4
おそるおそる飲んだ缶チューハイは、炭酸のジュース、といわれても信じてしまうような味だった。
一彦はビールをひと口飲んでから、ふと手を止める。
「どうだった。はじめての酒は」
「……ジュースですか?」
「正真正銘の酒。あんまり一気に飲むと悪酔いするから気をつけろよ」
「へえ」
とはいっても炭酸だから、あまりちびちび飲んでも抜けてしまうだろう。
べつにそれはそれでいいのだけれど。
青椒肉絲を取り皿に取り分けている一彦の手を見つめる。
骨ばった、細長い指。
きれいな指だと思う。
だが彼の風彼此、百花王をふるっていた時にできた傷も、たしかにそこある。
「どうかしたか? 俺の指なんか見て」
「いえ。……きれいな指をしているなと思っただけで」
箸をおいた一彦が自身の指を見るけれど、いまいちぴんときていないようだった。
爪もきれいに切り揃えられている。
――頭の奥が熱い、ような気がした。
一彦はちいさく笑って、「酔ってるのか?」と倫之助のほおに指さきでふれる。
「……そんなことは」
「本当に?」
「たぶん」
すぐに指がひかれた。
酔う、という感覚がよく分からない。
缶チューハイをひと缶開けたが、とくに変わった感覚もしないし、酔っていないのだろうか。
「ひと缶で酔うような下戸じゃないってことか」
「おそらく」
よく分からないが。
一彦はすぐ後ろにある冷蔵庫からもう一本、缶を出した。
レモンサワーと書いてある。
「今度は甘くないやつ」
「どうも……」
一彦の手には、すでに二本目のビールがある。それも半分くらいは飲んであるのではないだろうか。
ペースも早い、ような気がする。
今度はうまくプルトップを開けられた。
レモンサワーは、カシスオレンジよりもアルコール度数がほんの少し、高い。
だからといってすぐに酔うことはないだろう。
「倫之助」
ビールをすすりながら、そっとささやく。
青椒肉絲を箸で取り分けていた倫之助の手が、すこしの間止まった。
「風彼此が恋しいか」
「戦わなくていいのは正直、まだ慣れません。三年もたつのに」
「おまえが戦ってきた年数と比べちゃいけねぇよ。三つのころだろ、はじめて陰鬼を殺したのは」
「……言おうか迷ってたんですけど。俺の誕生日なんてわからないんです。沢瀉の家にいたのが二十年前の今日、というだけで。実際は本当の年齢もわからない」
箸を机において、レモンサワーの缶を見下ろす。
このことも、一彦はしっているだろう。知っていて、こうして祝ってくれている。
目のまえの男は、なにかを考えるように天井を見上げた。
「べつに、いいんじゃないのか。戸籍謄本にある誕生日がちがったって、一年のうちのどこかがおまえが生まれた日だろ。俺は気にしないがな」
本当におおらかなのか、おおざっぱなのか分からない。
倫之助が苦笑すると形のいい手が頭にのびて、そっと撫でられた。
子ども扱いされているとも思うが、このひとの前では倫之助はまだ子どもなのだろう。
「俺の頭なでて、楽しいですか」
「まあな。おまえの頭、撫でてて気持ちがいい。くせっ毛だけど、さらさらしてるし」
「……そうですか」
髪を褒められても、それほどうれしくはない。
だからといって不機嫌にもならないが。
――ひとりで使う机だから、それほど大きくはない。すこし前にかがんだ一彦は、髪の毛にふれていた手をほおにあてた。
あたたかい手だと、おもう。
倫之助のような冷え切った体温ではない。
心地がいい体温だ。
思わず、その手に顔をすりよせる。
「酔ってるだろ」
そうかもしれない。
顔がすこし熱い気がする。おかげで、ほおにある手も余計に熱く感じた。
実際は、そんなに熱くはないと思うが。
ふれるだけふれて、手をさげられる。それがどこか哀しいと思うほどにはきっと酔っているのだろう。
「そうかもしれません」
「俺はおまえが何だってかまいましない」
人間でも、人間じゃなくても、と。
一彦は笑った。
倫之助は人間ではない。
不老ではないが不死というだけの化け物だ。
人類を滅亡させるか、それとも生き延びさせるかの見極めをする、観測者。
そして観測者であると同時に敵対存在である陰鬼の亜種だった。人間の世界から見れば単なる異端者だろう。
それでもいいと一彦はいう。
「おまえがいい」
「俺はたぶん、あなたと一緒に死ねない」
「まあ、そうだろうな」
「……ずっと一緒にはいられない」
「そうだな」
倫之助の黄金色の目が、一彦を見上げている。
一彦、ただひとりを。
彼は笑っている。
おだやかな笑みだった。
大人の男の。
「今、俺の目の前にいるんだ」
だから、かまいはしない。
本当は。
本当は、一緒にいたい。ずっと。
それでも倫之助の体には限界がある。
明日明後日どうなるか分からないとまではいかないが。
――数年後のはなしだ。
そうであってほしい、と思う。
自分の体のことなど、実際には分からないのだけれど。
「人間は、」
「ん?」
「人間は、あたたかい生き物ですね」
「そうかもな」
すこしだけ、笑ってみせる。
倫之助は愛想のいいほうでも、親しみやすい男でもない。
そんなこと、自分がいちばんよく分かっている。
けれど一彦はこんな男を好きだと言ってくれた。
――手紙には書いたが、彼に想いを言葉にして伝えただろうか。
伝えていない、気がする。
「俺、あなたが好きです」
「……そうか」
ほんのすこし、安堵したような表情をしている。
彼も不安だったのだろうか。
言葉にだすのと、言葉を書くのとではきっと、大きく違うのだろう。
「やっと言ってくれたな。倫之助」
「悪かったですね」
「そんなこと言うなよ」
二本目のビールをあおってから、缶を机に置いた。
可愛げのある言葉でもなんでも言えばよかったかもしれないが、あいにく倫之助はそういったものに疎い。
「冗談だ。酒は? もういいか」
「……もうじゅうぶんです」
なんとなく、体が熱い。
レモンサワーもすべて飲んだ。
二本で酔うのは普通なのか普通ではないのかも分からない。
「もしかすると俺、あんまりお酒は得意ではないかもしれません」
「それが分かればいいんじゃねぇか。無理してつきあうこともないし」
「そういうものですか……」
「そういうものだ」
机の上にはほとんどなくなった青椒肉絲と白米、サラダの皿と、酒の缶がおかれている。
ひさしぶりにふつうの食事をしたような気がした。
一彦は席をたって食器を片付け始めたので、倫之助も手伝おうと皿に手をのばす。
「悪いな。おまえに手伝わせる気はなかったんだが」
「べつに、いいです」
洗った皿を拭くだけの、単純な作業だ。こういう作業は嫌いではない。
たかだがふたり分。すぐに食器洗いも終わってしまった。
「おまえ、ちゃんと食ってるのか?」
「!?」
腹に遠慮なく触った一彦を見上げた拍子に眼鏡がずり落ちる。
あわてて押し上げて、なんとか床に落ちることはなかったが、このひとはどうして腹なんか触っているのだろうか。
「……痩せただろ」




