなわけじゃなかったのか、と思ったのも事実だった。いわないが。
3回か4回女性に恋をしたこのひとは、結婚を考えなかったのだろうか。
見目もいいほう、前は風彼此使いだったから、給料もかなりよかったはずだ。
いいよってくる女性も多かったのではないかと頭の端で考える。
「逆にあなたを好きになったひとも多かったのでは」
「さあ。どうだったか……」
「対陰鬼総合機関の蝶班班長の右腕でしたし、風彼此の能力も身体能力も高かった。ほうっておかない女性は少なくなかったのではないかと思って」
一彦はなにかを思い出すように、首をかいていた。
これは純粋な興味だ、とはいえなかったのが、自分でも不思議に思う。
「いなかったとは言わないが。それでつきあったとかはねぇよ」
「え?」
「色眼鏡で見られるのはごめんだからな。恋ってのは、そんな単純なものじゃない」
「よく分かりませんが、そうなんですか」
「俺はもう風彼此使いじゃないし、戦うこともない。蝶班もないし対陰鬼総合機関もない。まあ、どこにでもいそうな公務員だ。3年前からいいよってくる女もいない」
給料も安定している公務員はもてる、というような気がしないでもないが、そうなのか。
その面からいえば、医者や弁護士といったところが手堅いところなのかもしれない。
女性からしてみれば。
――興味はないが。
「結局、そういう女も多いってことだ。風彼此使いは命がけだった。その分保険金目当てってことをかくしもせず結婚迫ってこられた同僚もいたな。たしか」
「そのひとはどうなったんですか」
「生きてるよ。ずるずる結婚生活を送ってるみたいだが」
たばこを指さきに挟んで、苦笑している。
それは幸せなのだろうか。
金目当てでの結婚。手に入らなかった保険金。
なにがしあわせで、なにが不幸なのだろう。
頭が混乱してくる。
「恋と愛はちがうってやつだ」
「恋と愛はちがう……?」
「おまえにはちょっと早かったか」
質問ばかりの倫之助に気分を害することなく、一彦は笑っていた。
まだ分からなくていいさ、といって、たばこを携帯の灰皿に押しつぶす。
倫之助は結婚することが幸せなことだと、固定概念のように思っていたのかもしれない。
だが、養父である峰次は死んだ妻の遺影をみることもしなかったし、戸籍上の祖母の壬子も、死んだ祖父のことをなにもいわなかった。
ただ壬子は峰次がすべてで、五光班の次長という肩書きだけを誇っていたように思う。
そんな家族間で、愛、などというものはきっとなかった。
だから倫之助も愛という存在が分からないまま育った。
「分からないからだめ、ってことはない」
「……はい」
ぼんやり答えた直後、一彦のスマートフォンがけたたましく鳴る。
一度舌打ちをした彼は、その液晶を見下ろしてからあろうことか電話を切ってしまった。




