第7話「六人いると静かじゃない」
昼休み。航と机を並べて弁当を広げていた。航はいつも通りカレーパンとメロンパン。俺は母の弁当。卵焼きとほうれん草のおひたしと鮭。
窓から入る四月の風が、カーテンの裾を立たせている。遊びに行く連中の足音と笑い声が廊下を流れていく。教室に残っているのは半分くらい。穏やかな昼だった。
「お前の母ちゃん毎日弁当作んの?」
「まあ」
「偉いな」
「俺は食ってるだけだけどな」
「違いねえ」
航がカレーパンの袋を破いた。
——嵐が来るまでは。
「あんたが転校生の藤原? あたし松本結衣! 一緒に食べよ!」
声がデカい。
教室の空気を正面からぶち破ってくる音圧だった。後ろの席の奴が振り返り、隣のクラスの廊下側からも誰か覗いている。ポニーテールが揺れる。弁当箱を片手にこっちへ突進してくるこの女子は、「一緒に食べよ」と言いながら返事を待つ気がゼロだった。既に自分の椅子を引きずっている。ガガガ、と床を削る音。さっきまでの穏やかな空気が一瞬で吹き飛んだ。
目が合った。茶色の大きな目。笑うと細くなるタイプじゃなく、笑っても怒っても全開のままの目だ。全力。表情が全部全力。愛想笑いとか媚びとかいう進化の概念がない。デフォルトが「全開」。
航が「うるっせ」と呟いた。トゲはない。日常的に浴びている騒音への自然な反射だ。結衣は完全にガン無視した。条件反射的な拒否と条件反射的な無視。こいつらの間ではこれで通信が成立しているらしい。
「ちさ、こっち来なよ!」
振り返ると、結衣はもう椎名の腕を掴んでいた。いつ移動した。声だけでなくフットワークも速い。
「……引っ張らないで」
「いいからいいから!」
椎名が連行されてくる。台風に逆らっても消耗するだけだと本能で悟った顔をしている。
でも完全に嫌がっているわけでもない。腕を掴まれているくせに、振り払わない。結衣の圧をまともに受け止めると疲れるから、最小限の抵抗でやり過ごしているだけだ。椎名の省エネはこういう時によく分かる。
四人で机を囲む。狭い。結衣の弁当箱がでかい。二段式で、蓋を開けた瞬間にから揚げの匂いがぶわっと広がった。弁当箱というより重箱に近い。上段がから揚げ。下段もから揚げ。
「それ全部から揚げ?」
「うん! から揚げだけは得意!」
「いや量が——」
「食べる?」
「いや」
「遠慮しないでよ!」
しない暇がない。結衣がから揚げをひとつ、俺の弁当箱の上に乗せた。物理的に。会話の流れとか意思の確認とかすっ飛ばして、から揚げが着地した。俺の鮭の上に。鮭が見えない。
航「勝手に人の弁当に物乗せんな」
結衣「航もあげよっか?」
航「いらねえ」
結衣「はい」
航の手の上にから揚げが乗った。から揚げの強制力。返す場所がない。航は黙って食べた。抵抗の意味がない。から揚げに拒否権はない。
椎名はその横で自分の弁当を黙々と食べている。小さな弁当箱。卵焼きと煮物。結衣の弁当の半分以下の体積。弁当箱に個性が出すぎている。
「それで藤原! 東京ってどんな感じ? 人多い? 電車すぐ来る?」
「多いし、来る」
「やっぱ! マジで鹿沼何もないでしょ!?」
「まあ」
「コンビニ遠いでしょ!? 自販機コーナーとか行く?」
「行かな——」
「彼女いた?」
質問の最後まで聞けない。矢継ぎ早。フリック入力より速い口。しかも話題の跳躍がすごい。コンビニから彼女に飛ぶか。
「いねえよ」
「えー! マジで!?」
何がマジでなんだ。いない方が驚かれる理由が分からない。
「好きな食べ物は?」
「特にない」
「嘘でしょ!? 世の中にはから揚げっていう最高の食べ物があるのに!?」
「から揚げ布教するな」
「から揚げ食べない人とは友達になれないかも……」
さっき強制的に乗せただろう。もう食べている。友達の条件をクリアしてしまった。
航が「うるっせ」と三度目を放った。
結衣「航は黙ってて!」
秒で迎撃。航の溜め息が結衣の声量に呑まれて消えた。
「趣味は?」
「東方」
「東方って何?」
「ゲーム、みたいなもの」
「へー! 航もそれ好きだよね?」
航「……まあ」
結衣「二人で仲良くゲームしてんだ!」
航「ゲームつうか——」
結衣「かわいー!」
航の説明が「かわいー!」に撃墜された。航が俺を見た。「お前からも何か言え」の目。俺は目を逸らした。
椎名は黙々と食べている。結衣の嵐に全く巻き込まれていない。同じ空間にいるのに、椎名の周りだけ凪いでいる。食べるペースも乱れない。
結衣がふと椎名を見た。
「ちさ、昨日のテストどうだった?」
「……普通」
「あたし数学死んだー。航に見せてもらおうかな」
航「勝手に見んな」
結衣「ケチ!」
航「ケチじゃなくて拒否だ」
結衣が「えー」と文句を言いながらから揚げを口に放り込んだ。声を出しながら食べている。器用だ。行儀は悪い。
椎名がぽつり。
「……たぬきは、テストを受けないよ」
沈黙。一拍。
結衣が口の中のから揚げを飲み込んで、椎名を見た。
「何それ!」
大きな声で笑った。屈託なく。
「千沙って変なこと言うよね! 面白い!」
悪気がないから、その一言だけで教室の空気が笑いに変わった。
「でしょ!?」と結衣が椅子を鳴らす勢いで乗っかる。もはや教室の片隅で、たぬき理論研究会が勝手に発足している。
椎名の箸が止まった。
ちょっとだけ驚いた顔をしていた。〇・三秒。すぐに薄目に戻る。でも——俺の目はそれを拾った。箸を持つ指先の力が、一瞬だけ緩んだ。卵焼きが箸の上で少し滑った。
椎名はすぐには何も言わなかった。言葉の代わりに、弁当箱の端を親指でそっと押さえる。癖みたいな小さな動き。それから、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。緊張が全部解けたわけじゃない。でも、結衣の声量のど真ん中で、椎名の周りの空気だけがほんの少し柔らかくなった。
◇◇◇
弁当の後半戦。会話を結衣が回し、航が溜め息を担当し、椎名が相槌を打ち、俺が被弾する。転校生というだけで結衣の好奇心センサーに全弾ロックオンされている。
結衣がから揚げの最後のひとつを口に放り込んで、俺と椎名を交互に見た。テニスの審判みたいな首の振り方。
「あんたら隣同士なんだ。仲良いじゃん」
椎名の箸が止まった。米粒がひとつ、箸先から弁当箱に落ちた。
「別に普通だろ」と俺。
「ふーん?」
にやにや。この「ふーん?」は危険だ。言葉の裏に何か仕込んでいる。
航が「やめとけ」と低い声で制止した。経験に基づいた制止の精度。結衣のこの顔の先に何が来るか、過去に複数回観測した男の声だ。
結衣はにやにやを解除しなかった。
「え、だってさー、先週千沙に教科書見せてあげてたでしょ? あたし見たよ?」
「隣同士なら普通だろ」
「普通かなー?」
普通だ。隣の席のクラスメイトに教科書を見せる。それだけだ。
航が何度目かの溜め息をついた。今日これで片手を超えた。
「……航は何回溜め息つくの?」
椎名がぼそっと言った。
航「お前が言うか」
椎名「たぬきは溜め息をつかないよ」
航「…………」
航が俺を見た。助けを求める目。俺は肩をすくめた。
結衣が「千沙それどういう意味!?」と笑いながら身を乗り出した。机が揺れる。俺の弁当箱が滑った。
椎名がぽつり。
「……たぬきは群れると安心するの」
結衣がきょとんとして、またすぐ笑った。
「じゃあ今日から群れじゃん。あたし、そういうの好き」
椎名の表情がわずかに和らいだ。笑顔には足りないけれど、緊張の糸がひとつ緩んだ顔。
結衣はもう次の話題に乗っていた。置いた言葉の重さなんて、たぶん自分でも数えていない。
◇◇◇
予鈴。
結衣が椅子から立ち上がりながら宣言した。
「明日も一緒ね! あ、美咲と凛も呼ぶから!」
航「勝手に決めんな」
結衣「いいでしょ別にー! 多い方が楽しいじゃん!」
航「楽しいのはお前だけだ」
結衣「航も楽しそうだったでしょ!」
航「どこが」
結衣「から揚げ食べたじゃん」
航「それ食事だよ。楽しいかどうかの指標にすんな」
結衣は「あはは!」と笑ってスルーした。航の正論が綺麗に弾かれていく。
去り際に結衣が椎名の肩をぽんと叩いた。友達にやるような、軽い自然なスキンシップ。
椎名が叩かれた肩を見た。不思議そうに。それから左手で、叩かれた場所をそっと触った。触れられることに慣れていない手つき。確かめるように、指先が肩の上を撫でる。
「ちさ、はい!」
結衣が急に右手を上げた。ハイタッチ待機の姿勢。説明ゼロ。
椎名がその手と結衣の顔を見比べる。二秒。三秒。処理が追いつかない顔。
航がもう駄目だという顔で額を押さえている。たぶん止めても無駄だと知っているんだろう。結衣は待つ気がないし、椎名はこの手の文化を一度頭の中で辞書引きしないと動けない。
「こう!」
結衣が自分の左手を右手で叩いて見せた。実演付き。騒がしい家庭教師だ。
椎名がゆっくり右手を上げる。指先が少しためらっている。結衣の手に、ぺち、と軽く触れた。音としては拍手未満。でも結衣は満面の笑みで「よし!」と頷いた。条件を満たした判定らしい。
椎名は自分の手のひらを見た。触れた温度を確認するみたいに。一秒遅れて、口元がほんの少しだけ緩む。
「……群れは、賑やかだね」
「でしょ!」
結衣が得意げに胸を張る。自分の声量が賑やかさの八割を占めている自覚はなさそうだった。
「……何」
「何ってハイタッチ!」
「……どうして」
「今日は友達記念日だから!」
理屈が雑だ。だが結衣にとっては十分な理由らしい。
椎名は少し迷ってから、恐る恐る手を上げた。高さが全然足りない。結衣の手の下をすり抜ける軌道だ。
「ちがうちがう、もっとこう、ぱーんって!」
「……ぱーん」
言いながらやるな。
結衣が笑って、椎名の手に自分の手を軽く合わせた。ぱちん、と小さな音。勢いはない。でもちゃんとハイタッチだった。
椎名が目を瞬いた。驚いたみたいに。そのあと、ほんの少しだけ口元が緩む。
「……うるさいね」
「褒め言葉でしょ!」
航がゴミをまとめながら呟いた。
「あいつと絡むとカロリー消費がすごい」
「分かる」
「……まあ、悪い奴じゃねえけどな」
フォローが入った。航は結衣の悪口を言い切らない。毎回、「うるっせ」の後に小さな訂正が入る。言葉では文句を言いつつ、結衣のペースに巻き込まれている自分を許容している。そのバランスの取り方が、航らしい。
椎名が自分の席に戻りながら、小さく言った。
「……賑やかだね」
嫌そうじゃない。初めて触れた温度を確かめるような声。
窓の外から桜の花びらがひとひら、教室の中に入ってきた。ゆっくり漂って、椎名のノートの端に着地した。
椎名はそれを指でつまんで——ノートの間に挟んだ。
捨てなかった。あの、たぬきの落書きが並ぶノートに。
胸の奥で、何か柔らかいものが動いた。名前がつく前の、小さな動き。
明日、六人分の椅子が必要になる。




