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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
眠そうな君と、たぬきの話
9/20

第9話「眠れないの」


夜。自分の部屋。宿題を広げているところに、スマホが光った。


結衣だ。グループLINEを作ったらしい。


グループ名——『鹿沼最強倶楽部』。


何だこの名前。聞くまでもない。このネーミングセンスの持ち主は地球上に結衣しかいない。「最強」と「倶楽部」を組み合わせるセンスで、グループの品位が成層圏の外に吹き飛んでいる。


メンバーを確認する。俺、椎名、航、結衣、美咲、凛。六つのアイコンが並んでいた。


結衣のアイコンは自撮り。ピースサイン、全開の笑顔。何も隠す気のない人間だ。航は霧雨魔理沙。唯一の情報開示が二次元キャラ。美咲は白い猫のぬいぐるみ。凛は湖の風景写真。水面が空を映して、境界線が消えている。自分を出さない選択が凛らしい。


椎名は——丸いたぬきの絵。あの下手くそなたぬき。線がガタガタで目が点で耳が台形。この画力で堂々とアイコンにするメンタルが逆にすごい。世界で一番下手くそで、世界で一番椎名らしい。


しかも背景が水色だった。たぬきの線の頼りなさと妙に合っている。たぶん本人は深く考えていない。でも、画面に並ぶとすぐ分かる。ああ、これは椎名だと。名前を見るより先に分かる。


通知が止まらない。


結衣『グループ作ったよー! みんなよろしく!!』

美咲『やったー!』


スタンプの嵐。猫。犬。ウサギ。謎のキャラクター。ピロンピロンピロン。スマホが手の中で痙攣している。美咲のスタンプ連打は通知欄を物理的に占拠する攻撃手段だ。


航『うるせ』


三文字。テキストでもドライ。


結衣『航テンション低すぎー! つかこのグループ名どう?』

航『最悪。変えろ』

結衣『えーーー考えたのに!』

航『何がどう最強なんだよ。六人で何に勝つつもりだ』

結衣『気持ちが最強!』

航『意味不明。名前変えろ。「1年3組有志」でいい』

美咲『それはそれでダサいよ』

結衣『「鹿沼放課後探偵団」!』

航『探偵要素ゼロだろ』

凛『昨日消えた体育倉庫の鍵とか?』

航『それお前が持ってっただけだろ』

凛『返すの忘れてただけです。名前は現状維持でいいんじゃない?』

航『よくない』

結衣『多数決ー! 「鹿沼最強倶楽部」でいい人ー!』

美咲『はーい!』

結衣『はーい! はい二票!』

航『投票者が提案者含んでるの不正だろ』

凛『棄権します』

航『お前は参加しろ。椎名と藤原は?』


『どうでもいい』


航『お前もか。頼りにならねえ』

結衣『千沙は?』


十秒。二十秒。


千沙『……たぬきは名前を気にしないよ』


結衣『面白い笑笑笑 採用! 現状維持!』

航『いつ採決されたんだよ!!!』


グループ名は変わらなかった。鹿沼最強倶楽部。航の敗北。


◇◇◇


話題が転がる。結衣と美咲のテンションで画面がどんどんスクロールされる。


から揚げの評価、明日の持ち物、凛は何でも覚えている件。話題はあちこちへ飛んで、そのたびに通知欄が埋まる。結衣が投げて、美咲が笑って、航が短く切って、凛が最低限だけ整える。昼休みの机を、そのままスマホの中へ押し込んだみたいだった。


二十二時を過ぎた頃、ようやく減速する。


結衣『おやすみー! 明日も最強倶楽部よろしく!』


美咲がスタンプ。おやすみの猫。


航は既読スルー。テキストで「おやすみ」を打つ男じゃない。


凛が『おやすみなさい』。


通知が止んで、部屋が静かになった。蛍光灯の微かな唸り。窓の外で虫が細く鳴いている。春の夜の空気が、カーテンの隙間から部屋に滲んでくる。


宿題に戻ろうとした。数学のノートを開く。関数のグラフが単調に並んでいる。さっきまでの通知の洪水が嘘のようだ。部屋の空気が急に広く、冷たく感じる。


机の上には英語の教科書と数学のノートと、シャーペンが一本。昼の教室では六人分の弁当箱がぶつかりそうなくらい並んでいたのに、今は紙と蛍光灯の白さだけがきれいに整っている。静かな部屋は嫌いじゃないはずなのに、さっきまでと落差がありすぎて、どこか手持ち無沙汰だった。


一人の夜。いつも通りの。


ただ、今日はいつもの「一人」の形が違って見える。さっきまで六人で喚していた空気の残り香が、スマホの画面の向こう側にまだある。消えたら、たぶん寝る前に少しだけ寂しくなる。


昼間に机を囲んでいた声が、夜の静けさの中で反響しているみたいだった。結衣の大声も、美咲のスタンプの勢いも、航の短いツッコミも、凛の淡々とした一言も。たった一日でできたグループのはずなのに、もう少し前からそこにあったみたいな錯覚がある。


◇◇◇


通知音のトーンが変わった。


個別トーク。


椎名千沙。たぬきのアイコンが画面の左側に浮かんでいる。


千沙『……明日の英語、教科書の範囲わかる?』


学級委員としてのフォローか、話しかけたかっただけか。判別できない。椎名の発言はいつも二通りの解釈ができるように織られている。


教科書を確認した。四十八ページから。打って、送る。


千沙『ありがとう』


会話が終わったと思った。


五秒。十秒。入力中——消えた。また入力中。消えた。あの点滅。グループLINEの時と同じだ。文字を打っては消し、打っては消している。


俺はスマホから目を離せなかった。宿題のノートに戻ればいい。でもその点滅が気になって、指が画面の上から動かない。窓の外で虫の声が間延びしている。夜が静かすぎて、スマホの画面の光が部屋の中で妙に明るい。


千沙『……たぬきは夜行性だけど、最近は人間の時間に合わせて生活するたぬきもいるの』


——何の話だ。英語の範囲を聞いた直後にたぬきの生態が挿入される。この脈絡のなさは椎名千沙にしか生み出せない。


『……何の話』


千沙『……眠れないの』


五文字。たぬきを経由しなかった。


息が止まった。


たった五文字なのに、昼間に聞くどのたぬき話より近い。スマホの小さな画面の向こうから、椎名が一歩だけ出てきた感じがした。夜はこういう距離の詰まり方をするのかもしれない。顔を見ていたら言えないことが、文字だと先に出る。


さっきまで点いたり消えたりしていた入力中の表示が、まだ頭に残っている。遠回りしかけて、やめたんだ。


夜の、この時間に。俺に。


部屋が静かだ。虫の声が細く細く鳴いている。スマホの画面が椎名のアイコンを映している。あの下手くそなたぬき。


『知らねえよ。寝ろ』


素っ気なく返した。それ以外の返し方を知らない。気の利いた言葉を選ぶ引き出しが、俺にはない。


千沙『……』


三点リーダー。沈黙の電子化。


既読。会話が終わった——と思った。


三十秒。スマホを枕元に置きかけた。


手が止まった。


「眠れないの」。あの五文字が残っている。遠回りをやめて、そのまま届いた言葉だ。それに「知らねえよ」は——あまりにも。


自分でも分からないまま、指が動いていた。


『おやすみ』


一秒。既読。


千沙『……おやすみ』


返信が速かった。


速すぎて笑いそうになった。さっきまで入力中の点滅で何十秒も迷っていたのに、「おやすみ」だけはすぐ返せる。言葉の難しさの配分がおかしい。いや、たぶん難しくない言葉だからこそ返せたんだろう。そういう単純なやり取りが、椎名にはむしろ大事なのかもしれない。


グループLINEで三点リーダーを一個送るのに一分かけていた人間が、「おやすみ」は二秒で返してきた。


——待ってたのか。


気づけば、もう一通打っていた。


『明日、授業中に寝るなよ』


既読。三秒。


千沙『……たぬきは夜に強いよ』


『朝に弱いってことだろ』


今度は少し長く入力中が点滅した。


千沙『……きみには、ばれてる』


文字を見た瞬間、胸の奥が妙にくすぐったくなった。今度は言い訳がなかった。


『そういうとこだよ』


送ってから、少し意地が悪かったかもしれないと思った。既読。入力中が点いたり消えたりする。たぶん、言い返そうとしてやめている。


画面の向こうで椎名が眉を寄せているところまで想像できた。言い返したい。でも言葉が見つからない。たぬきに逃げるか迷っている。そういう沈黙の姿が、点滅だけで分かるようになってきたのが、なんだかおかしかった。


ようやく届いたのは、短い一文だった。


千沙『……きみも、そういうとこある』


何がだよ、と返しかけてやめた。聞いたら、たぶん椎名はまたたぬきの中に隠れる。


スマホを枕元に置いた。仰向けになる。布団の中で足先が冷たい。天井が暗い。カーテンの隙間から街灯の光が細く差し込んで、天井に淡い線を引いている。


笑っている。


なぜか笑っている。「眠れないの」と言われて「知らねえよ。寝ろ」と返しただけの会話だ。中身は何もない。なのに口元が緩んでいる。止まらない。


スマホの画面が暗くなった。黒い画面に自分の顔がうっすら映っている。


——笑ってる。やっぱり笑ってる。


目を閉じた。虫の声が遠くなる。


学級委員の椎名が、英語の範囲を忘れるはずがない。


そのことだけ考えたまま、いつの間にか眠っていた。


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