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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
眠そうな君と、たぬきの話
7/19

第7話「六人いると静かじゃない」


昼休み。航と机を並べて弁当を広げていた。航はいつも通りカレーパンとメロンパン。俺は母の弁当。卵焼きとほうれん草のおひたしと鮭。


窓から入る四月の風が、カーテンの裾を立たせている。遊びに行く連中の足音と笑い声が廊下を流れていく。教室に残っているのは半分くらい。穏やかな昼だった。

「お前の母ちゃん毎日弁当作んの?」


「まあ」


「偉いな」


「俺は食ってるだけだけどな」


「違いねえ」


航がカレーパンの袋を破いた。


——嵐が来るまでは。


「あんたが転校生の藤原? あたし松本結衣! 一緒に食べよ!」


声がデカい。


教室の空気を正面からぶち破ってくる音圧だった。後ろの席の奴が振り返り、隣のクラスの廊下側からも誰か覗いている。ポニーテールが揺れる。弁当箱を片手にこっちへ突進してくるこの女子は、「一緒に食べよ」と言いながら返事を待つ気がゼロだった。既に自分の椅子を引きずっている。ガガガ、と床を削る音。さっきまでの穏やかな空気が一瞬で吹き飛んだ。


目が合った。茶色の大きな目。笑うと細くなるタイプじゃなく、笑っても怒っても全開のままの目だ。全力。表情が全部全力。愛想笑いとか媚びとかいう進化の概念がない。デフォルトが「全開」。


航が「うるっせ」と呟いた。トゲはない。日常的に浴びている騒音への自然な反射だ。結衣は完全にガン無視した。条件反射的な拒否と条件反射的な無視。こいつらの間ではこれで通信が成立しているらしい。


「ちさ、こっち来なよ!」


振り返ると、結衣はもう椎名の腕を掴んでいた。いつ移動した。声だけでなくフットワークも速い。


「……引っ張らないで」


「いいからいいから!」


椎名が連行されてくる。台風に逆らっても消耗するだけだと本能で悟った顔をしている。


でも完全に嫌がっているわけでもない。腕を掴まれているくせに、振り払わない。結衣の圧をまともに受け止めると疲れるから、最小限の抵抗でやり過ごしているだけだ。椎名の省エネはこういう時によく分かる。


四人で机を囲む。狭い。結衣の弁当箱がでかい。二段式で、蓋を開けた瞬間にから揚げの匂いがぶわっと広がった。弁当箱というより重箱に近い。上段がから揚げ。下段もから揚げ。


「それ全部から揚げ?」


「うん! から揚げだけは得意!」


「いや量が——」


「食べる?」


「いや」


「遠慮しないでよ!」


しない暇がない。結衣がから揚げをひとつ、俺の弁当箱の上に乗せた。物理的に。会話の流れとか意思の確認とかすっ飛ばして、から揚げが着地した。俺の鮭の上に。鮭が見えない。


航「勝手に人の弁当に物乗せんな」


結衣「航もあげよっか?」


航「いらねえ」


結衣「はい」


航の手の上にから揚げが乗った。から揚げの強制力。返す場所がない。航は黙って食べた。抵抗の意味がない。から揚げに拒否権はない。


椎名はその横で自分の弁当を黙々と食べている。小さな弁当箱。卵焼きと煮物。結衣の弁当の半分以下の体積。弁当箱に個性が出すぎている。


「それで藤原! 東京ってどんな感じ? 人多い? 電車すぐ来る?」


「多いし、来る」


「やっぱ! マジで鹿沼何もないでしょ!?」


「まあ」


「コンビニ遠いでしょ!? 自販機コーナーとか行く?」


「行かな——」


「彼女いた?」


質問の最後まで聞けない。矢継ぎ早。フリック入力より速い口。しかも話題の跳躍がすごい。コンビニから彼女に飛ぶか。


「いねえよ」


「えー! マジで!?」


何がマジでなんだ。いない方が驚かれる理由が分からない。


「好きな食べ物は?」


「特にない」


「嘘でしょ!? 世の中にはから揚げっていう最高の食べ物があるのに!?」


「から揚げ布教するな」


「から揚げ食べない人とは友達になれないかも……」


さっき強制的に乗せただろう。もう食べている。友達の条件をクリアしてしまった。


航が「うるっせ」と三度目を放った。


結衣「航は黙ってて!」


秒で迎撃。航の溜め息が結衣の声量に呑まれて消えた。


「趣味は?」


「東方」


「東方って何?」


「ゲーム、みたいなもの」


「へー! 航もそれ好きだよね?」


航「……まあ」


結衣「二人で仲良くゲームしてんだ!」


航「ゲームつうか——」


結衣「かわいー!」


航の説明が「かわいー!」に撃墜された。航が俺を見た。「お前からも何か言え」の目。俺は目を逸らした。


椎名は黙々と食べている。結衣の嵐に全く巻き込まれていない。同じ空間にいるのに、椎名の周りだけ凪いでいる。食べるペースも乱れない。


結衣がふと椎名を見た。


「ちさ、昨日のテストどうだった?」


「……普通」


「あたし数学死んだー。航に見せてもらおうかな」


航「勝手に見んな」


結衣「ケチ!」


航「ケチじゃなくて拒否だ」


結衣が「えー」と文句を言いながらから揚げを口に放り込んだ。声を出しながら食べている。器用だ。行儀は悪い。


椎名がぽつり。


「……たぬきは、テストを受けないよ」


沈黙。一拍。


結衣が口の中のから揚げを飲み込んで、椎名を見た。


「何それ!」


大きな声で笑った。屈託なく。


「千沙って変なこと言うよね! 面白い!」


悪気がないから、その一言だけで教室の空気が笑いに変わった。


「でしょ!?」と結衣が椅子を鳴らす勢いで乗っかる。もはや教室の片隅で、たぬき理論研究会が勝手に発足している。


椎名の箸が止まった。


ちょっとだけ驚いた顔をしていた。〇・三秒。すぐに薄目に戻る。でも——俺の目はそれを拾った。箸を持つ指先の力が、一瞬だけ緩んだ。卵焼きが箸の上で少し滑った。


椎名はすぐには何も言わなかった。言葉の代わりに、弁当箱の端を親指でそっと押さえる。癖みたいな小さな動き。それから、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。緊張が全部解けたわけじゃない。でも、結衣の声量のど真ん中で、椎名の周りの空気だけがほんの少し柔らかくなった。


◇◇◇


弁当の後半戦。会話を結衣が回し、航が溜め息を担当し、椎名が相槌を打ち、俺が被弾する。転校生というだけで結衣の好奇心センサーに全弾ロックオンされている。


結衣がから揚げの最後のひとつを口に放り込んで、俺と椎名を交互に見た。テニスの審判みたいな首の振り方。


「あんたら隣同士なんだ。仲良いじゃん」


椎名の箸が止まった。米粒がひとつ、箸先から弁当箱に落ちた。


「別に普通だろ」と俺。


「ふーん?」


にやにや。この「ふーん?」は危険だ。言葉の裏に何か仕込んでいる。


航が「やめとけ」と低い声で制止した。経験に基づいた制止の精度。結衣のこの顔の先に何が来るか、過去に複数回観測した男の声だ。


結衣はにやにやを解除しなかった。


「え、だってさー、先週千沙に教科書見せてあげてたでしょ? あたし見たよ?」


「隣同士なら普通だろ」


「普通かなー?」


普通だ。隣の席のクラスメイトに教科書を見せる。それだけだ。


航が何度目かの溜め息をついた。今日これで片手を超えた。


「……航は何回溜め息つくの?」


椎名がぼそっと言った。


航「お前が言うか」


椎名「たぬきは溜め息をつかないよ」


航「…………」


航が俺を見た。助けを求める目。俺は肩をすくめた。


結衣が「千沙それどういう意味!?」と笑いながら身を乗り出した。机が揺れる。俺の弁当箱が滑った。


椎名がぽつり。


「……たぬきは群れると安心するの」


結衣がきょとんとして、またすぐ笑った。


「じゃあ今日から群れじゃん。あたし、そういうの好き」


椎名の表情がわずかに和らいだ。笑顔には足りないけれど、緊張の糸がひとつ緩んだ顔。

結衣はもう次の話題に乗っていた。置いた言葉の重さなんて、たぶん自分でも数えていない。


◇◇◇


予鈴。


結衣が椅子から立ち上がりながら宣言した。


「明日も一緒ね! あ、美咲と凛も呼ぶから!」


航「勝手に決めんな」


結衣「いいでしょ別にー! 多い方が楽しいじゃん!」


航「楽しいのはお前だけだ」


結衣「航も楽しそうだったでしょ!」


航「どこが」


結衣「から揚げ食べたじゃん」


航「それ食事だよ。楽しいかどうかの指標にすんな」


結衣は「あはは!」と笑ってスルーした。航の正論が綺麗に弾かれていく。


去り際に結衣が椎名の肩をぽんと叩いた。友達にやるような、軽い自然なスキンシップ。


椎名が叩かれた肩を見た。不思議そうに。それから左手で、叩かれた場所をそっと触った。触れられることに慣れていない手つき。確かめるように、指先が肩の上を撫でる。


「ちさ、はい!」


結衣が急に右手を上げた。ハイタッチ待機の姿勢。説明ゼロ。


椎名がその手と結衣の顔を見比べる。二秒。三秒。処理が追いつかない顔。


航がもう駄目だという顔で額を押さえている。たぶん止めても無駄だと知っているんだろう。結衣は待つ気がないし、椎名はこの手の文化を一度頭の中で辞書引きしないと動けない。


「こう!」


結衣が自分の左手を右手で叩いて見せた。実演付き。騒がしい家庭教師だ。


椎名がゆっくり右手を上げる。指先が少しためらっている。結衣の手に、ぺち、と軽く触れた。音としては拍手未満。でも結衣は満面の笑みで「よし!」と頷いた。条件を満たした判定らしい。


椎名は自分の手のひらを見た。触れた温度を確認するみたいに。一秒遅れて、口元がほんの少しだけ緩む。


「……群れは、賑やかだね」


「でしょ!」


結衣が得意げに胸を張る。自分の声量が賑やかさの八割を占めている自覚はなさそうだった。


「……何」


「何ってハイタッチ!」


「……どうして」


「今日は友達記念日だから!」


理屈が雑だ。だが結衣にとっては十分な理由らしい。


椎名は少し迷ってから、恐る恐る手を上げた。高さが全然足りない。結衣の手の下をすり抜ける軌道だ。


「ちがうちがう、もっとこう、ぱーんって!」


「……ぱーん」


言いながらやるな。


結衣が笑って、椎名の手に自分の手を軽く合わせた。ぱちん、と小さな音。勢いはない。でもちゃんとハイタッチだった。


椎名が目を瞬いた。驚いたみたいに。そのあと、ほんの少しだけ口元が緩む。


「……うるさいね」


「褒め言葉でしょ!」


航がゴミをまとめながら呟いた。


「あいつと絡むとカロリー消費がすごい」


「分かる」


「……まあ、悪い奴じゃねえけどな」


フォローが入った。航は結衣の悪口を言い切らない。毎回、「うるっせ」の後に小さな訂正が入る。言葉では文句を言いつつ、結衣のペースに巻き込まれている自分を許容している。そのバランスの取り方が、航らしい。


椎名が自分の席に戻りながら、小さく言った。


「……賑やかだね」


嫌そうじゃない。初めて触れた温度を確かめるような声。


窓の外から桜の花びらがひとひら、教室の中に入ってきた。ゆっくり漂って、椎名のノートの端に着地した。


椎名はそれを指でつまんで——ノートの間に挟んだ。


捨てなかった。あの、たぬきの落書きが並ぶノートに。


胸の奥で、何か柔らかいものが動いた。名前がつく前の、小さな動き。


明日、六人分の椅子が必要になる。


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