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痩せただろうといわれて思わず息をつめる。
「それなりに。戦うこともなくなったし、栄養つけようとすることもなくなったので」
「おまえな……。ひとり暮らしむいてないんじゃないか」
「そんなことはありません。絶対に。それで一彦さん、なにひとの腹まさぐってるんですか」
たばこのにおいが近い。
顔をわずかにしかめた一彦はようやく手をはなして、ため息をついた。
あきれたような表情をしたまま倫之助を抱きすくめる。
呼吸を一瞬忘れてしまった。
「あの」
なにもいわない一彦を見上げようとするが、頭に手をそえられているせいで動かすことができない。
ひどく力が強い。
さすが、1メートルをこえる百花王を振り回していた一彦だ。
胸中で感心していたが、彼はまだなにもいわない。
「一彦さん?」
「俺はな」
数分たってようやくつぶやかれた言葉は、わずかに掠れていた。
「必死なんだよ、これでも。おまえを掴まえておくのに」
「……はあ。そうですか……。べつにどこにも行きませんよ。もう」
――行く場所なんてないのだし。
沢瀉の家にも、正月以外帰っていない。
倫之助の義父の峰次も忙しいのかなにも言ってはこないし、きっとこのままなのだろうな、とは思っている。
「約束してくれ」
声がひどく硬かった。
「どこにも行くな」
「行きません」
このひとを一人にはしておけない。見えないものが見えて、聞こえないものが聞こえる苦しみをもったこのひとがそういうのなら、そばにいよう。
目を伏せる。
こうして抱きしめられていると、なぜか安心するような気がした。
ふつうはどうなのだろうか。
ぐっと手を握りしめる。こういうとき、背中に手をまわすのが一般的なのだろうけれど、倫之助はその勇気はない。
どうすればいいのか分からない。
抱きしめられたことは、何回もある。
けれど、手を回したことは片手で数えるくらいしかない。
抱きしめ返したほうがいいのか一彦に尋ねたことがあるが、結局「おまえの好きでいい」と笑われてしまった。
「……一彦さんはどうして、俺を抱きしめるんですか」
「言っただろ。繋ぎとめるのに必死なんだよ」
「信用されてないんですね」
自分でも驚くほど、拗ねたような声だった。
本気でそう思ったわけではないのに。
一彦の力がほんのすこし強まった。痛むくらいに抱きすくめられて、息が苦しい。
苦しい、とも、痛い、とも倫之助は言わない。
それほど、彼は必死のようにみえたからだ。
「っ」
眼鏡を取り払われ、あごを掴まれる。
それからまるで噛みつくようにくちづけをされた。
「……、……っ!」
ぬるりとした一彦の舌が口のなかに入ってくる。
熱い。
体も、頭の芯も。
眼鏡がないとなにも見えないせいで、視界がひどくゆがむ。
呼吸ができない。
一彦のシャツを引っ張ろうとしても、結局すがりつくような力の入りかたをしてしまった。
唾液が飲み込められずにあごに伝う感覚が慣れない。
ようやくくちびるを離されるが、一彦の表情はまだ硬かった。
「どう、したんですか」
「おまえは本当に鈍感だな」
眼鏡は一彦の手にある。
彼の表情はすこししか見えないし分からないが、声色をきいて呆れているのかもしれない、ということだけは分かった。
「おまえは俺の相棒だった。信頼してなきゃ組むもんかよ。ただ、俺が臆病なだけだ。おまえのせいじゃない」
手持ちぶさたにしていた眼鏡を、倫之助の耳にかけた一彦はすこし、困ったように笑っている。
臆病。
ちいさく反芻した。
このひとは、本当に臆病なのだろうか。
彼が臆病なら、倫之助はもっと臆病だということになる。
べつに倫之助自身、臆病だろうとそうではなかろうとどうでもいいのだけれど。
「一彦さん」
3年前、海で彼がいったことを思い出す。
「前、いいましたよね。俺に」
「おまえにいったことなんて山ほどある」
「そうでした。……俺がほしい、と。あなたがいったこと、覚えていますか」
「ああ……」
きまり悪そうに首をかいているが、覚えているのだろう。
覚えてなかったらなかったで、よかったのだが。
「本気で、そう思っていたら」
「ん?」
「いいですよ」
この体は、惜しくもなんともない。
倫之助の黄金色の目が、まっすぐ一彦を見つめている。
なんの躊躇いも迷いもなかった。
逆にそれらがあったのは一彦のほうだ。
あえて。
そう、あえて、手を出さなかった。
まだ、成人していない子どもに手を出すことなどできない。
できなかった。
一彦が所属する機構は、国の傘下の組織として組み込まれているのだから、出せるはずもなかったのだから。
抱きしめはした。
くちづけも、何度かした。
それ以上はと、自分をおさえてきた。
確かに言ったことがある。
おまえがほしいと、代わりに俺もやる、と。
今もほしいと思っている。
――そう思わない日などなかったのかもしれない。
「どういう意味かわかっているのか」
「まあ、……それなりに」
「なんだよ、それなりって」
倫之助の両ほおを手のひらでつつんで、笑ってみせる。
彼の表情は変わらない。
もっとも、出会ったときから派手に表情にあらわすような子どもではなかったのだが。
「俺もやる。俺の心も、体も、命も」
もとから、立派な肩書きも強固な意志もなかった。一彦には。
倫之助のような、特別ななにかももっていない。
惜しまないのは一彦もおなじだった。
なにも惜しむものなどない。
だれかのものになったらきっと、生きていける。
「だからおまえの心も体も命も、俺のものだ」
いとおしいものにするように、倫之助のほおを撫でた。
彼の眼鏡のレンズに自分の顔がわずかに映っている。
笑っていた。倫之助の前では、すこしでも笑っていたかったから。
安心させるように。
赤い眼鏡の奥にある黄金色の目が、すっと細められる。
「……いいですよ。全部、あげます」
角度によっては赤くも見えるその目の色に、一彦の背筋がこわばった。
それは恐怖ではなく、情欲。
「逃げられると思わないでくださいね。一彦さん」
蛇のようにしなやかな腕が、一彦の背中にまわる。
そういえば、彼は大蛇をその体のなかに飼っていた。
一彦はくちびるを歪ませてから、再度倫之助にくちづけをした。




