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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
眠そうな君と、たぬきの話
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第4話「冷たい指はずるい」



椎名は仕事ができる。


朝のHRが始まる前に、出席簿を職員室から持ってきて担任に渡す。連絡事項を黒板の隅にチョークで書く。配布物は枚数を指先で確認してから配る。全部、消え入りそうな声で、目蓋を持ち上げる気配もなく。でも一度もミスがない。


たぬきの話しかしないくせに、仕事の精度だけ町工場の職人レベル。不具合が起きても誰にも気づかれないうちに直している。繕い屋の手つきだ。


朝の配布物。椎名がプリントの束を持って列を回る。一枚ずつ、添えるように机に置いていく。手つきは柔らかいのに正確だ。図書館で返却された本を棚に戻す司書みたいな、静かな確実さ。


しかも、雑ではない。前の列の男子の机には少し左寄り、女子の机には筆箱を避けて右上、先生に提出する用紙は折れないように角を揃えて重ねる。机の上の地形を一瞬で読んで最適解を置いていく。人づき合いはたぬき経由なのに、仕事になると急に人間社会の仕様に詳しい。


俺の机に来た。プリントを置く。


その指が、俺の手の甲に触れた。


——冷たい。


ひやり、と。そのたった一点の冷たさが、手の甲から腕の内側を走って胸の奥まで届いた。四月の教室で、窓際に朝日が差しているのに、椎名の指先だけが季節から取り残されている。


触れたのは一秒にも満たない。プリントを置いただけ。それだけのことで、手の甲に冷たさの残像がくっきり残っている。自分の体温との差が、肌に線を引いたみたいに。


「指、冷たくない?」


口をついて出た。言ってから、余計なことを言ったと思った。


椎名の手が止まった。プリントの束を持ったまま、一瞬、自分の指先を見下ろす。それからこちらを見た。あのいつもの——起きているのか寝ているのか判別しづらい瞳。でもその奥で、何かを探すように視線が揺れた。


「……たぬきの体温は、三十八度くらいあるの」


「聞いてない」


「……あったかいの。たぬきは」


何の弁明だ。お前の指の冷たさの話をしているのに、たぬきの体温を持ち出すのは論点のすり替えだ。しかもたぬきは暖かいと主張しながら、本人の末端は絶賛冷却中という矛盾がある。せめてそのたぬきの三十八度を自分の指先に分けてもらえ。


「手袋したら?」


「……四月だよ」


「四月なのにその温度だから言ってんだろ」


椎名はもう次の列に移っている。小さな背中が教室の反対側に向かう。プリントを配る手は相変わらず正確だ。


でも——耳の上端が、さっきより色づいている。光の加減、ではないと思う。薄い耳の縁を、淡い桜色がじわりと染めている。


手の甲。まだ冷たさが消えない。


授業が始まっても、時々そこに意識が引っ張られた。ノートを取る右手のすぐ下、さっき触れた場所。別に痛くも痒くもない。ただ、触れた温度だけが妙に記憶に残っている。たった一瞬の接触をここまで気にしている自分もどうかしている。


◇◇◇


一時限目、英語。


屋三先生が椎名を当てた。教科書の一節を読み上げる。声が小さい。教室の後ろに届いているか音響力学的に怪しい。


——でも、発音がきれいだった。


小さな声なのに、母音の響きが全然違う。前の席の奴が「ビコーズ」と堂々のカタカナ英語を披露した直後だ。椎名の朗読だけが別の言語に聞こえる。「ビコーズ」と「because」が同じ単語だとは思えない。鹿沼弁と英語の中間を漂っていた空気が、一瞬だけロンドンに飛んだ。


屋三先生が「うん、いいね」と頷く。椎名は無言で座った。


座ってすぐ、シャーペンを取り出して教科書の余白に何か描いた。板書じゃない。


たぬき。


豆粒みたいなたぬきの落書き。目が点。胴が丸。耳が台形。


前のページを横目で見たら、たぬきがもう三匹いた。さらに前のページに五匹。英語の教科書がたぬき牧場と化している。一匹一匹ポーズが違うのだが、全員に共通しているのは圧倒的な画力の欠如だ。


しかも余白の使い方に迷いがない。本文の邪魔にならない位置を正確に見つけて、そこだけを占拠している。落書きのくせに行儀がいい。たぬき本人の性格がそのまま反映されているみたいで、ちょっとだけ笑いそうになった。


走っているたぬき——四本足が全部同じ方向に出ている。これでは走る前に転ぶ。


木に登っているたぬき——木よりたぬきのほうが大きい。遠近法が最初から喧嘩していた。


泳いでいるたぬき——水から胴体が出すぎていて、泳いでいるというより水面を走っている。


どれも驚くほど上達の気配がない。英語の発音はきれいなのに、たぬきの絵だけ別の時間で育っているみたいだった。


椎名が新しいたぬきを描き終えて、ちょっとだけ目を細めた。満足しているのか眠いのか。あるいは両方か。


◇◇◇


放課後。


旧校舎に向かう椎名の背中を見かけた。一人で。蛍光灯が一本おきの薄暗い廊下。床板がぎしぎし鳴る。古い木と紙の匂いがした。椎名の足音だけが妙に小さい。


突き当たりに小さなドア。「文芸部」と手書きのプレートがかかっている。角の丸い字。たぶん椎名の字だ。プレートの端に、小さなたぬきのイラストが添えられていた。耳が台形。見覚えのある画力。


椎名がドアを開けた。一瞬だけ中が見えた。小さな部屋。壁一面の本棚。椅子が三つ、机が二つ。窓から入る西日が本棚の埃を金色に光らせていた。机の端に湯呑みが一つ。湯気は立っていない。古い紙とインクの匂いが、薄暗い廊下まで漏れていた。


本棚の背表紙は色がばらばらだった。文庫本、ハードカバー、雑誌を綴じたような薄い冊子。整然とはしていないのに、散らかっている感じもしない。誰かがちゃんと住んでいる小部屋の匂いがした。教室とも家とも違う、居場所としての匂いだ。


その時、ノートの間から何かがひらりと落ちた。細長い紙片。床に着地して、裏返る。


しおりだった。たぬきの形をしている。耳が台形。胴が丸い。信じがたいことに、立体になっても画力が低い。


椎名は気づかないまま部室に入って、ドアを閉めた。俺は足元のしおりを拾う。厚手の画用紙で作ったらしい。裏に小さく『ぶんげいぶ』と書いてあった。ひらがな。たぶん配布用じゃなく、自分用だ。


静かで、狭くて、誰にも邪魔されない場所。——ここが椎名の巣穴か。


渡り廊下を戻りながら、クラスメイトの声が聞こえた。


「椎名さんってさ、悪い子じゃないけど——変わってるよね」


「たぬきの話ばっかするの、なんなの?」


「ほんとそれ。テンション読めないっていうか」


笑い声。悪意はない。でも、分からない相手に慣れた声だった。


俺は何も言わずに通り過ぎた。口を挟む間柄でもない。ただ、その声だけが妙に残った。


たぶん、教室の大半はあのくらいの理解で椎名を見ている。変わっている。悪い子ではない。少し不思議。そこで話が止まる。止まっても誰も困らないし、日常は回る。だから余計に、その先を知ろうとする理由がない。


でも俺は、昨日の弁当箱の五センチとか、今日の指先の温度とか、そういう中途半端に具体的なものをもう拾ってしまっている。拾った以上、ただ「変わってる」で棚に戻すのは雑な気がした。


昨日から聞いたたぬきの話が、頭の隅でまだ引っかかっていた。


◇◇◇


教室に戻ると、椎名が帰り支度をしていた。手にノートを持っている。


「これ」


ポケットからしおりを出して見せると、椎名の動きが止まった。


「……あ」


珍しく、たぬきより先に普通の音が出た。


「旧校舎で落とした」


椎名がそっと受け取る。指先がまた少し冷たい。しおりを見下ろして、それから俺を見る。耳の上の縁がじわっと赤くなった。


「……見た?」


「見た」


「……」


「上達の余地が無限にあるな」


椎名がむっとしたのか、ほんの少しだけ眉を寄せた。


「……これは、味だよ」


「便利な言葉だな、味」


「……きみは、わかってない」


「たぬきの脚が四本とも前に出てることなら分かってる」


「……走れるよ」


「だから走れないって」


大学ノート。表紙に油性ペンの落書き。あのたぬきだ。丸い。目が点。耳が台形。教科書のたぬきと全く同じクオリティ。何十匹量産しても一匹も進歩しない。進歩を拒否しているとしか思えない。たぬきの横に「文芸部 椎名千沙」。丸字。


「部活?」


「……文芸部」


「何やってんの」


「……書いてる」


「何を」


少し間が空いた。ノートを胸の前で抱える。


「……たぬきの話」


「お前の頭の中たぬきしかいないのか」


「……いるよ」


即答。反論ですらない。事実の確認だとでも言いたげだ。


言い切り方だけ妙に強かった。そこには照れも誤魔化しもない。好きなものを訊かれた子どもが、石とか恐竜とかを即答する時の声に近い。たぬきがこの子の中でどれだけ大事な避難路なのか、少しだけ伝わってくる。


「教科書の余白もたぬきだったぞ。しかも一匹も上達してない。あの走ってるやつ、全部の足が同じ方向に出てたからな。あの走法だと一歩目で顔面から地面にいく」


椎名の口元が動いた。唇の端が一ミリほど上がった——ように見えた。あまりに微かで、表情の変化というよりも空気のゆらぎに近い。


「……走れるよ、あれで」


「走れないよ。物理的に」


「……たぬきだから」


「たぬきでも無理だよ」


それ以上は返ってこなかった。帰り支度を終えて、鞄を肩にかけて、ドアの方に歩いていく。


俺の席の横を通り過ぎて——足が止まった。


振り返らない。背中のまま。


「……たぬきは、本当はいろんなことを考えてるの」


一拍。


「……外からはわからないだけ」


そのまま廊下に出ていった。足音は最初から聞こえなかった。


「外からはわからないだけ」。


——それ、お前のことだろ。

朝の冷たさはもう消えていた。なのに、その一言だけが消えなかった。


夕日を丸ごと飲み込んだ教室で、廊下の小さな部室の紙とインクの匂いを思い出している。本棚の埃が金色に光っていたことを。そこで何かを書いている椎名の、小さな背中を。


「外からはわからないだけ」。


その言葉の裏側に、椎名千沙がいる。たぬきの絵を描いて、一人で部室に座って、何かを書いている子が。分かってほしいのか、分からなくていいのか。それすらまだ、読めない。


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