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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
隣の席は、呼吸の距離
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第23話「隣の席に戻る朝」


足が速い。


自覚はある。いつもと同じ道、同じ時間、同じ通学路なのに、歩幅が広い。靴底がアスファルトを蹴るリズムが前のめりだ。


五月七日。GW明けの月曜日。


空が変わっていた。四月の終わりに見た空とは色が違う。青が深い。桜はとっくに散って、街路樹のケヤキが新緑を広げていた。五日間で葉の数が増えたように見える。風が吹くたびに緑が揺れて、木漏れ日が通学路に模様を描く。光と影がちらちらと交互に顔をよぎる。


鼻が拾う。四月より緑の匂いが濃い。土の匂いも混ざっている。GW中に雨が何日かあったから、地面が水を吸って、それが朝の光で蒸発している。湿った土と若葉の匂い。温かい空気。高い空。


——急いでいる。


何にだ。学校にか。別に遅刻しそうなわけじゃない。時計を見る。八時三分。余裕だ。余裕があるのに足が止まらない。


信号待ちで立ち止まる。横断歩道の向こう側に、知らない小学生が二人並んでいた。ランドセルが揺れている。彼らも連休明けだ。元気そうだ。俺はどうだ。


——元気、だと思う。


信号が変わる。歩き出す。また速い。


五日間。たった五日間だ。五日間家にいて、テレビを見て、航と少しだけ遊んで、母と食卓を囲んで、雨の音を聞いた。それだけだ。何もない連休だった。


でも今日は学校に行く。教室に行く。机に座る。隣に——


足がまた速くなった。自分を追い越すみたいに。


◇◇◇


教室に入った。


窓際の、いつもの席。椎名がもう座っていた。


机に突っ伏している。腕で枕を作って、顔を横に向けて、目を閉じている。完全に寝ている。制服の上着を肘にかけて、白いブラウスの背中が微かに上下している。呼吸が穏やかだ。連休明けの朝。八時十五分。もう席にいて、もう寝ている。


椎名らしい。


教室には他にもぽつぽつと生徒がいた。窓が開いていて、五月の風が入ってきている。風を受けて椎名の髪が少し揺れた。後ろ髪の毛先だけが、微かに動いている。


隣の椅子を引いた。


ガタッ。教室のざわめきに紛れるくらいの小さな音。でも椎名の瞼がぴくりと動いた。


ゆっくりと顔が上がる。


眠そうな目。いつもの目。瞼が重たくて、黒目が半分隠れている。腕の跡が頬に薄くついている。寝癖はない——椎名は寝癖がつかない髪質だ。でも前髪が少しだけ乱れている。一筋だけ、目にかかりそうな位置にある。


その目が、俺を見た。


焦点が合うまで、二秒くらいかかった。瞳がゆっくり動く。まだ半分、眠りの中にいる。ぼんやりと俺の顔を映して、認識して——


口が開いた。


「……おはよ」


声が掠れていた。寝起きの声。低くて、いつもよりさらにぼそぼそで、ほとんど吐息みたいだった。唇がほとんど動いていない。音になるかならないかの、ぎりぎりの声量。


聞こえた。はっきりと。


「おう」


それだけ。


なのに、椎名の声がGW前より近く聞こえた。五日間聞かなかったぶん、鮮明に。声の解像度が上がったみたいだ。低くて静かで、少しだけ温かい。寝起きだからか。いつもの「おはよ」より角が丸い。


椎名が姿勢を正す。制服の襟元に手を当てる。髪を耳にかける。左耳が見えた。白い。赤くない。


少し間があった。椎名は机の上を見ていた。右手がシャーペンを持ち上げて、指の間でくるくる回す。五日間のブランクを埋めるように、いつもの仕草をひとつずつ確認している。


それから、言った。


「……たぬきは、冬眠明けに仲間の匂いを確認するの」


「五月なのに冬眠明け?」


「……春は長いの」


何だそれ。


笑った。声には出さなかったけど、口元が緩んだ。椎名が横目でそれを見た。目の端が少しだけ細くなった。笑ったのかもしれない。椎名の笑顔は微かすぎて、毎回確認が必要になる。


匂いを確認する、と椎名は言った。


冬眠明けのたぬきは、仲間の匂いを確認する。離れていた時間の後、まずやるのは匂いの確認。それが椎名なりの「おかえり」なのだろう。たぬき語に翻訳された「おかえり」。直接は言わない。椎名は大事なことほど、たぬきに託す。


耳は赤くない。でも首筋が、少しだけ。制服の襟に隠れる境目のあたりに、薄く色が差している気がする。五月の朝の光がそう見せているだけかもしれない。


でも——椎名は俺が座った音で起きた。


教室の他の物音では起きなかったのに。誰かが教室のドアを開け閉めしても、隣の席のクラスメイトが鞄を置いても、椎名は起きなかった。俺が椅子を引いたときに目を覚ました。


匂いを確認したのは、たぬきだけじゃないかもしれない。


——考えすぎだ。座っただけだ。


机の上にペンケースを出す。教科書を出す。いつもの準備。隣で椎名もノートを出した。カリカリと何か書き始める。時間割の確認だろうか。小さな字。きちんと並んだ文字の列。


日常だ。


五日間空けただけなのに、この「日常」が色鮮やかに見える。隣に椎名がいて、教室がざわめいていて、窓から風が入ってきて、チョークの粉の匂いがして。それだけのことが、GW前より一段階明るい。


帰ってきた、と思った。


教室に。この席に。椎名の隣に。


◇◇◇


昼休み。いつもの六人。


結衣が弁当を広げる前に「GW何してた? 全員報告!」と号令をかけた。結衣の弁当箱がピンク色に変わっている。GW中に買い替えたらしい。


美咲が真っ先に答える。「カラオケ行った! 五時間歌った!」


航が聞いた。「一人で?」


美咲の眉がつり上がる。「うるさい! 友達と!」


「へえ」


航の「へえ」が妙に平たかった。目が一瞬だけ動いたのを、俺は見逃さなかった。美咲の「友達」の性別を確認するような、一秒にも満たない視線の動き。すぐに消えた。パンを齧りながら何事もなかったように咀嚼している。


——今のは何だ。


いや、航のことはいい。


結衣が「BBQ最高だったよね! 晴人も来てくれたし! 凛のサラダうまかったし!」と興奮している。凛が「肉は美味しかったね」と穏やかに返す。結衣が「焼いたのあたしだけどね!?」。航が「知ってるよ。三枚焦がしてただろ」。結衣が「焦がしてない! ……ちょっと炭の位置が悪かっただけ!」。美咲が笑う。


BBQは二日目に行った。天気が持ち直して、六人のうち五人が集まった。椎名だけ来なかった。巣穴にこもると言っていた通りだ。結衣が「ちさも来ればよかったのにー」と何度も言っていたが、椎名はグループLINEで『……次は行く。……たぶん』とだけ返していた。


凛が椎名に聞く。「千沙は? GW」


椎名が弁当の蓋を取りながら答えた。


「……読書」


結衣が身を乗り出す。「ずっと!?」


「……ずっと」


「五日間ずっと読書!? よく飽きないね!?」


椎名は卵焼きを箸で摘みながら、首を微かに傾げた。飽きるという概念が理解できないような顔。「……飽きない」。それ以上は何も言わない。


俺も何も言わない。


椎名とLINEしていたことは、言わない。たぬきちの写真が送られてきたことも。雨の日にたぬきの巣穴の広さについて語り合ったことも。銀河鉄道の夜がたぬきちの好きな本だというどうでもいい情報を手に入れたことも。


椎名も言わない。


二人だけの秘密——というほどのことでもない。GW中にLINEした、それだけだ。世界で最もどうでもいい会話だ。たぬきの巣穴は四畳、俺の部屋は六畳。それだけの情報交換だ。


でも、言わない。


なんとなく。あの会話は誰かに見せるものじゃない。GWの雨の午後に、一人でいた部屋で受けとったたぬきちの写真は、あの空間にだけあればいい。暖色のライトと、木目の机と、行儀よく座るぬいぐるみ。あれを結衣に見せたら「かわいいー!」で消費される。それは違う。あの写真はそういうものじゃない。


結衣が次の話題に移った。「来週の体育何だっけ」。美咲が「サッカーじゃない?」。凛がスケジュールアプリを見て「バスケだよ」と訂正する。航が「どっちでもいいだろ」と溜息をつく。結衣が「よくない! バスケ苦手!」と騒ぐ。


いつもの昼休み。


四月と五月で、何も変わっていないのに少しだけ違う。空気が一段温かい。物理的な気温の話だけじゃない。五日間の空白の後に戻ってきた日常は、それがあるだけで少し贅沢に感じる。当たり前が当たり前じゃないと知ったとき、当たり前が尊くなる。


椎名が弁当のほうれん草を箸で摘んで、ゆっくり口に運んだ。目が半分閉じている。食事中は特に眠そうだ。満腹中枢が起動する前に睡魔が来るタイプなのかもしれない。


視線に気づいたのか、椎名がこっちを見た。


目が合う。一秒。椎名が先に逸らした。卵焼きの残りに目を落とす。


——何だ今の。


何でもない。飯を食ってただけだ。俺も自分のパンに視線を戻す。


◇◇◇


放課後。


帰り支度をしていた。教科書とノートを鞄に入れて、ペンケースを仕舞って、椅子を机にかける。隣で椎名も同じことをしている。二人の動作がほぼ同じタイミングだ。一ヶ月隣にいると、帰り支度のリズムが揃ってくる。


椎名が手を止めた。鞄から何かを取り出す。


付箋。水色の正方形。椎名がノートに貼るやつと同じものだ。


それを、俺の机の上に置いた。


音もなく。指先で、すっと。


ボールペンで一行だけ書いてあった。


『GW中にたぬきちが2号になりました』


意味不明だ。


裏返す。たぬきの絵が描いてあった。


丸い頭。丸い体。短い手足。目が点。口がへの字。以前も見たことのある、椎名の渾身のたぬき画。目の周りに黒い模様っぽい楕円がある。尻尾は線が一本。足は棒が四本。


前より少しだけ上手くなっている。


……いや、なってない。客観的に見たら相変わらず五歳児のレベルだ。かろうじてたぬきと判別できるのは目の周りの模様のおかげで、これがなかったらカエルと区別がつかない。でも、前回のたぬきと比べると、体の丸みに何かこう——気持ちがこもっている気がする。ペンの圧が違う。GW中にたぬきちへの愛が深まった結果、筆圧に現れた、的な。


いや、ペンの圧で何が分かるんだ。


顔を上げた。椎名はもう鞄を持って立っていた。こっちを見ていない。廊下側を向いている。帰る体勢だ。


「椎名」


「……」


「2号って何」


椎名が横を向いた。目が合う。眠そうな目。五月の放課後の光が横から差していて、瞳の茶色が明るく見えた。


「……たぬきちが大きくなったから、2号」


「いやぬいぐるみ成長しねえだろ」


「……気持ちが大きくなったの」


「気持ち?」


「……たぬきちの気持ち」


「何の気持ちだよ」


椎名は答えなかった。口を一度閉じて、開いて、また閉じた。言おうとして、やめた。それから小さく首を横に振って——


「……たぬきの話だから」


出た。最終兵器。


椎名は歩き出した。廊下に出る。俺も鞄を持って追いかける。並んで歩く。足音が二人分。スニーカーとローファー。リズムが少しずつ合っていく。


たぬきちの気持ちが大きくなった。GW中に。


何の気持ちだ。嬉しい気持ちか。寂しい気持ちか。それとも別の、もっと名前のつけにくい気持ちか。


聞こうとして、やめた。聞いても「たぬきの話」で返されるだけだ。椎名は大事なものほど、たぬきに託す。直接は言わない。だからこっちも直接は聞かない。


付箋をポケットに入れた。水色の正方形。裏のたぬきの絵が、ポケットの中で折れないように、指で位置を直した。


昇降口を出る。五月の風が顔にあたる。温かい。GW前より、確実に温かい。


椎名が隣を歩いている。歩幅も、黙っている時間も、もう体が覚えている。


日常が戻ってきた。それで足りるはずなのに、ポケットの中の付箋が気になって仕方ない。


たぬきちの気持ちが2号になるくらい大きくなった。


それは、椎名の気持ちが——


「……今日、風が気持ちいいね」


椎名がぽつりと言った。風が椎名の前髪を揺らしている。目が少しだけ細くなっている。風を感じている顔だ。眠そうだけど、心地よさそうで。


「そうだな」


「……うん」


五月の通学路。新緑の匂い。二人分の足音。


ポケットの中で、たぬきち2号の角が指先に当たっていた。


GW明け初日から、椎名はわけのわからない宿題を一つ増やした。


連休は終わった。


ポケットの中のたぬきだけが、少しだけ大きくなっていた。


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