第24話「隣の席は消しゴムの匂い」
五月。窓が開いている。
三限目の数学。教室に風が入ってくる。ぬるい。夏の予告みたいな温度だ。扇風機が天井で回っている。まだ弱。首を振るたびに微かにカタカタと音がする。老朽化したネジがどこかで緩んでいるのだろう。先生がチョークで二次関数のグラフを描いている。白い粉が宙に舞って、光の筋の中をゆっくり落ちていく。窓際の席は陽当たりがいい。黒板の右端にある時計の影が、壁に長く伸びている。
隣で椎名がノートに向かっていた。
シャーペンの音。カリカリという、規則正しい音。一定のリズム。メトロノームみたいだ。椎名の手は小さい。シャーペンを握る指が白い。爪が短く切ってあって、手入れが行き届いている。字も小さい。ノートの罫線の中にきっちり収まっていて、はみ出さない。角ばっているのに丸みもある不思議な字だ。「僕」の「ム」の最後の一画が少しだけ跳ねる癖がある。ノート一ページの中にその「ム」が何個もあって、全部同じ跳ね方をしている。癖だから自覚がないのだろう。
俺は板書を写しながら、隣の音を拾っていた。
意識してそうしているわけじゃない。勝手に入ってくる。教室にはいろんな音がある。先生の声、チョークが黒板を叩く音、扇風機のカタカタ、後ろの席のクラスメイトが教科書をめくる音。その全部が均等に聞こえるはずなのに、隣の席のシャーペンの音だけが一段手前にある。
チョークの粉。窓から入る草の匂い。扇風機の風。遠くのグラウンドで体育をやっている二年生の声。——そして。
椎名が消しゴムを使った。
ノートの上を消しゴムが滑る。シュッ、シュッ、と二回。短い動作。椎名の指が消しカスを払う。払い方が丁寧だ。掌でガッとやるんじゃなくて、指先でそっと寄せる。
その瞬間、匂いがした。
消しゴムの匂い。白い、MONOの消しゴム。使い込んであって角が丸くなっている。ケースの上半分がちぎれて、消しゴムの素肌が出ている。その消しゴムが紙の表面を擦ったとき、特有の匂いが立つ。なんて言えばいいのか分からない。ゴムと紙が混じったような、微かに甘いような、鉛筆の芯の匂いが移ったような。消しゴムを使うたびに、ほんの僅かに漂う。
隣の席に座るまで、消しゴムに固有の匂いがあることを知らなかった。
なのに椎名の消しゴムの匂いだけは、毎回まっすぐ意識に入ってくる。「あ、椎名が消しゴム使った」と、反射みたいにわかる。
——消しゴムの銘柄を覚えている。MONO。角が丸い。右端がへこんでいる。——それだけのことだ。
それだけのことなのに、知っている。
椎名がまたカリカリ書いている。シャーペンの音が静かに規則正しく響く。ノートの上で二次関数のグラフを写している。先生の板書より少し丁寧だ。軸の点線まで定規で引いている。几帳面だ。椎名は見た目は適当そうなのに(眠そうだし)、ノートは几帳面だ。ギャップがある。
それから、来た。
消しカス。
椎名の消しゴムから生まれた白い破片が、机の境界線を越えて、俺の領土に侵入してくる。小さい粒が三つ。ころころと転がって、俺のノートの端に辿り着いた。先頭の一粒がノートの表紙によじ登ろうとしている。
四月の終わりから続いている領土紛争だ。
椎名の消しカスは毎回こうだ。消しゴムを使うたびに、粒が国境線を越えてくる。椎名の机と俺の机の間には五ミリくらいの隙間しかない。消しカスにとっては高速道路みたいなものだ。
俺は無言で指の腹で弾き返した。軽く。ぴん、と。粒が椎名の領土に戻る。
椎名の手が止まった。
シャーペンが紙から離れる。一瞬だ。前髪が目元を隠していて、こっちを見たのか見なかったのか判断がつかない。でも手が止まった。それは確かだ。
一秒。二秒。
何も言わずにカリカリ再開した。何事もなかったみたいに。でも手が止まったのは事実で、消しカスを弾き返されたことに気づいたのも事実で、気づいた上で何も言わなかったのも事実だ。
何も言わないで再開するのが椎名だ。「ごめん」も「あ」も「消しカスが」もない。ただ手が止まって、また動く。その無言の中に何があるのかは、隣に座り続けないと分からない。
この無言のやりとりが、もう日常になっている。消しカスが来て、弾いて、椎名が止まって、また書く。その繰り返し。机と机の間の五ミリの隙間を、小さな白い粒が行き来する。
国境を越えても、誰も怒らない。国境紛争とは名ばかりで、本当は二つの机の間に壁なんてない。
窓から風が入った。ぬるい。カーテンが膨らむ。風が椎名の髪を揺らした。前髪の隙間から、一瞬だけ目が見えた。睫毛が長い。きれいだ——
いや。
板書を写す。集中しろ。二次関数のグラフだ。y=ax²+bx+c。頂点。軸。放物線。
……椎名の消しゴムの匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
◇◇◇
昼休み。
航が「ハルト、購買行くか」と声をかけてきた。椅子の背もたれに顎を乗せた格好で。怠い。航はいつも怠そうだ。
「ああ」
立ち上がる。椎名は弁当組だ。机の上に小さな包みを出している。水色の包み。いつものやつ。
購買は混んでいた。列に並んで焼きそばパンとメロンパンを確保する。航は毎日焼きそばパンだ。椎名のたぬき並みに頑固だ。
階段を上がりながら航がぼやく。「GW明けから暑くねえ? 五月ってこんなだっけ」
「こんなだろ。鹿沼は」
「こんなだっけ……」
教室に戻った。椅子に座る。
俺の机の上に麦茶があった。
紙パック。二百ミリリットル。自販機のやつだ。結露がついていて、机の上に丸い水滴の跡ができている。買ってからそんなに時間が経っていない。
椎名が自分の席で弁当を食べていた。何も言わない。卵焼きを箸で摘んで、ゆっくり口に運んでいる。学級委員の仕事の延長みたいな顔をしている。
「……買ったの?」
椎名が卵焼きを噛みながら答えた。
「……自販機が隣だったから」
「隣って、教室の外の?」
「……廊下の」
廊下の自販機は教室から二十歩くらいある。「隣」は無理がある。
でも突っ込まなかった。代わりに言った。
「ありがとう」
椎名の箸が一瞬止まった。
「……別に」
目を逸らした。弁当に視線を落として、何事もなかったように食べ続ける。耳は——見えない。髪で隠れている。でも首筋が、さっきより少しだけ赤い気がする。五月の教室は暑いから、暑さのせいだ。暑さのせいだと思っておく。
麦茶のストローを刺した。紙パックが冷たい。結露で指が濡れる。一口飲んだ。甘くない。当たり前だ、麦茶だから。でも自販機の麦茶がこんなに美味いと思ったのは初めてかもしれない。
椎名が弁当の蓋を閉じた。食べるのが早い。小食なのか、食べるのが速いのか。たぶん両方だ。包みを丁寧に畳んで、水色の布を元通りに包み直す。何回も繰り返してきた動作なのだろう、手が迷わない。
航が俺の隣に座って、パンの袋を開けながら二人を見ていた。
焼きそばパンを齧る。咀嚼する。飲み込む。また齧る。視線は前を向いているが、目が笑っている。航の目が笑うのは、何か面白いことを観察しているときだ。
「………」
何か言いたそうだった。口が一瞬開きかけて、閉じた。焼きそばパンをもう一口齧る。「めんどくせ」という呟きが聞こえた気がするが、咀嚼の音に紛れて確信が持てない。
俺と椎名の間に何か言いたいことがあるのか。あるのだろう。でも航は自分が面白いと思ったことを、わざわざ言語化しない。観察して、「めんどくせ」で片づけて、次のパンを齧る。それが航だ。
麦茶をもう一口飲んだ。冷たい。紙パックの表面に「国産大麦100%」と書いてある。百三十円。椎名がこれを選んだ理由は何だろう。俺が麦茶派だと知っていたのか。——いや、知らないだろう。適当に押しただけだ。自販機が「隣」だったから。二十歩先の隣。
椎名が窓の外を見ていた。校庭でサッカー部が走っている。風がカーテンを揺らす。椎名の横顔が、五月の光の中で少し眠そうだ。いつもの顔。いつもの昼休み。
——なのに、麦茶が一本あるだけで、昼休みの空気が違って感じる。
気のせいだ。気のせいだと思っておく。
◇◇◇
帰りの電車。
航と二人、向かい合わせのボックスシートに座った。車両は空いている。鹿沼の電車はいつも空いている。平日の夕方、制服姿の高校生がちらほら。俺が窓側、航が通路側。
発車のベルが鳴って、ドアが閉まる。がくん、と揺れて電車が動き出した。窓の外をホームの屋根が滑っていく。それが途切れると、五月の夕空が広がった。
田んぼ。畑。住宅。鹿沼の夕方は空が広い。オレンジ色が地平線に近いところから空全体を染めている。田んぼに水が張ってあって、空の色を映している。空が二枚ある。上と下に。電車が進むたびに水面の空が揺れる。
航がイヤホンを片方つけて、もう片方を外した。何か聴いている。スマホの画面がちらっと見えた。やっぱり東方だ。航は東方アレンジをずっとループで聴く。「何がいいの」と前に訊いたら「全部」と返された。
しばらく無言。電車の揺れとレールの音だけが続く。ガタンゴトン。規則正しい。心地いい。窓から入る風がぬるい。五月の夕方の匂いがする。土と草と、少しだけアスファルトが冷える匂い。
航がイヤホンを外した。
片方だけ。さっきまでつけていた方を外して、手のひらに乗せた。それから唐突に口を開いた。
「お前さ」
心臓が跳ねた。理由は分からない。航の声のトーンが、いつもと違ったからかもしれない。いつもの「めんどくせ」の手前にある、少しだけ真剣な声。
「何」
航が窓の外を見ている。俺の方は見ない。手のひらの上でイヤホンを転がしている。親指で。くるくると。
数秒。
「……いや、いい。めんどくせ」
それだけ言って、イヤホンのもう片方もつけた。両耳。完全にシャットアウト。目を閉じて、シートに背中を預ける。会話終了。
何を言おうとしたのだろう。
航が「めんどくせ」で飲み込むものは二種類ある。本当にどうでもいいことと、言語化するのがめんどくさいこと。さっきのは後者の顔をしていた。目が笑っていなかった。
でも航は言わない。航が飲み込んだものを、俺がこじ開ける権利はない。航が言いたくなったら言う。それまでは待つ。それが俺と航の距離感だ。小学校から変わらない。
窓の外を見た。電車が鉄橋を渡っている。下に川が流れている。川面にもオレンジ色の空が映っていた。世界中が夕焼け色だ。目を閉じると、レールの振動が背中から伝わってくる。
手のひらを見た。
椎名の麦茶の冷たさが、まだ残っている気がした。百三十円の紙パック。結露の水滴。「自販機が隣だったから」。
航が言いかけた「お前さ」が、今さらレールの音に混じって浮かんでくる。
——こういうのを、なんて言うんだろう。
分からない。分からないから、窓の外を見た。田んぼの水面が揺れている。空が二枚、同じ色で燃えていた。
明日も暑くなるらしい。
五限は、たいてい一番眠くなる。
右隣がまた舟を漕ぎそうだと考えただけで、肩のあたりが妙に落ち着かなかった。




