1.バラを盗む
二十歳になる前日、彼は言った。
――もう二度と、ここに来てはいけないよ。
彼の言い分によると、私は年を取り過ぎたらしい。本当ならばもう少し早く言うべきことだったのだという。
翌日、彼の家は跡形もなく無くなっていた。
▽▲
走っていた。ガチャガチャと、赤いランドセルの中で教科書と筆箱が大騒ぎを起こしていた。
手の中には赤いバラの花。茎はなく、頭をもぎ取るように花だけを引き千切ってある。
手のひらには無数の小さな傷。花を摘んだ時に、棘に引っ掻かれたのだ。
だけど、痛みを気にしている余裕はない。一刻も早く逃げなければならなかった。
それはバラの屋敷。魔女が住んでいる。――と、梨花は思っている。
その家は古い造りで、まるで小屋のように小さく、二階がない。いわゆる平屋で、黒ずんだ木の壁にはぎっしりと蔦がはっている。
小さな窓は一つだけ、やはり蔦で覆われていて、曇りガラスから覗ける家の中は不気味に暗い。
家に対して庭は広い。特に前庭には綺麗なバラが無秩序に咲き乱れている。
手入れをしているとは思えない庭だ。実際、梨花はその姿を見たことがなかった。
眠り姫のお城のみたいに、バラは小さな家を覆い隠している。
家と庭を囲うように柵があって、黒く錆びた鉄のそれにも蔦が巻き付いている。
そのバラは柵からわずかはみ出すように咲いていた。
柵の中は魔女の結界がはってある。だけど、柵からはみ出たその花には魔女の力は及んでいない。
そうと気付いた梨花は誘惑されるようにそのバラに手を伸ばした。
ブツン。引き千切った時、花が上げた悲鳴に梨花は身を竦めた。魔女が気付いてしまう。
小さな窓を見やった。人影が過ぎった気がして、梨花は慌てて駆けだした。
風。梨花の肩を押すような向かい風。魔女が梨花を家まで引き戻そうと魔法を使っているのだ。そうとしか思えなかった。
必死で逃げて、自分の家まで逃げ切ると、梨花は大急ぎで冷凍庫の扉を開いた。
バラの花を中に投げ込むと、音を立てて扉を閉める。息が切れていた。
恐ろしい魔女の顔が目の前に見えた気がして、ゾッとする。
魔女がバラを盗まれたことを忘れるまで、冷凍庫に隠していようと思った。
凍らせてしまえば、バラも魔女に助けを求めることができないだろう。
だけど梨花は、綺麗なバラを見ることのできない矛盾に気が付いて重く息を吐いた。
綺麗だから欲しいと思ったのに、冷凍庫で凍らせていてはそれを眺めることができない。
それに魔女は執念深い。けして泥棒を忘れたりしないだろう。梨花を捕らえるまで追い続け、手酷い仕返しを考えることに楽しさを見出すに違いない。
許して貰うにはどうしたらいいだろうか。逃げられないと悟って梨花は冷蔵庫の中からバラを取り出した。
魔女にも心はあるはずだ。梨花が心から謝れば許してくれるかもしれない。梨花はひんやりと冷えた花を両手で包むようにして、魔女の家に引き返した。
魔女の家の門は梨花の胸くらいの高さがある。すっかり茨に覆われていて、探すのに時間を有した。
押し開くと気味の悪い音が響き、巻き付いていた蔦がブツブツと切れた。
――きっと魔女はこの門からは出入りしないのだ。
梨花はそっと庭に足を踏み入れた。
カサリ、と足下で草が笑う。見下ろすと、伸びきった草花はあらゆる方角を向いていた。
スカートを引かれて振り向けば、バラの刺が引っかかっていた。
進路を塞ぐように生えた植木を押し退け、梨花は玄関へと進んだ。
「すみません」
インターフォンが見あたらず、扉を拳で叩いた。最初は遠慮がちに恐る恐る。何度か叩いても返事がないので、最後には思い切り力を込めていた。
ギィ、と扉が啼いて開く。魔女がついに姿を現した。
背の高い青年。年齢は分からない。初めは老人かと思ったくらい真っ白い髪をしていた。
目は細く、横に切れていて、目尻に皺がないことから彼がまだ若いのだと分かる。
スッと通った鼻筋。薄い唇。絵本の中の魔女とはまるで違う容姿に、梨花は瞳を大きくした。
「何か?」
細い声。聞き逃してしまうところだった。
「バラの花を……」
梨花は手のひらを広げて、青年に花を見せた。彼は眉を寄せる。困惑した空気が伝わってきて、梨花は俯いた。
ふっ、と笑いが漏れる。驚いて見上げると、柔らかい笑みと目が合った。
「それは君にあげるよ。――さあ、中に入って。せっかく来たのだからお茶を飲んでいくといいよ」
なぜか断れなかった。