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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
眠そうな君と、たぬきの話
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第5話「たぬき語、わりと難しい」


昼休み。


椎名と俺は隣同士で弁当を食べていた。約束したわけじゃない。ただ互いに席を立たなかった。消極的選択の昼食。いつの間にかこれが定位置になっている。


弁当箱を開けた。卵焼き、ほうれん草のおひたし、照り焼きチキン。母の弁当は引っ越してから品数が一品増えた。東京では白飯に前夜の残り二品が標準仕様だったのに、鹿沼に来て妙にやる気を出している。おそらく罪悪感だ。弁当の品数でバランスシートを合わせにきている。


椎名の弁当箱は相変わらず小さい。白飯と卵焼きと煮物と和え物。色が渋いが品数は多い。隙間なく詰められている。几帳面な弁当箱だ。


さっきから、椎名の箸が煮物のこんにゃくを突いている。突いているだけで食べない。こんにゃくが弁当箱の中を右へ左へ移動して、白飯の横を通過し、卵焼きの隣で止まり、また和え物の方へ戻っていく。弁当箱の中でだけ迷子になっている。


嫌いなのか迷っているのか。答えはまだ出ないらしい。


椎名の弁当箱は今日も小さい。白飯と卵焼きと煮物と和え物。箸の運び方が丁寧で、米粒を一つもこぼさない。食べ方に育ちが出る。椎名の育ちは「真面目で、最後に苦手を残す」だ。


今日は卵焼きから先に食べていた。昨日、甘いものが好きだとたぬき経由で漏らしたからかもしれないし、ただの偶然かもしれない。けど、昨日まで最後の方まで残していた卵焼きが、今日は最初の二口で消えたのを見てしまうと、少しだけ笑いそうになる。分かりやすいところと分かりにくいところの差が激しい。


「……たぬきは、新しい巣穴に入ると、最初は壁に背中をつけて動かないの」


椎名がぽつりと話し始めた。


また始まった。——でも今日は、聞こえ方が違う。昨日の「外からはわからないだけ」が頭にこびりついている。あの一言が透明なフィルターみたいに被さって、たぬきの話の向こう側が見えかけている。


「……慣れるまでに時間がかかるの。……でも、巣穴に自分の匂いがつくと、少しずつ動き回れるようになるの」


箸が止まった。


昨日までばらばらだった言葉が、急に同じ方を向いた。


三日間そっとしておく。雑食。体温。外からはわからないだけ。


別々に聞いていたはずのたぬきが、全部お前の輪郭になっていく。


——こいつ。


パズルのピースが一気にはまる。バラバラだった断片が一枚の絵になる。胸の奥で何かがカチッと音を立てた。


「椎名」


声が出た。自分でも驚くくらい、はっきりと。


椎名の手が止まる。箸が空中で静止する。旅を続けていたこんにゃくが、最終目的地を知らぬまま置き去りにされた。


「それ、お前のことだろ」


沈黙。


教室の喧騒は変わらない。笑い声、机を叩く音、廊下を走る足音。でも俺と椎名の間だけ、空気が入れ替わった。


椎名の目が——開いた。


初めて見た。


いつも重力に負けていた瞼が、完全に持ち上がっている。黒い虹彩がまっすぐこちらを向いている。驚いている。見透かされた衝撃で、表情を作る余裕すらない。素の顔。


——息を呑んだのは俺のほうだった。


この瞳は、こんな色をしていたのか。教科書に伏せていた目は、まっすぐ向くとこんなに深いのか。長いまつげの影の奥に、黒だと思っていた虹彩がかすかに茶色を含んでいるのが見える。こんな近くで、こんなにはっきり、椎名の目を見たことがなかった。


教室の喚声が遠くなる。ノックの音が遠くなる。椎名の息を呑む音だけが、近い。


一秒。二秒。瞳が揺れていた。


唇が微かに動いたが声にならない。箸がかすかに震えて、卵焼きが弁当箱の中でこつん、と鳴った。


「……たぬきの、話だよ」


声が小さい。いつもより、もっと。壁が上がった音がした。


でも完全には閉まっていない、とも思った。ほんとうに違うなら、もっと突き放した言い方ができたはずだ。「違う」と切れば終わるのに、椎名はわざわざ「たぬきの話」という逃げ道を選ぶ。その逃げ道自体が、半分は答えになっている。


俺はそれ以上言わなかった。踏み込んだ自覚はある。でも「ごめん」と言ったら、読み取ったこと自体が悪かったという意味になる。そうじゃない。


弁当に視線を戻す。卵焼きを口に入れた。甘い。口の中に味があると、沈黙が楽になることを覚えた。


隣で椎名も食べ始めた。ペースが落ちている。こんにゃくは結局食べられないまま蓋を閉じられた。大航海は帰港を果たすことなく終了した。


◇◇◇


五時間目。


授業の内容が頭に入らない。教室の空気が、昔休みの残り香を引きずっている。窓から入る風がカーテンを揺らすたびに、椎名の髪が微かに動く。それだけが目に入る。


椎名はこちらを見ない。動作の全てが俺の方向を避けるように設計されている。ノートを取る姿勢がいつもより内側に傾いていて、肩が小さな壁を作っている。


耳が赤い。蛍光灯の白い光の下で、はっきりと確認できる赤。今度は光の加減じゃない。ノートの筆圧がいつもより強く、紙にシャーペンの跡が残っている。教科書の余白には新しいたぬきが増えていた。四匹。怒濤の量産。ストレスが画力の方に出ている。


踏み込みすぎたか。——でも、間違ってはいないはずだ。間違っていたなら、あの目は開かない。


それに、あの驚き方は嫌悪じゃなかった。拒絶ならもっと冷たくできる。椎名の冷たさは指先だけで十分だ。昼休みのあの顔は、隠していた引き出しを急に開けられた時の顔だった。困ってはいたけど、扉ごと壊された顔じゃない。そう信じたいだけかもしれないけど。


先生が指した。椎名がぎこちなく立ち上がる。声はいつもの椎名だった。小さくて、でも答えは的確で。教室の誰も、昨日の昨日の昨日と同じ椎名を見ている。俺だけが、その小さな肩の壁の意味を知っている。

◇◇◇


放課後。


椎名が帰り支度をしている。いつもの動作。でも今日はどこか硬い。鞄のファスナーを閉じる手が、金具を一回掴み損ねた。仕事の精度が百パーセントの人間が、ファスナーに失敗する。今日という日の異常値。


「椎名」


声をかけた。


振り返る。まだ警戒した目。瞼は通常の位置に戻っている。でもその奥が違う。こちらの次の一言で距離が決まる——そういう空気だった。


何を言えばいい。「ごめん」は違う。「気にするなよ」はもっと違う。気の利いた台詞なんか持ち合わせがない。


沈黙が伸びる。


——椎名が先に口を開いた。


「……たぬきは、話を聞いてくれる相手を、覚えるの」


窓の外の部活の声が遠い。廊下の足音も遠い。椎名の声だけが、近い。視線は俺の足元あたりにある。目をそらしているのに、声はまっすぐだ。


「……たぬきだけじゃなく」


言い終わったあと、椎名の指先が鞄の肩紐をきゅっと握った。白い指。冷たい指。そのくせ、力の入れ方だけは妙に正直だ。声より先に手が本音を喋っている。


その一言を言うまでに、たぶん椎名の中ではいくつか順番があったんだと思う。たぬきの話にするか、しないか。どこまでなら外に出しても平気か。俺に向けて言ってもいいか。そういう細かいためらいを全部通った末に出てきた声だった。軽く受け取るのは違う気がした。


俺は何か返そうとした。でも、喉のあたりで言葉が渋滞した。気の利いた返事なんか思いつかない。ただ、聞き間違いじゃなかったという事実だけが、胸の真ん中に残る。


「……そっか」


結局、それしか出なかった。短すぎる。でも余計な飾りをつけるよりはましだったと思う。椎名はそれを聞いて、小さく頷いた。いつもの一ミリの動きなのに、さっきまでの硬さが少しだけほどけた気がした。


椎名がそう言うなら、たぶん本当に覚えられたんだろう。たぬきの話を聞く相手として。椎名千沙の話を、たぬきの毛皮越しに受け取る相手として。


それだけ言って、教室を出ていった。振り返らない。足音がすぐに消える。歩くスピードが、朝より少しだけ速い。


俺は立ち尽くしていた。


「たぬきだけじゃなく」。


あの一言だけ、たぬきの殻を脱いでいた。椎名千沙として。俺に向かって。覚える、と言った。話を聞いてくれる相手を。


胸の奥にじわりと温度が広がった。昼のカチッとは違う。パズルが嵌まる快感じゃなく、もっと柔らかくて、掴めない何か。名前はまだつけられない。


鞄を肩にかけて教室を出た。廊下が西日でオレンジに染まっている。椎名の姿はもうない。上履きが廊下の床を踏むたびに、きゅっ、と鳴る。いつもは気にならない音が、今日はやけに響いた。


◇◇◇


帰り道。駅のホームのベンチで、一人で電車を待つ。今日は航が先に帰った。ベンチの板が尻の下で温い。向かいのホームにあの三毛猫が座っている。毎日いるのか、こいつ。


夕日が山の稜線に触れかけている。空がオレンジから藍に変わる途中。風が冷たくなり始めて、制服のシャツが肌に張りつく汗を冷やす。ホームの隅に植えられたつつじが、まだ少しだけ花を残していた。


椎名の目を思い出していた。まつげの影。茶色を含んだ黒い虹彩。たぬきの殻の向こう側にいた、素の椎名千沙。


——あの瞬間を見られたことが、嬉しかった。


知的好奇心なのか、もっと別の何かなのか。今の俺には区別がつかない。ただ、あの目をもう一度見たいと思っている。それだけは確かだ。


踏切の警報音が聞こえてくる。電車が来る。空が藍に沈んでいく。三毛猫が欠伸をして、どこかへ消えた。


◇◇◇


家に帰ると、母が洗濯物を畳んでいた。テレビはついていない。蛍光灯の白い光の下で、タオルが几帳面な長方形に折られていく。


「おかえり」


「ただいま」


鞄を置く。制服のボタンを外す。たったそれだけの動作なのに、今日は妙に体が軽かった。


母が手を止めた。


「何かあった?」


「別に」


「ふーん」


その『ふーん』に、全然ふーんと思っていない感じが詰まっていた。母は畳みかけるようなことはしない。そのかわり、一回で見抜いてくる。


「顔、ちょっとやわらかい」


「何だよそれ」


「いいことあった顔」


「気のせい」


「学校、合ってるのかもね」


タオルを一枚、二枚。母の手がまた動き出す。俺はそれ以上答えなかった。でも否定もしなかった。言葉にしたら形が決まりすぎる気がした。


洗面所で顔を洗った。鏡を見る。いつも通りの顔だと思ったのに、確かに少しだけ口元が緩んでいる。気持ち悪い。母の観察眼が腹立たしい方向で正確だった。


水を拭きながら、教室での一言を思い出す。「たぬきだけじゃなく」。短いのに、反芻するとじわじわ効いてくる。たぬき越しじゃない言葉が一つ混ざるだけで、あの子の輪郭が急に近くなる。


合ってるのかもしれない。


学校そのものが、というより——あの教室の、窓側三列目のあたりが。


明日、椎名がいつもの顔に戻っているのか。それとも、まだ少し壁が高いままなのか。


答えは、明日の教室にしかない。


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