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電話は仕事場からだった。
せっかく半休をもぎとったというのに、30分も電話をしてしまった。
もっとかかりそうだったから、半ば強引に切った。
休みの職員に電話をしてくる方がわるい。そう割り切って、自分の部屋に戻る。
「……倫之助?」
ベッドの上に突っ伏して、眠っていた。
眼鏡をとらずに、そのまま。
眠る倫之助の表情は、すこし幼く見えた。
一彦はひとりそっと笑って、くせのある髪の毛を撫でる。
くせはあるが、きれいな髪の毛をしていると思う。
手触りもいい。
そういえばメールで、毎日遅くまで勉強をしているといっていた。
たぶん疲れているのだろう。
夜まで眠らせおいてもいいかもしれない。
椅子にすわって本棚から適当に一冊、本を取る。
題名はガラスの動物園。T・ウィリアムズという劇作家の本だ。
適当に流し見をしていると、倫之助の体がわずかに動く。
だが、それだけだった。
あいかわらずよく眠っている。
椅子から一度立ち上がって、倫之助の眼鏡を外す。それをベッドサイドのテーブルに置いて、再度椅子に座った。
眼鏡をしていないと、もっと幼く見える。
どうして倫之助は赤い眼鏡を選んだのだろう。
きっと彼のことだ、なんでもいいと思って選んだのかもしれないし、半蔵がこれが似合うからといっていたのかもしれない。
それは倫之助自身に聞かなければ分からないことだけれど。
わずかな声が聞こえる。
ベッドのほうから。
苦しそうな声だった。
本をたたんで、倫之助のとなりに座る。
シーツを握りしめている手にふれた。
あたたまった部屋にいるというのに、驚くほど冷たいその手は細かく震えている。
「倫之助」
肩を軽くゆすった。
いやな夢でも見ているのかもしれない。そういう時は起こしたほうがいいだろう。
「……ぅ」
かすれた声。
その自分の声で目が覚めたのか、ゆっくり顔をあげた。
倫之助は顔に手をあてて、「眼鏡」とつぶやく。
起きてはじめてのことばがそれか、と一彦は笑って、テーブルに置いてあった眼鏡を差し出した。
「おはよう倫之助。よく寝てたな」
「……すみません。眠くなってしまって、つい」
「いいよ、べつに。晩酌付き合ってくれんだろ」
一彦が時計をみると、6時をすぎていた。
そろそろ夕飯の用意をしなければ間に合わないかもしれない。
とはいっても、出来あいのものだが。
「それは。約束なので」
「もうちょっとうれしそうな顔しろよ。酒が飲めるんだぞ」
「まだどういうものか分かりませんし……」
「それもそうか。まあ、一応ひと通りは揃ってるから、ちょっとずつ飲んでみればいい。夕飯の支度してくるから、おまえはここにいろ」
「はい」
一彦が簡易キッチンがある部屋に消えていくと、倫之助はひとり天井を見上げた。
ぼんやりと灯る照明を見るのもなつかしい。
かじかむほどに冷たい自分の手をこすり合わせる。
部屋はあたたかいのに手足はひどく冷たい。冷え性、といえばそれまでなのだけれど。
隣の部屋から、いいにおいがしてくる。
そういえば、昼を食べていなかった。においにつられるように、一彦がいるキッチンに足を向けた。
「……なにを作っているんですか」
「うお、びっくりした」
「あ、すみません」
ジャケットを脱いで、シャツ一枚になった一彦はフライパンを落としそうになっている。
フライパンのなかを見ると、青椒肉絲を作っているようだった。
「いいにおいしてたので、気になって」
「そうか。冷凍のやつ炒めてるだけなんだけどな。……そういえばおまえ、昼飯食ったのか?」
「いえ。忘れてました」
正直にいうと、一彦は苦笑いをしながら器用にフライパンを動かし始めた。
「不規則な生活してると、年取ったら後悔するぞ。今は若いからいいかもしれねぇが」
「気をつけます」
「味見するか?」
小皿に盛られた青椒肉絲を箸と一緒に差し出される。
反射的に受け取ってしまったが、いいのだろうか。たしかに、空腹を感じてはいるが。
「いただきます……」
ひとの手料理など、ひさしぶりな気がする。
一彦が作った青椒肉絲は、味が濃くておいしい。
「おいしいですね。味付けもちょうどいいです」
「そうか。中華は味濃くてなんぼだからな。俺からしてみれば。そうだ。そこにある皿、ふたり分並べておいてくれ」
「はい」
白い、どこにでもありそうな皿を机のうえに並べる。
まるでふつうの生活をしているようだ。
陰鬼がいたころの生活は、いつも気を張っていた。
いつ、どこで陰鬼が出てもおかしくはなかったのだから当たり前なのだろうけれど。
陰鬼と戦って死んでいったひとたちを思い出す。
荼毘にふせることさえできないまでに、ばらばらになった肉片。折れて粉々になった骨。
目を伏せる。
せめて忘れないようにすることしか、倫之助にはできない。
もう陰鬼はいない。
どこにもいない。
風彼此使いが命がけで戦うことはもう、ない。
「どうした?」
うしろから一彦に話しかけられて、思わず皿を落としそうになるが、何とかこらえた。
いえ、と彼の顔を見ずにかぶりを振り、その皿を机に置く。
山盛りの青椒肉絲がのった大皿が見えた。
「無理には聞かねぇけど。押しつぶされる前に言えよ。それくらい、俺も聞いてやれる」
一彦は分かっているのだろう。
こんな、あさはかな胸の内など。
「……ありがとうございます」
「そっち座ってろ。酒もってくるから」
だまってうなずいて、反対側の椅子に座った。
ぼんやりと湯気がでている大皿を見下ろす。外食をする以外に、こうしてひとと食べることも最近なかった。
一彦が持ってきたのは、ワイン、日本酒、カクテル、缶チューハイ、ビール。
机の上におさまりきれないほどの種類の酒に、呆然とする。
「こんなに」
「全部飲めとはさすがにいわねぇよ。俺も飲めないし」
「はあ……」
「飲みやすそうなの選んだつもりだから、好きなもん飲んでみろ」
ビールは苦い、というイメージがあった倫之助は、まずビールを選択肢からはずす。
ワインも、たぶん飲めない。
日本酒もおそらく。
「そんなに迷うもんか?」
「それは、まあ……」
指を口もとにあてて真剣に悩んでいた倫之助を笑った彼は、見かねたように缶チューハイを目のまえに置いた。
そのパッケージは見たことがある。
カシスオレンジだ。
「これにしとけ。おまえ、甘いの好きだろ?」
「好きっていうか……苦いのが飲めないだけで」
「そうか。一応チューハイ飲んでみろ。だめだったらカクテルもあるし」
カシスオレンジを手に取って、アルコール度数を確認する。
3パーセント。
それほど高くはない、と思う。よく分からないが。
「じゃあ、これで。一彦さんはなにを飲むんですか?」
「ビール」
一彦は置いてあったビールをひょいと取り上げて、そのままプルトップを開けた。
「開けないのか?」
「あ、いえ。いただきます」
プルトップを開けるのは苦手だ。爪でひっかいても、うまく開けられない。
一彦がそれをおもしろそうに見ていたが、結局取り上げられてしまった。
結局彼に開けてもらって、再度手渡される。
「倫之助」
「はい」
「誕生日おめでとう」
やさしく笑った一彦が、手にしたビール缶をかたむけてきた。
わずかにためらったあと、缶チューハイをそこに軽くあてる。
「……ありがとうございます」
倫之助も、不器用ながらも笑ってみせた。




