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自分が何をしたいか、何になりたいかなんて、考えたことはなかった。
意味と理由ばかりをもとめて、なにも知らなかった。
自分のことなんて知りもしなかったし、知ろうとも思わなかった。
――たぶん自分は弱くなったのだと思う。
ただ楊貴妃を振りかざすだけの日々とは違う日常を送っていて、よく分かる。
風彼此をペンとキーボードに持ち替えるだけとは言えずにいたからだ。
「沢瀉」
授業がおわって、すこしの間ぼんやりとしていた。御堂松羽がブルーの目をほそめて、倫之助を見下ろしている。
片手にバッグ、もう片方の手にたくさんの本をもっていた。
「次のコマ、とってたっけ」
「俺はこれで帰るけど」
「そうだっけ。そうだ、沢瀉今日誕生日だろ? 二十歳の」
覚えていたのか、と、正直驚いた。
あいまいにうなずくと、松羽は手にしていたバッグの中から、四角い箱を取り出す。
薄い紫色のきれいな紙に包まれたその箱を、倫之助の手に押し付けた。
「やるよ。誕生日祝い。中身はあけてのお楽しみ。ハッピーバースデイ、沢瀉」
「……ありがとう、御堂」
彼は渡すだけ渡すと、片手を軽くあげて教室からさっさと出ていってしまった。
手のひらよりもすこし大きなその箱を見下ろして、そういえばと思う。
友人からの誕生日プレゼントは、はじめてだ。
倫之助はその箱をみおろして、すこしだけ笑った。
丁寧に自分のボディバッグに入れてから、教室から出る。
キャンパスには、寒そうに背中をまるめて歩く学生がいた。
倫之助も藍色のマフラーをぐるぐる巻きにして、芝生がみえる道を歩く。
白い吐息がくちびるのあたりを漂った。
「倫之助」
校門を出ると、スーツをきた一彦が寒そうに立っていた。
コートも着ていない。
手をさすりながら、倫之助のとなりに立った。
「どうしたんですか。仕事は?」
「半休とった」
「え……どうして」
一彦はスーツのポケットに手を突っ込んで、拗ねたように顔をそむける。
まるで野暮なことを言うなとでもいっているかのように。
彼は機構の寮にまだ住んでいるが、ここからだと近いとはいえない。
どうやってきたのだろうか。
こんなに寒いなか。
「行くぞ」
「どうやってきたんですか?」
「近くに車、とめてある」
倫之助に背中を向けながら、ぽつぽつとつぶやく。
まだ昼過ぎだ。
太陽はかすんで、よく見えないけれど。
いま自宅としているアパートとは反対の方向に歩いていく一彦のうしろを歩く。
この方向は、寮だろう。おそらく。
5分ほど歩いただろうか。
ちいさな駐車場に、白いスポーツカーがとめられている。
「おまえを乗せるのひさしぶりだな」
「はい」
「ま、鈴衛とちがって俺は安全運転するから。乗れ」
「それは助かります」
鈴衛の運転はひどく荒かったから。
なつかしく思う。
あの時は、半蔵も生きていた。そして倫之助にはなにもなかった。
ただ、背中のあざの痛みに怯えていただけだった。
白い車は静かに道路を走った。
車の窓のむこうを見上げる。
曇っていてはいるが、ここでは雪は降らないだろう。
枯れた枝と暗い色の葉が、たまに道路におちてる。
窓に息をふきかけると、白く透明に曇った。
無意味に、一、と書いてみる。
一彦が「あとになるだろ」と笑っていた。
車はやはり機構の寮に向かっているようだ。
倫之助としては、どこでもいいのだけれど。
眼鏡をはずして前を見る。ほとんど何も見えない。
世界を見たくないという思いが、倫之助の視力を奪っている。今でも。
このままだと本当に失明するかもしれない。
失明すれば、それはまあ、不便だろうけれど仕方ない、とも思っている。
それがヒトではない倫之助の運命ならば。
車は寮の広い駐車場に停まった。
駐車場と銘打ってはいるが、真昼間だからか車はすくない。
「……昼間から飲むんですか?」
「まさか」
「なら、いいですけど」
「色々話をしときたいと思ってな」
一彦は車をロックして、エレベーターで地下にむかった。
その間、倫之助はなんとなく口を閉じていた。
彼も特になにも言葉をかけることはない。
――はなし。
話とは、なんだろうか。
すこし俯いて、眼鏡のつるをあげた。
一彦のあとをついていって、懐かしく感じる扉の前に立ち止まる。
「倫之助」
「はい」
「いや、」
なんでもない、と彼はほんのすこしだけかぶりを振る。
そのまま扉に鍵をさし入れて、扉を開けた。
一彦の部屋はあいかわらずたばこのにおいがしていて、ちいさく深呼吸をした。
なつかしいにおい。
「どうした?」
立ち尽くしている倫之助をふりかえって、手招きをされる。
おじゃまします、と、小さい声で呟いてから靴をぬいだ。
本棚がある。覗いてみると、難しそうな本や、英語の本もあるようだった。
小説だろうか。
倫之助は小説をあまり読まないのでわからない。
「なにか気になるもんあったら、もってっていいぞ」
「いえ。俺、本あまり読まないので」
「まあ、学生の頃なんてそんなもんか。俺も学生のときはあんまり読まなかったからな」
「短大の教科書で精一杯です」
「はは」
この本棚のなかでも、一番年季が入っていそうな本を見つけた。
サリンジャー、と書かれている。
題名はナイン・ストーリーズ。
聞いたことがない。
サリンジャーという名前はどこかで聞いたことはあったが。
一彦は倫之助のとなりに立って、その本を取り出した。
「これはいい本だ。まあ、読みたくなったら読めばいい。この本はいつでもここにある」
「……はい」
倫之助の頭にそっと手をおいて、ぐしゃぐしゃと撫でた。そのままちょっと電話してくるといい、部屋を出ていく。
椅子にすわって、松羽からもらった誕生日プレゼントを取り出した。
包み紙を破かないように慎重にテープをはがす。
白い箱の中身は、革のペンケースだった。
指さきでそれをなぞる。まだ硬い革だが、使っていくうちにやわらかくなっていくのだろう。
知らず知らず、自分のくちびるの端があがっていることに気づいた。
指で口もとをおさえて、ぎゅっと口をむすぶ。
ペンケースを箱に入れて、バッグにしまった。
一彦はまだ帰ってこない。
椅子から立ち上がって、部屋のなかを歩く。広くも狭くもない部屋は、整然と片付いていた。
ベッドの白いシーツはすこししわが寄っている。
畳まれた厚い毛布は薄い青をしていた。
シーツに手をのせる。無意味な行為だ。
それは冷たくて、体温などどこにも残っていなかった。
ベッドに座る。すこしだけ、きしんだ音をたてた。
一彦がいつも吸っているたばこのにおいがする。
エアコンがきいていて、あたたかい。
すこし、眠くなってきてしまった。
ベッドの上に、足を下におろしたまま横になる。
背中をまるめて、呼吸をした。




