6
うしろから、わずかな寝息のような呼吸音が聞こえてくる。
体がうまく動かない。
首だけは動いたので、ゆっくりうしろを振り返った。
部屋は暗いし、視界も眼鏡がないためにぼやけている。
そこで一彦にうしろから抱きしめられているということに気づいた。
眠っているというのに、ひどく強い力で。
いま、何時なのだろうか。
寮は地下にあるので窓はない。
枕もとにある時計を見ようとしても、結局ぼやけていて見えなかった。
倫之助の腹にまわされている手に、そっとふれる。
とてもあたたかい手だった。
この手に抱かれたのか、と思うとなんとなく落ち着かない。
「一彦さん」
起こさないように、出来るかぎりちいさな声でつぶやく。
なぜ彼のなまえを呼んだのだろう。
まるで、たしかめるように。
「……どうした?」
目を閉じたまま一彦はかすかに囁いた。
なんでもないです、といえばいいのだろうけれど、倫之助の口は閉ざされたままだった。
ただ黙ったまま、一彦の顔を見つめているだけだ。
視線にきづいた彼は眠たそうに目を開く。
「まだ寝てろ」
「あなたは、どうして」
「ん?」
「こんな、生産性のないことをしたんですか」
純粋な疑問だった。
一彦は寝ぼけたような表情をしてから、倫之助の頭をなでる。
まるで、しかたのないいたずらをした子どもにするように。
「べつに、生産性があるようなことをしたいからしたわけじゃない」
「……そうですか」
「けど無駄なことだとは思わないけどな」
一彦の腕に大人しくおさまっている体が身じろぎして、彼と向かいあった。
ぼんやりとした一彦の顔の輪郭を指でなぞる。
彼もたしか、倫之助にこうしていたような気がしたから。
「くすぐったい」
その言葉どおり、くすぐったそうに一彦は顔をゆるめた。
けれどその指をどかそうとはせず、好きにさせているようだった。
倫之助も気がすんだのかようやく指をおろし、口もとをゆるめる。
ほほえんだ、ように見えた。
その不器用な笑みが、ひどくいとおしく感じる。
「ほら、もう寝ろ」
「はい」
ちいさくうなずいた倫之助の頭を再度なで、目を閉じた。
夢をみた、気がする。
ひとりで夜の海辺に立っているだけの夢だ。
すこしさみしい夢だった。
月だけがでていた。
銀色の月はでていたが、潮騒は聞こえない。
あなたに孤独はおとずれない、と、半蔵はいった。
幸せになってくださいともいっていた。
幸せってなんなのだろう。
孤独ということも、よくわからない。
結局、人間側についてしまった倫之助は、それでもヒトではない。
ヒトとしてうまれたことはなかったから。
そうして生まれなかったから、ヒトとして生きていくこともできないのではないだろうか、と最近思うようになった。
だから孤独と幸福の意味も分からない。
つかみそうになっても、この手からするりと魚のように逃げてしまう。
その繰り返し。
きっとだれも教えてはくれない。
これはたぶん、自分で知らなければいけないことだから。
そっと目を開ける。
寒い。
厚い毛布を肩に引き上げようとして、色がちがうことに気づく。
そういえば昨日は一彦の寮に泊ったのだった。
意識が徐々にはっきりしてくる。
ベッドサイドにあるテーブルに手をかけて、眼鏡を探した。
すぐに見つかって、耳にかける。
となりに昨夜いたはずの一彦はいない。
ベッドに腰かけて、部屋を見渡した。何度見ても、何の変哲もない部屋だ。
「倫之助?」
キッチンがある隣の部屋から、一彦が顔を出す。
紙パックのオレンジジュースをもった彼は、机にそれを置いてからこちらに向かってきた。
すこし、心配しているような表情をしている。
「大丈夫か? どっか痛いとこあるか?」
「ないです。たぶん」
「ならいいけど。朝飯できたから顔洗ってこい」
「はい」
立ち上がろうとしたらかすかな痛みを感じたが、気にしないことにした。
3年前の人体実験もどきのときに負った傷に比べれば、まったく大したことはない。
洗面台には丁寧に倫之助のぶんのタオルがあった。
適当に顔を洗って、タオルでぬぐう。かすかな石鹸のかおりがした。
ぬぐったタオルをどうすればいいのか分からなかったので、洗濯機に放り込む。
キッチンには、まだ一彦がいた。
フライパンを一生懸命ごしごしと洗っている。
なにかが焦げ付いたのだろうか。
「なにしてるんですか」
「目玉焼きつくろうとしたら焦げてな……」
シンクのなかは泡だらけだった。
タワシで洗ってはいるが、あまり効果はないようだ。
そもそも、このフライパンはだいぶ年季が入っている。
「おまえ、今日大学休みだったよな」
「はい」
「今日一日、付き合ってくれ」
「仕事は……」
「心配すんな、代休だ」
フライパンを洗うのを諦めたのか、大量の水で洗い流し始めた。
泡はきれいに洗い流されたが、フライパンの焦げはいまだ健在だった。
「前から焦げついてたけど、もう寿命だな。このフライパン」
ぼそりとつぶやいて、泡まみれだった手のひらを水道水で洗い流して手を拭く。
まじまじ見ていたことに気づいたのか、一彦は倫之助の背中を軽くたたいて、机を指さした。
机の上には、白米と目玉焼き、味噌汁とコップにそそがれたオレンジジュースが乗っていた。
味噌汁にオレンジジュース。
べつになんでもいいのだけれど、斬新な組み合わせだと思った。
「いただきます」
手を合わせて、味噌汁をすすった。
一彦のぶんの目玉焼きはまわりがひどく焦げている。
「その目玉焼き……」
「ああ、大丈夫だろ。ちょっと苦いが」
苦笑いをしながら、一彦は黄身までかちかちに固まった目玉焼きに箸をいれた。
朝食をとっている最中にはなしたことは、今日の天気とか気温とか、降水確率とか。そういった、どうでもいいことだった。
――本当に、すぐに忘れてしまうような。
「どこにいくんですか」
「ホームセンターとか、……海とか?」
「海?」
一彦は食べおわった朝食から視線をはずして、倫之助を見据えた。
どこか神妙そうな表情で、形のいい指を組む。
昨日みた夢をすこしだけ思い出した。
「冬の海もいいもんだぞ」
「まあ、いいですけど……。寒くないですか」
「そりゃあ冬だし。片付けたらいくからな」
一彦が洗った食器を拭いて、一人暮らし用のちいさな食器棚に適当に置いても、彼は何もいわない。しまい直すこともしなかった。




