第3話「四十分、長すぎる」
放課後、駅に来た。
ICカードをタッチする機械がぽつんと置いてあるだけの無人駅。自動改札もなければ駅員もいない。駅前にコンビニもない。花壇がある。パンジーだけがやたら元気だ。この駅で最もモチベーションが高い存在はパンジーだと思う。
ホームに出る。ベンチの板が日に焦けて温い。線路の砥石の間から、干し草と鉄錆の混ざった匂いがする。空が広すぎて、雲が何もしないまま巨大に浮かんでいる。
昼休みに、卵焼きの位置ばかり気にしていた椎名の横顔がまだ頭の隅に残っている。鹿沼の電車は遅いくせに、ああいうどうでもいいことだけは妙に残る。
時刻表を見上げて、固まった。
次の電車——四十分後。
四十分。四十分あれば池袋から新宿まで往復しておつりが来る。渋谷で待ち合わせに三十分遅れた時、友人に「お前もう死んでくれ」と言われた。鹿沼ではそれが電車一本分の標準待機時間だ。
ホームに出る。人がいない。自販機が二台。風。線路が一直線に伸びて、山の手前でカーブして消えている。あのカーブの向こうから四十分後に電車が来るらしい。信じるしかない。
ベンチに座ってスマホを触る。東京の友達のSNSが流れてくる。渋谷、新宿、タピオカ。顔を上げると田んぼと山。スマホの画面と現実の間に文明の断層がある。
電車の接近表示は当然ない。次の到着を知らせる電子音もない。代わりに、ホームの端のスピーカーから時々「まもなく列車が通過します」みたいな録音音声が流れるのだが、その「まもなく」が十分単位で信用できない。東京の駅なら三分遅れで謝罪放送が入るのに、ここでは四十分待っても誰も詫びない。自然の側に時間の主導権がある。
改札のない駅は、境目が曖昧だ。ホームの隅の雑草も、向こうの用水路のきらめきも、どこまでが駅でどこからが外なのか分からない。ベンチに座っていると、自分まで風景の一部に編入されていく感じがする。利用客じゃなくて置物だ。田舎の駅ってこうやって人間を景色に寄せていくのかもしれない。
溜め息をついた時、足音がした。
同じクラスの男子が歩いてきた。佐々木航。パーカーにイヤホン。片耳だけつけて、コードが制服の襟元からポケットに伸びている。教室ではいつも「めんどくせ」が口癖の男。目が合う。向こうが軽く顎を上げた。挨拶済み。言語を使わない省力通信だ。
航がベンチの反対側に座った。一人分の間隔。スマホを見ている。イヤホンからしゃらしゃらした金属音が漏れている。テンポが速い。
沈黙。あと三十五分。ホームの端を猫が横切った。毛並みの悪い三毛猫。線路を跨いで反対側の茂みに消えていく。改札がないから猫も入り放題だ。猫すら乗車を諦めている路線。
「……次の電車、四十分後って普通なの?」
航が顔を上げた。
「普通だろ」
真顔。当たり前のことを聞かれた、という顔。
「普通じゃねえよ」
「都会の奴ってすげえな」
呆れた目に「お前の常識を持ち込むなよ」が圧縮されている。
沈黙。あと三十分。
航が立ち上がって、自販機に向かった。ホームの端にぽつんと置かれた赤い自販機。ボタンの半分がコーヒーで、もう半分が謎の栄養ドリンクに占拠されている。高校生の放課後に対する信頼が極端だ。
がこん、と音がして、缶が二本落ちてきた。航が片方をこっちに投げる。反射で受け取った。冷たい。
『MAX COFFEE』
缶に、ものすごく甘そうな黄色の文字が踊っていた。
「何これ」
「栃木の高校生の命綱」
「絶対嘘だろ」
「千葉かもしれない」
雑だな。地元愛の管理が雑すぎる。
プルタブを開ける。匂いがすでに甘い。コーヒーより先に砂糖の気配がする。ひと口飲んだ。
「甘っ」
「だろ」
航がちょっとだけ口の端を上げた。初対面の相手に飲ませるにはだいぶ癖の強い洗礼だ。
「これコーヒーじゃなくて、コーヒー味の練乳だろ」
「疲れてるとちょうどいい」
「今の俺に必要なのは糖分じゃなくて電車だよ」
「そこは諦めろ」
航は缶を持ったまま、ホームの先を顎で示した。
「あっちの踏切、見えるだろ」
「見えるけど」
「電車来る五分前になると、あそこ混み始めるから」
「それで来るの判断するのかよ」
「慣れると音でわかる」
「何に慣れさせる気なんだこの町」
「そのうち電車より先に、犬が吠えるから」
「野生でダイヤ読むな」
航がふと、イヤホンの片方を外した。
俺のほうに差し出す。
「聴くか」
脈絡がなかった。反射的に受け取った。イヤーピースがまだ温かい。耳に入れる。
——東方Projectのアレンジが流れた。
ピアノのイントロ。聞き覚えのあるメロディライン。音の一つ一つが澄んでいて、夕方のホームの空気に嵌まる。
目が変わったのが自分でも分かった。
「お前、東方聴くの」
航がこっちを見た。さっきまでの無表情に色が混じった。眉が動いた。口元が緩んだ。
「聴くよ」
「マジか」
「マジ」
堰を切ったように話が始まった。好きなキャラ、好きな曲、原曲派かアレンジ派か。航の声のトーンが半音上がる。「めんどくせ」の殻が剥がれていく。「ここで転調するのがさ」と指が空中で音符をなぞっている。
俺もつられて早口になる。原曲のどのフレーズが残っていると嬉しいとか、アレンジでドラムを前に出しすぎると違うとか、そんな話を東京では普通にしていた。ここではもうしばらくしないと思っていた。まさか鹿沼の無人駅で、山を背にして同じ熱量で返してくる奴がいるとは思わない。
「東方の話する奴この学校にいないんだよ」
声に熱がある。教室で見せたことのない饒舌さだった。
「転校してきた甲斐があったな」
「調子乗んな」
——でも口元は緩んでいた。
音楽の話をしている間の航は、教室の「めんどくせ」と別人だった。語尾は相変わらず省エネなのに、曲名を出す速さだけが異常に速い。好きなものの棚だけ整頓されていて、それ以外は散らかっている部屋みたいな喋り方だ。
「文化祭でさ、去年軽音が原曲わかんないアレンジやってて」
「ああ、あるな。元ネタ残ってねえやつ」
「そう。で、俺だけ後ろで『それもう別の曲じゃん』ってなってた」
「地獄みたいな孤立の仕方だな」
「だからお前は貴重」
そこだけ、妙に真っ直ぐだった。照れも含みもない言い方。貴重と言われて、少しだけ面食らう。転校して三日目で、自分が誰かの中で「助かる側」に回るとは思っていなかった。
気づけばあと十分になっていた。四十分が嘘みたいに短い。
◇◇◇
電車。二両編成。ガラガラ。ボックス席に向かい合って座った。
シートの布が日に焦けて、独特の埃っぽい匂いがした。横揺れが体を揺らす度に、窓ガラスがかたかたと音を立てる。窓の外を山と田んぼが流れていく。景色が余裕で数えられる速度だ。山。田んぼ。家。牛。——牛がいた。通学路に牛がいる令和の日本。
「お前の家の近くにコンビニある?」
航が「セブンなら」と答えた。
「近い?」
「自転車で十分」
「……歩きだと?」
「三十分」
「それ『近く』って言わないだろ」
「鹿沼基準では近い」
「基準がバグってる」
「南のほうは自転車で二十分」
「南にコンビニの概念がない」
航は真顔で次の質問を待っている。鹿沼市の広報を背負って立つ男。
「スタバは?」
「ない」
「マックは?」
「駅前にある」
「お、あるじゃん」
「隣の駅の」
「…………」
「それ駅前って言わねえだろ」
「鹿沼基準では駅前」
「さっきから鹿沼基準って何だよ。独自の度量衡を使うな」
航が「ケンタなら鹿沼にある」と真顔で付け加えた。一軒のケンタッキーに鹿沼市の文化的威信が集約されている。
「映画館は?」
「ない。宇都宮まで出ろ」
「本屋は?」
「ある。一軒」
「カラオケは?」
「ある。一軒」
一軒。全部一軒。各ジャンルの上限が一だ。競合不在。独占市場。倒産のしようがない。
「……ここ、本当に十五万人いるの」
「いるよ。山に」
「山に十五万人いると思ってんのかよ」
「半分は山だろ」
「市民の半分が山に棲息してたらニュースだよ」
航がふっと鼻で笑った。声は出さない。肩が一瞬揺れただけ。
「最寄りのゲーセンは」
「宇都宮」
「デートスポットは」
「宇都宮」
「鹿沼に何があるんだよ」
「いちご。あと鹿沼土」
「園芸用品で殴ってくるな」
航が二回目の鼻笑い。肩が揺れる幅が、さっきより大きい。
話しながら気づく。航は相手に合わせて喋るタイプじゃない。興味のない相手にはたぶん、この半分も言葉を使わない。なのに今は、鹿沼のコンビニ事情から宇都宮依存の娯楽事情まで、やけに丁寧に説明してくれている。説明の内容はほぼ絶望的だが、転校生に土地勘を渡そうとしているのは分かった。
駅に着く。航が「じゃな」と片手を上げた。指がひらっと開いて、すぐ下りる。言葉じゃなくて手のひらで「また明日」をやる男。
◇◇◇
家に着いた。
玄関を開けると、スリッパが揃えてあった。母のだ。帰っている——と思ったら、台所から音がした。水道の蛇口を閉める音。
「あら、おかえり」
母が顔を出した。エプロンをつけている。今日は夜勤じゃないらしい。
「どうだった? 学校」
「普通」
「普通って、もうちょっとなんかないの」
「駅で電車四十分待った」
母が笑った。「あんたも慣れるわよ、そのうち」。鹿沼出身の母は四十分を標準規格として受理する側の人間だった。遺伝的に俺もいずれ適応するのかもしれない。
「それと、同じクラスに東方わかる奴いた」
言ってから、自分で少し驚いた。わざわざ母に報告するほどのことかと思ったのに、口から先に出た。
母は台所の流しにコップを置いて、「へえ」と笑った。
「よかったじゃない。そういうの大事よ」
そういうの。たぶん本当にそうなんだろう。四十分のホームが長すぎなかった理由を、ひと言で説明するならそれだ。
台所に味噌汁の匂いが満ちている。豆腐と油揚げ。湯気が蛍光灯の光の中で白く漂っていた。テーブルに二人ぶんの箸が並んでいる。昨日は一人で付箋を読んでカレーを温めた。今日は、ご飯の炊ける匂いと味噌汁の湯気と母の鼻歌がある。この差を喜ぶほど俺は飢えていないし、昨日の夕飯を寂しいとも思わなかった。ただ——二人でテーブルにつくと、箸を動かすスピードが自然に上がる。
「友達できた?」
「一人」
「男の子? 女の子?」
「男。佐々木航。東方の話が合う」
「東方って?」
「ゲーム、みたいなもの」
母は「ふーん」と言っただけで、味噌汁にわかめを追加する作業に戻った。深追いしない。このぐらいの距離感がちょうどいい。
「その子、いい子そう?」
箸の先で豆腐を割りながら、母が何気なく続けた。
少し考える。いい子、という言い方が航に合うかは分からない。口は悪いし、基本だるそうだし、初対面の印象だけなら決して愛想はよくない。でも。
「……いい奴ではある」
母が小さく笑った。「じゃあよかった」。それだけ。余計なことは言わない。頑張れとも、無理するなとも。そういう言葉が今の俺には要らないと知っているみたいに。
食べ終えて皿を洗う。昨日は一人ぶん。今日は二人ぶん。皿の枚数が倍になるだけで、水道の音が賑やかになる。
部屋に戻って、窓を開けた。夜風が入ってくる。虫の声が近い。東京では聞こえなかった類の、細くて高い声が闇の中で重なっている。
スマホを見た。東京の友達のSNSが流れている。渋谷、新宿、タピオカ。画面を閉じる。あっちはあっち。こっちはこっち。
四十分が長いのか短いのか、まだ分からない。でも航のイヤホンから流れた東方のピアノが耳に残っている。明日もあの曲を聴けるなら、四十分は四十分ぶんの価値がある。
空が広い。星が多い。——ここに何があるかは、まだ知らない。でも隣の席には眠そうな学級委員がいて、駅のベンチには東方を聴く男がいる。昼休みに卵焼きの位置ばかり気にしていた横顔まで、やたら鮮明に残っている。
悪くない。たぶん。
スマホを開く。航のLINEを追加していた。アイコンが東方の霊夢。分かりやすい男だ。
イヤホンの片方から東方を流して、「普通だろ」と真顔で返す奴。四十分を短くする奴。コンビニが自転車十分で「近い」と言い張る奴。遊園地に遠足で行った話を平然と出す奴。
友達が、できた。
窓の外に星が出ている。東京では数えられた星が、ここでは数えることを諦めさせてくる量だ。
鹿沼という地図はまだ白紙に近い。でも今日、一つだけピンが立った。ホームのベンチで、イヤホンの片方を差し出してきた男。
明日も四十分、あいつと待つ。そう思うと、鹿沼は昨日より少しだけ遠くなかった。




