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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
眠そうな君と、たぬきの話
8/19

第8話「六人目の椅子」


結衣が有言実行の女であることは、翌日の昼休みに証明された。実行に猶予期間がない。一営業日で納品してきた。


教室のドアが開く。音の質からして違う。蹴ったんじゃないかと思う勢いで結衣が二人を引き連れて現れた。廊下の空気が揺れる。獲物を仕留めてきた猟犬の表情で「呼んできた!」と宣言する。教室に残っていた数人が反射的に顔を上げた。結衣の登場は毎回、半径五メートルの空気を揺らす。


佐藤美咲と白石凛。同じクラスだが、俺はまだ名前と顔が一致する程度の関係だ。


美咲はセミロングのハーフアップ。結衣の後ろからひょっこり顔を出して「よろしくー! 東京の話、あとで聞かせて」と片手を振った。声もジェスチャーも明るい。初期設定が「陽」で出荷された人間。


凛はその半歩後ろ。「よろしく」と一言。ボブヘアに眼鏡。声は結衣の十分の一。でも存在感が薄いんじゃない。音量のダイヤルを自分で絞っているだけだ。眼鏡の奥の瞳が、静かに全員を測っている。


二人が加わっただけで、机の上の会話が急に忙しくなった。


机を寄せた。四人分にさらに二つ。椅子が足りない。美咲が「借りまーす!」と隣のクラスから一脚を片手で運んできて、凛が無言でもう一脚を引いてきた。身軽だ。


凛は椎名の前が詰まりすぎているのを見ると、自分の椅子を少しだけ後ろに引いた。誰が窮屈そうかを、一番先に見ている。


六人分の弁当と購買パンを並べると、テーブルが即座に飽和した。弁当箱同士の緩衝地帯が消滅している。そして結衣の二段式重箱が、隣のスペースに堂々とはみ出している。


「お前の弁当箱、まだはみ出してる」


航がカレーパンの袋越しに睨んだ。


「狭いのが悪い!」


「毎回お前だけ机の使い方が雑なんだよ」


「元気があるってことじゃん!」


美咲が「弁当箱にも圧ってあるんだね」と呟いた。凛が「結衣のはだいぶある」と真顔で言う。


「真顔で参戦すんな」航が突っ込む。


凛「観測結果を述べただけです」表情が微動だにしない。この人のボケはツッコミの皮を被っている。


椎名の弁当箱は六人の中で一番小さい。テーブルの端でひっそり蓋を開けている。小箱みたいに静かだ。俺の弁当箱の隣。肘と肘が十五センチくらいで並んでいる。四人の時より少し、近い。


美咲が鮭弁当の蓋を開けた。箸を取るより先に出た言葉——


「映えないなー」


味より構図。スマホのカメラを起動して、二秒で下ろした。審査不合格。鮭に向かって「もうちょっと斜めに配置してほしかった」と呟いている。


「でも、こういう机ぎゅうぎゅうの昼って、あとで見返すと結構好きなんだよね」と小さく付け足した。映えより先に、場の空気を惜しむタイプらしい。


「弁当の鮭にレイアウトの注文つける人間、初めて見た」


「え、みんな気にしない? 弁当の色彩って」


「しない」

「しねえ」

「……しない」


少し遅れて、椎名が付け足した。


「……でも、卵焼きの黄色は、きれいだよ」


箸が一瞬止まったのは俺だけじゃなかった。美咲が「え、そこなの?」と笑って、結衣が「わかる! 黄色って元気出る!」と即座に乗っかる。


椎名はそれ以上言わなかった。弁当箱に視線を落としている。俺の弁当の端にある卵焼きまで、視線が一瞬だけ滑って、すぐ戻った。


その一瞬で十分だった。六人で机を囲んでいても、椎名の視線がどこに止まるかは前より拾いやすい。こっちが慣れてきている。見逃さないことに。


俺、航、椎名の三方向から否定が揃った。美咲が「男子ってそういうとこあるよね」とため息をつく。椎名は男子ではないが、弁当の色彩設計に興味がある側にも見えない。


結衣がから揚げを掲げた。「あたしの弁当は映える?」


美咲が見た。「茶色一色だね」


「えっ」


「茶色い! 全部茶色い! お肉しかない! 野菜は!?」


「から揚げはキャベツの上に置くから実質サラダ!」


「理論が破綻してるよ結衣!」


航「毎日言ってるけど聞かねえんだよこいつ」


結衣「おいしいが正義!」


美咲「栄養は!?」


結衣「から揚げに栄養ある!」


航「ない」


結衣「タンパク質!」


航「脂質」


凛「……から揚げの一個あたりのカロリーは約七十キロカロリーで、結衣の弁当には十二個あるから合計八百四十キロカロリー」


結衣「凛なんで数えてるの!?」


凛「数えやすかったから」


教室の中に笑い声が散った。


美咲が「凛こわい!」と叫びながら笑っている。結衣が「あたしのから揚げの数を勝手にカウントしないで!」ともっと大きい声で笑っている。


航だけが頭を抱えている。


椎名がぽつり。


「……たぬきは一日に体重の十分の一を食べるの」


結衣「じゃあたぬきは四キロくらい食べるの!?」


椎名「……体重によるよ」


結衣「千沙が四十キロなら四キロ!」


椎名「……僕はたぬきじゃないよ」


結衣「今たぬきの話してたじゃん!」


椎名「…………」


返す言葉がなかったらしい。箸が止まって、一瞬、口元がほんの少し和らいだ。


その横で——椎名の肘が俺の腕に触れた。六人分の机は狭い。触れたのは偶然だ。でも、いつもの冷たさではなかった。温度がある。この人の体温は、教室の喧噪の中で少しだけ上がっている。


椎名は腕を引かなかった。一秒、二秒。箸を動かすタイミングで自然に離れた。触れていた場所だけ、じんわりと温かい。


「あ」


美咲がにやっとした声を出した。嫌な予感しかしない一音。


「今、肘ぶつかったでしょ」


「机が狭いだけだろ」


「でもどっちも引かなかったよね?」


「観察すんな」


「だって目の前なんだもん」


結衣が即座に食いつく。「え、何何!?」


航がパンの袋を丸めながら言った。「お前はまず自分の弁当箱の領土を引っ込めろ」


議題がそっちに流れた。助かった。椎名は何も言わない。ただ弁当箱の端を親指でそっと押さえている。その耳が、ほんの少しだけ赤かった。


六人で囲む机は狭い。狭いのに、不思議と窮屈じゃない。誰かの声が必ずどこかで鳴っていて、誰かの笑いがそれに重なる。その真ん中で、椎名の小さな弁当箱だけが相変わらず静かで、その静けさごと机の一部になっていた。

六人で囲む机は狭い。その真ん中で、椎名の小さな弁当箱だけが相変わらず静かだった。


◇◇◇


後半。


美咲のスマホがピロンと鳴った。LINEだ。にこにこしながら返信を打ち始める。画面に向けている時の目が、ふっと柔らかくなった。フリックの速度が異常に速い。親指だけがプロだ。でも打ち終えてスマホを伏せた瞬間、ほんの一拍だけ表情が冷えた。画面の光が消えたことに気づいて、慌てて笑顔を作り直す。その切り替えは速いが、繋ぎ目が見えた。


航がそれを——ほんの一瞬だけ見た。画面じゃない。美咲の横顔を。すぐにカレーパンの紙を丸めて、視線を戻した。


俺以外は誰も気づいていない。あの視線の意味は、まだ読めない。記録だけしておく。


結衣の箸が椎名の弁当に伸びた。


「ちさ、それ美味しそう! 一口ちょうだい!」


「……ダメ」


弁当箱が手前に二センチ移動した。静かな領土防衛。永世中立国にも国防意識はある。


「ケチ!」


航「諦めろ」


結衣「えー!」


美咲「結衣うるさい」


結衣「うるさくない!」


——いちばん大きい声。この人の音量には制御装置がついていない。全開きでしか動かない蛇口。


凛が俺に小さな声で話しかけてきた。騒がしさに紛れる音量。


「藤原くん、鹿沼はどう? 慣れた?」


「……まだ全然」


「そのうち慣れるよ」


少しだけ口元が和らぐ。「困ったら結衣じゃなくて、先に私に聞いて。あの人、話を二倍にするから」


「聞こえてるからね!?」と遠くで結衣が抗議した。普通に聞こえていたらしい。


穏やかな微笑み。でもその裏に情報量がある。「まだ全然」という回答を、凛は静かにどこかに保存した。そんな感触。


凛はたぶん、誰が何に困っているかを先に拾う。そのうえで必要なぶんしか口を出さない。親切を大声で置かない人間は、それだけでかなりありがたい。結衣が前から引っ張るなら、凛は横から通り道を作るタイプなんだろう。


結衣が購買に行った隙に、凛がもうひとつ。


「藤原くん。椎名さんの隣、落ち着くでしょ」


「……別に。席順だろ」


「うん。席順だね」


凛はそれだけ言って、箸に視線を戻した。否定も肯定もしない。ただ「私は見てるよ」という事実を、音もなくテーブルの上に置いていった。


——この人は、怖い。


◇◇◇


片付けが始まった。弁当箱の蓋を閉じる音がぱたぱた重なる。


結衣が伸びをして「あー食べた!」と声を上げた。美咲がスマホをしまう。


航が机を元の位置に動かし始めた。


椎名が帰り支度をしながら、ふと俺の方を見た。口が動きかけて、閉じた。瞼は曖昧なのに、その奥の温度がほんの少し明るい。


聞かない。椎名が言葉を選ぶまで待つ。二週間かけて学んだルールだ。


椎名は結局何も言わなかった。でも、小さな弁当箱の蓋を結ぶ手つきがいつもより丁寧だった。藍色のハンカチで包む所作が、一回多い。三回折って、端を揃えて、結び目を作る。弁当を包む動作にも、椎名の性格が出る。正確で、丁寧で、少しだけ慎重すぎる。


言葉にならないままでも、機嫌の良し悪しはそういうところに滲む。たぬきの話をしない日でも、耳の色や弁当箱の包み方や、ふとした視線の明るさで分かることがある。最近、そういうのを拾えるようになってきた。


「また明日ね!」


結衣が手を振った。腕が肩より高く上がって、手首がぶんぶん回る。三メートルの距離に対してオーバースペックな振り方。結衣の「また明日」は予告であり宣言であり、拒否不可能な召集令状だ。


六人がばらばらの方向に散っていく。


——六人になった。


東京でも似たようなことがあった。放課後に教室に残って、くだらない話をして、「また明日」と言い合った。でもあの「また明日」は、ある日突然、次が来なくなった。


小骨が喉に引っかかる。振り払うように、鞄の肩紐を握り直した。


帰り道。ふと思い出す。凛がスマホを触っていた。一瞬だけ画面が見えた。写真だった。六人で机を囲んでいる一枚。構図が自然で、誰もカメラを意識していない。結衣が笑って、航が溜め息をついて、美咲がスマホを見て、椎名が卵焼きを箸で持ち上げた瞬間。俺は——俺はどんな顔をしていただろう。


凛はそれを、黙ってアルバムに保存していた。いつ撮ったのかも分からない。あの子はシャッターを切る音も立てない。カメラを向けるという行為自体が、凛にとっては呼吸みたいに自然なものなのかもしれない。言葉の代わりにレンズで世界を切り取る。そういう人もいる。


駅のホームに着いた。今日は航が先に改札を通った。いつもの片手を上げて、指がひらっと開いて、すぐ下りた。航の「また明日」。


ベンチに座った。ホームの石畳が尻の下で温い。向かいの山の稜線が夕日で輪郭を描いている。風が線路沿いの雑草を揺らす。


——良い写真だったと思う。


六人のうち誰が主役、という写真じゃなかった。全員が勝手に喋って、勝手に食べて、勝手に笑っているだけの一枚。それなのに、ちゃんと「今」が閉じ込められていた。もし何年か経って見返したら、たぶん今日の空気ごと一緒に思い出す。


明日もあの机に六人が集まる。結衣の声量で「集合!」と叫ばれたら、半径二十メートルに逃げ場はない。


それでいい。逃げたくもない。


ベンチで電車を待ちながらグループLINEを開くと、もう結衣が『明日も集まるよね!?』と送っていた。美咲がすぐスタンプで返し、航が『強制すんな』と撃ち返している。凛は既読だけつけて、椎名はまだ何も送っていない。


でも、たぶん来るんだろうと思った。六人目の椅子が、もう仮置きの椅子には見えなかったからだ。


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