2.笑わないモデル
バラの屋敷。――そう梨花が呼ぶ程その家は大きくはない。
だが、魔女が棲んでいると梨花が思い込んだくらいには、その家は不思議だった。
家の中に入ると、だだ広い部屋が広がっている。
天井まである大きな窓から差し込む光は、電気など必要ないほどに明るい。
部屋のあちらこちらの壁に絵画が立て掛けられており、それらが未完成であることは側に転がっている絵筆が物語っている。
中央にはベッドほどの大きさの白い台。梨花と同じ年くらいの子どもが服も着ずに座っていて、梨花はギョッとした。
だが、すぐにその子が生きていないことに気付く。片足が無かった。それは作りかけの人形だったのだ。
梨花が部屋の様子に驚いている間に、青年は奥の部屋からティーセットを運んできた。
そちらの部屋と手前の部屋の仕切りは白いカーテンのみで、どうやらそちらの奥の部屋にはキッチンがあるようだ。
部屋はもう一つある。白いカーテンの隣に焦げ茶色の木の扉がひっそりとあるのが見えた。
外観からは想像できない広さである。やはり魔女の家なのだ、と梨花は思った。
――いや、魔法使いだ。
青年の出現によって恐ろしい魔女の姿はすっかり払拭されてしまったが、魔法の存在は否定しきれずにいた。
どう考えても、この部屋の広さはおかしい。窓だって、外から見た時はこんなに大きくはなかったはずだ。
テーブルがないので、彼はティーセットを白い台の上に乗せた。
それまでそこを占領していた人形を抱き上げて、壁際で息を潜めていた揺り椅子に座らせた。
「そこに座って」
指し示されたのは台の上。ティーセットの横だ。彼は梨花がそこに座ったのを確認すると、カップに紅茶を注いだ。
ティーセットを挟んで並ぶように彼も座る。
カップを差し出され、両手で包むように受け取ると、梨花は柔らかく伝わる暖かさを楽しんだ。
一口飲む。甘い香りが口の中に広がった。
「バラが好きなの?」
「綺麗なものが好きなの」
「僕もだよ」
「それなら、もっと手入れをしたら?」
「手入れ?」
「お庭のことよ」
無秩序に咲いている前庭のバラのことを言うと、彼は眉を寄せた。
「あれはあれでいいんだよ」
自分の意見を彼に押し付けるつもりはないので、梨花は口を閉ざした。
――彼の庭だ。彼がいいのなら、いいのだろう。
紅茶を啜る。甘さが舌に染みた。
「君はバラ以外に何を綺麗だと感じるの?」
難しい質問だと、梨花は首を傾げた。それから、そうね、と言って、部屋を見渡した。
大きな窓。そこから見える景色は、やはり荒れた庭。雑草としか言えない草花が自分のスペースを争うように生えている。
広いだけの飾り気のない部屋だ。物が少ない。だけど、それは梨花にとって好ましかった。
「この部屋好きよ。窓から差し込む光が綺麗。物がゴチャゴチャしてなくていいわね。――だけど、筆はちゃんと片付けた方がいいわよ」
絵画の前に転がっている絵筆を指した。
「絵、見てもいい?」
彼が頷いたのを確認して、梨花は台から降りた。壁に立て掛けてある絵画に歩み寄り、しゃがむようにして眺めた。
子どもの絵。梨花と同じ年くらいの女の子が絵の中で生きていた。
別の絵では別の子が。だけど、全員女の子で、まるでそこにいるかのように描かれていた。
「綺麗ね。――でも、どの子もみんな笑っていないのね」
「笑ってくれなかったからね」
「モデルがいるの?」
「いるよ」
「笑ってって、頼めばよかったのに」
「頼んだけど、聞いてくれなかったんだ。僕の声が聞こえないらしくて」
「なぜ聞こえないの?」
そう尋ねてから、そうかと梨花は思う。彼の澄んだ声は、気を付けていなければ聞き逃してしまいそうになるくらいに細い。
音量が小さいというわけではなく、存在感が薄いのだ。耳が声として認識してくれず、空気の音として扱ってしまうくらいの透明な声だ。
「私なら、あなたの声、聞こえるのにね」
残念そうに言うと、彼は淡く微笑んだ。
「それなら君がモデルになってくれる?」
「いいわよ」
即答した。彼がそうと口にする前から、何となく、モデルを頼まれる予感がしていた。