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本当にいいのか、と、一彦は念をおすように倫之助にたずねた。
倫之助はすこしだけ笑って、はい、とうなずく。
――彼はすこしずつだが、よく笑うようになってきている、と思う。
紫剣総合学園、そして対陰鬼総合機関が解体されて3年がたつ。
陰鬼関連の後処理のための機構にはいった倫之助は、仕事をしながら私立の短期大学に入学したのが、一年前。
もともと倫之助は頭がいいほうだったが、まさか本当に働きながら勉強をしていたとは思ってもいなかった。
入学した私立短大も偏差値が高いほうだったし、倫之助が参考書を一彦に見せても、一彦はまったく分からなかった。
そして倫之助が機構の寮をでて、ひとり暮らしをしたいと行ってきたときも驚いた。
この寮は国から支援金が出ているが、都内でアパートでもマンションでも借りれば、それなりに金がかかるし、家事もすべて自分でこなさなければならない。
沢瀉の家のことだから、金のほうは大丈夫だろうけれど。
「すぐ近くですし。会おうと思えばすぐに会えますよ」
「ま、そうだろうけど。 浮気するなよ?」
「浮気って。俺がそんな器用なことできると思ってるんですか」
「……まあ、よく考えたらできないだろうな」
ふ、と、笑ってみせる。
倫之助は微妙な表情をしたが、なにかをいうことはなかった。
ただ、一彦の部屋の壁に背中をあずけて、天井を見上げている。
なにかを考えるように。
一彦はベッドにすわって、倫之助を見つめた。
彼の耳にかけられた眼鏡は、いまだに赤い。
そしてレンズは分厚かった。
すこしずつ、目が悪くなってきているらしい。
将来どうなるか、倫之助にも一彦にも分からない。
「倫之助」
「はい」
「おまえ、よく頑張ってるな。こっちの仕事も手伝ってるんだろ」
「……まあ。たまにです。休日とかにすこしだけ」
「峰次さんも無茶いうよな。子どもに押しつけて」
実際は、本当の父子ではないのだけれど。
それでも「倫之助」という名前をつけ、住む場所を提供したのは沢瀉の家だ。
その恩に報いるために、せめてものことをしたいと倫之助は思っている。
「俺はべつに構いませんけど。給料も一応でてるし。ただ働きってわけじゃないです」
「それでも友だちもいるんだろ? 休みに一緒に遊びに行きたいとかあるんじゃないのか」
「ああ、御堂たちのことですか。御堂は知ってますし、それとなく周りの人たちに伝えてくれてます。……一彦さんが心配するようなことはないですよ」
「……ふうん。なら、いいけど。友だち付き合いはちゃんとしとけよ。面倒かもしれないが」
倫之助は「父親みたいなこというんですね」とわらった。
壁から背中をはなして、一彦のとなりに座る。
ぎしりとベッドがきしんだ音をたてた。
一彦はすこし驚いたような表情をして、倫之助を見下ろす。
「面倒とか、そんなことはないです」
「そうか」
「……けど」
「ん?」
「わすれないでください」
一彦のスーツの袖をそっと引いた倫之助の顔は、くせのある前髪のせいでこちらからは見えなかった。
ただくちびるが、ほんのわずかに開く。
「俺はあなたと半蔵のおかげで、ここにいられるんです」
「大げさだ。おまえがここにいることを選んだから、ここにいるんだろ」
「そうかもしれません。けど」
倫之助は一度口を閉じて、なにかを思案するようにうつむいた。
無理に言葉にしようとしなくてもいいと一彦は思うが、倫之助は懸命になにかをいおうとしている。
袖をつかんでいる手は、楊貴妃――風彼此を握りすぎていたせいですこし、あかぎれていた。
「けど、俺だけの力じゃありません」
「……人間はひとりきりじゃ生きてけない。おまえだけじゃねぇよ」
「人間」
「おまえは人間だ。そうだろ」
沈黙する倫之助の頭にそっと手をのせる。
彼は口を閉ざしたまま、ちいさくうなずいた。
自分の手も、それほどきれいなものではない。
けれどそれは生きてきたあかしだ。百花王とともに生き抜いてきた証拠だ。
「そう、ですね。俺は」
人間になれたんですね。
そう、わずかに苦しそうにつぶやく。
一彦はそのまま黙り込んだ倫之助のすこし痩せた肩に手をまわした。
そのままさするように肩をなでる。
この青年は――なにごとも難しく考えすぎるのだろう。
自分がなにをしたいかなど、そんなことを考えて生きてはこなかったのだろうから。
「おまえな、何でもかんでも変に考えすぎなんだよ」
「え……」
「自分がなにをしたいか、何になりたいか。そういうのは、そのうち見つかるさ」
人生は、きっと思ったよりも長いから。
陰鬼がいなくなって、だれもそれと命がけで戦わなくてもよくなった分、生は長く感じるだろう。
もうじき二十歳になる倫之助と約束をした。
はじめての酒を一緒に飲むと。
なんでもないことだろう。きっと。
それでもまるで通過儀礼のようにも感じる。
肩を抱いたまま、力を入れて抱き寄せた。
そっとこめかみにくちびるを寄せて、笑ってみせる。
「大丈夫だって。たぶん、うまくいく。おまえが大人になっても、大人になってからが人生の本番だ」
「……そうですね」
「じき誕生日だろ」
「はい」
「約束忘れるなよ」
「最初は軽いのでお願いしますよ」
ビールでも日本酒でも、ワインでもカクテルでもいい。
べつになんでもいい。
一緒に飲むことがなによりも大事だからだ。一彦にとって。
「そりゃな」
一彦はしずかに笑って、倫之助の肩をちいさく叩いた。




