第6話「イヤホンの片方」
航が「飯食うか」と言った。
四時間目のチャイムと同時に、後ろの席から椅子ごとにじり寄ってきた。購買のパンを俺の机に置く。カレーパンとメロンパン。
「お前それ毎日同じだな」
「迷うのがめんどくせえ。カレーパンは塩分。メロンパンは糖分。栄養バランス完璧」
「小麦粉と小麦粉でバランス取れてると思ってるのか」
「わかってんじゃん」
「褒めてない」
弁当箱を開ける。卵焼きが、いつもより一切れ多かった。
昨夜の母とのやり取りを思い出す。『誰かにあげるの?』『女の子?』。余計な会話までセットで蘇ってきて、蓋を開けた瞬間に少しだけ気まずくなった。
なのに今日に限って、椎名はいない。
一切れ多い卵焼きが、弁当箱の端で浮いていた。
なのに今日に限って、椎名はいない。隣の席だけがぽかんと空いていて、左側の空気が妙に広い。たぬきの話も、弁当箱の小さな音もない。たった一週間半で、ずいぶん慣らされていたらしい。
今朝の「……おはよう」は短かった。たぬきも出なかった。近づいたのか遠ざかったのか、まだ判定がつかない。
たぬきが出ない日のほうが、逆に気になる。いつも変な比喩で一枚噛ませてくる相手が、急に普通の返事だけ置いていくと、そこに何を引っ込めたのかを考えてしまう。面倒くさい話し方に慣らされると、人はこうなるらしい。
「東方の新しいアレンジ聴いた?」
航の声で意識が戻った。
「どの?」
「サークルの。ピアノの」
「ああ、あれ。聴いた」
航が身を乗り出す。「あのイントロのフレーズ、原曲の裏メロ使ってるの気づいた?」
気づいてた。そこから音楽の話が回りだした。航は好きなものの話になると声が半音上がる。口元も緩む。教室の「めんどくせ」モードとは別人格だ。
「それよりさ」と航がメロンパンの頭を齧りながら言った。
「お前の弁当、毎日卵焼き入ってるよな」
「母の十八番だからな」
「今日一個多くね?」
「気のせいだろ」
「いや多い。しかも綺麗なのが一番手前にある。見せたい卵焼きの置き方」
「卵焼きに見せたいとかねえよ」
「じゃあ誰かにあげる用?」
航の観察眼は本当に要らないところで切れ味がいい。弁当箱の一切れ増えただけで、どうしてそこまで話が伸びる。
「違う」
「ふーん」
「ふーん。椎名さんもいつも卵焼き見てない?」
箸が止まった。
「……見てるか?」
「何回かは見てるだろ。後ろの席でも分かる時あるぞ。お前が弁当の蓋開けた瞬間にちらっと見て、すぐ戻す」
後ろの席から俺と椎名の横並びを見ている。斜め後方の視界があるのは分かるが、それでも十分すぎる。
「お前の席はスナイパーポイントかよ」
「暇だから照準合ってるだけ。梅干しで顔しかめてるのとか、後ろからでもわかるし」
「観察力の無駄遣いがすぎるだろ」
「使い道がないからお前に報告してる」
「報告するな。あとこんにゃくは?」
「嫌いだろあの人。箸でつついてるだけで全然減ってない」
それでも十分見すぎだ。航、お前は何の任務で昼休みを過ごしてるんだ。
「つーかお前も見すぎだろ」
「見えるんだよ。後ろの席だぞ」
「だからってそこまで拾うな」
「じゃあ藤原も見てんじゃん」
返せなかった。航がメロンパンをちぎりながら、わずかに口元を上げる。勝った時の顔だ。腹立つくらい分かりやすい。
こいつはたぶん、普段から教室の中をかなり見ている。興味がなさそうな顔で、人の癖とか、距離の詰まり方とか、そういうどうでもよさそうなものだけ妙に正確に拾う。めんどくさがりのくせに観測精度だけ高い。厄介だ。
◇◇◇
五時間目。理科。
先生が原子の構造について話している。窓が半分開いていて、グラウンドの石灰の匂いが微かに入ってくる。四月の午後は眠い。
背後で小さな音。コツン。シャーペンが椅子の脚に当たって転がる。
「わりい」
航の声。拾って後ろに渡す。指が触れた瞬間——視界の端で。
椎名がちらっとこちらを見ていた。一瞬。俺の手元を追って、航の方を見て、また前を向いた。横顔が西日の手前で影になっている。昨日までなら、何かたぬきの話が出てきたはずだ。「たぬきは物を拾ってあげる習性があるの」とか、そういうやつ。今日の椎名は、目が合わないうちに逸らした。ノートに向かうシャーペンの角度が、わずかに内側を向いている。
耳の色はいつも通り。平常運転なのか、そう装っているのか。教科書の余白が見えた。今日もたぬきが増えている。
授業が終わる。椎名が教科書を閉じる音は、いつもより丁寧だった。机の上を整えて、筆箱を揃えて、それからようやくこちらを見た。ほんの少しだけ。
「……委員会、長かった」
それだけ。報告みたいな一言。
言い訳じゃなく、事実だけ出してくるところが椎名らしい。来られなかった理由を説明するでもなく、寂しかったかどうかを訊くでもなく、「長かった」とだけ置く。その短さの中に、少しだけ遅れてきた会話の続きみたいなものがある。
「そうらしいな」
椎名の視線が、机の上の弁当箱に一瞬だけ落ちた。もう蓋は閉まっている。卵焼きの一切れは、結局ずっとそこに残っていた。
「……卵焼き」
「ん?」
「……今日、食べなかったの」
そこを見るのかよ、と思った。航の観測報告といい、この町には卵焼きの本数を数える連中が多すぎる。
「タイミング逃しただけだ」
「……そう」
椎名はそれ以上聞かなかった。でも、椎名が自分の席に座る前に、俺の弁当箱の端をもう一度ちらっと見たのを、見逃さなかった。
その視線は、卵焼きそのものを見るというより、「今日はどうだったか」を確かめる視線だった。来られなかった昼休みを、机の上の痕跡で追いかけるみたいな見方。考えすぎかもしれない。でも、そういうふうに見えた。
俺もそれだけ返す。
椎名は小さく頷いて、鞄にノートをしまった。続きそうで続かない会話。昨日より近いのか、今朝より近いのか、そのくらいしか測れない。でもゼロではない。その事実だけが、妙に胸に残った。
放課後。航が鞄を肩にかけながら言った。
「椎名さんと仲いいな」
唐突だった。
「別に。隣の席だからだろ」
「ふーん」
航の「ふーん」には温度がない。肯定でも否定でもない。ただ、こちらの反応を記録している音だ。
「めんどくせ」
「何が」
「言語化するのがめんどくせえんだよ」
航はそれだけ言って先に教室を出た。肩が揺れている。笑っている。背中しか見えないが、あの肩の角度は確実に笑っている。
◇◇◇
帰りの電車待ち。いつものベンチ。
航がイヤホンの片方を外して差し出す。もう儀式だ。今日は俺が曲を選んだ。ジャズアレンジ。再生数が三桁の地味なやつ。
航が目を細めた。
「お前、こっちのアレンジ知ってんだ」
「舐めんな」
「……いや、嬉しいだけ」
ぼそっと。すぐ咳払いで上書きしたが、遅い。
「今、嬉しいって言った?」
「言ってねえ」
「言った。録音しとけばよかった」
「殺すぞ」
「嬉しいって言えるようになったんだな、航は。成長したな」
「黙れ。イヤホン返せ」
「いやだ。返したら証拠隠滅されるから」
航が舌打ちして腕を組んだ。反論できないと判断した瞬間の撤退速度だけは東方の弾幕並みだ。
その横顔を見ながら、昼に言いかけたことを思い出す。「静かだと余計なことを考える」。航はたまに、こういう言葉をこぼす。普段は全部「めんどくせ」の下に隠しているのに、音楽の切れ目でだけ、奥のほうが少し見える。
ベンチに並んで座っている。夕日が線路をオレンジに染めている。向かいのホームにあの三毛猫がいた。常連か。毎日この時間にいる。
「なあ、航」
「ん」
「お前、いつもイヤホンしてるけど。家でもずっと聴いてるの?」
航は片耳のイヤホンを触った。コードを親指と人差し指で挟んで、くるくると弄ぶ。
「……まあ。静かだと余計なこと考えるからな」
「余計なこと?」
航は答えなかった。コードを親指で弾く。小さな振動が消えるまでの間、線路脇の雑草が風で揺れる音だけが聞こえた。遮断機のカンカンカンが遠くで鳴っている。航の沈黙には種類がある。めんどくさい時の沈黙は短い。数えて三秒、四秒で「別に」が出る。今のは違った。沈黙が五秒を超えたところで、左耳のイヤホンの音量をわずかに上げた。自分で質問を閉じる手つき。
航の横顔を見た。夕日が当たっている側の頬が赤い。いつもの「めんどくせ」より、少しだけ柔らかく見えた。
こいつの「めんどくせ」は、たぶん便利な蓋だ。全部を雑に扱うためじゃなくて、雑にしておかないと触りたくないものがある時の蓋。そういうのは少し分かる。俺にも、考え始めると止まらない種類の夜がある。
それ以上は聞かなかった。音楽で蓋が外れる。音楽がないと余計なことを考える。——そのことを知っているだけでいい。今はまだ。
電車が来た。ボックス席。航が窓に頭をもたれかけて目を閉じた。
イヤホンは片耳ずつ。窓の外を田んぼが流れる。水面に夕焼けが映って、空が二枚ある。
「……毎日帰り同じ電車だな、俺ら」
「そうだな」
「一年間ずっとこれか」
「たぶんな」
航が目を開けないまま言った。
「……悪くねえだろ。音楽の趣味合う奴と四十分」
声が柔らかい。航のこういう言葉は、目を閉じている時にしか出てこない。相手の顔を見ていると「めんどくせ」が先に出る。
駅。航がイヤホンを巻き取って首にかけた。改札を通る時、片手を上げた。五本の指がひらっと開いて、すぐ下りた。航の「また明日」はいつもこれだ。言葉じゃなくて手のひら。
◇◇◇
帰宅。
レンジが回る音を聞きながら、冷蔵庫に貼られた母のメモを読んだ。「肉じゃが温めてね。ご飯は炊飯器」。付箋の字がいつもより丸い。機嫌がいいらしい。
肉じゃがを温めて食べながら、今日のことを考えた。じゃがいもが舌の上でほろりと崩れる。醤油の甘辛い香りが鼻を抜ける。テレビはつけなかった。
椎名の席が空いていた時間。あの左側の空白。航の弁当観察報告が妙に鮮明に残っている。「弁当の蓋開けた瞬間にちらっと見て、0.5秒で戻す」。毎回。
「隣の席だから」で済ませた。航の「ふーん」が耳に残る。あの温度のない相槌は、嘘を検知した時の音だったかもしれない。
スマホが鳴った。航からLINE。
『明日、覚悟しとけ。松本が目ぇつけてたぞお前に』
松本。松本って誰だ。
『誰?』
既読がついて三分。返事がない。航のLINEはスタンプも絵文字もない。句読点すら省く。乾燥機にかけた文面。
ようやく返信。
『察しろ。声のデカい奴。ポニーテール』
記憶を掘り返す。声がデカい。ポニーテール。——あ。いる。廊下で響き渡る笑い声の主。名前、松本だったのか。
『覚悟とは?』
航の返事。
『逃げられないぞ。あいつに目つけられたら終わりだ。……まあ、がんばれ』
「がんばれ」が唯一の装飾。温度のない激励。
その直後、もう一通来た。
『たぶん悪気はない』
フォローなのか脅しか判別に困る。むしろ悪気がないタイプのほうが勢いで人を巻き込みがちだろ、と天井を見ながら思う。
スマホを閉じて天井を見た。松本。声のデカい奴。
——明日、何が起きるんだ。




