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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
隣の席は、呼吸の距離
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第22話「既読と未読の間」


GW二日目。


目が覚めたとき、部屋が静かすぎて一瞬どこにいるか分からなかった。天井の染みが四角い。鹿沼のアパートの天井だ。東京の実家とは違う。あっちは白くてつるつるしていた。こっちはクリーム色で、エアコンの辺りに微かなシミがある。


時計を見る。九時。遅い起床だ。学校がないと体が勝手にだらける。


台所に行く。母は夜勤で昨夜のうちに出かけている。冷蔵庫にマグネットで留めた付箋。『シチューの残り温めてね ♡ おかあさん』。ハートマーク。手書きのハートマークがいつも微妙にひしゃげている。


シチューを鍋ごとコンロに載せる。弱火。鍋底からぷつぷつと泡が上がるまで待つ。シチューの匂いが台所に広がった。じゃがいもがとろけかけている。母のシチューはいつもじゃがいもが溶ける寸前で、それが好きだった。


テーブルに座る。椅子は二脚あるが、向かいは空だ。テレビをつけた。バラエティの再放送が笑い声を流している。スプーンでシチューをすくい、口に運ぶ。温かい。温かいけど、静かだ。


食器を洗って、部屋に戻る。


窓の外。曇り。というか、雨だ。しとしとと、五月の始まりにしては重い雨が降っている。鹿沼の雨は東京より近い。建物が低くて、空が広いぶん、雨粒が直に地面を叩く音がよく聞こえる。アスファルトに跳ねる水の音。トタンの屋根を打つ音。ときどき車が通って、タイヤが水を切る音。


テレビをつけっぱなしにして、部屋の小さな机に向かう。やることがない。宿題は昨日のうちに終わらせた。本を読もうにも、活字が目に入ってこない。窓の雨を見る。ぼんやりと。


スマホを開いた。


グループLINE。結衣が暴れていた。


『雨!! 雨降ってる!! なんで!?!?!? BBQ!! BBQどうするの!!!』


航『だから言ったろ。天気予報見ろ』


結衣『航は希望を奪う天才だね!! 褒めてないからね!!!』


美咲が泣いている猫のスタンプを五連打。凛が天気予報のスクリーンショットを貼った。丁寧に赤丸で三日の欄を囲んでいる。降水確率九十パーセント。


凛『明日は晴れるらしいよ。BBQ明日にしたら?』


結衣が即座に反応する。『天才! 凛天才! じゃあ明日朝九時に千渡公園集合! 異論は認めない!』


航『認めろよ。なんで九時なんだよ。昼にしろ』


結衣『朝から焼くの! 起きて! 起きなさい!』


航『死んでも嫌だ』


結衣『死ぬ前に起きろ!!』


美咲『笑笑笑笑笑 二人とも仲いいね笑笑笑笑』


航『どこが』


凛『持ち物リスト作ったよ。炭、網、トング、紙皿……』


結衣『凛がいないとこのグループ崩壊する。凛大好き』


凛『ありがとう。肉は誰が買う?』


結衣『航!』


航『なんで俺なんだよ』


結衣『男子の仕事でしょ!』


航『令和だぞ』


メッセージがどんどん流れていく。スマホの画面をスクロールする速度が追いつかない。


その中に、椎名の名前が一度も出てこない。


既読の数を見る。六。全員読んでいる。椎名も読んでいる。でも何も言わない。一言も。スタンプの一つも。


椎名はグループLINEではいつもそうだ。全部読んで、何も言わない。たまに——本当にたまに——『……了解』とだけ返す。それすらない日のほうが多い。既読だけついて、吹き出しは増えない。それがいつもの椎名だった。


椎名の個別トークを開く。


最後のメッセージは昨夜のやりとりだ。俺が『良い連休を。お前もな』と送って、椎名が『……うん。おやすみ』と返して、終わっている。


その下に入力欄。白い。カーソルが点滅している。


何を送ればいい。


「暇か?」


指で打って、一秒見つめて、全消しする。距離が近すぎる。椎名にいきなり「暇か?」は——何だ、遊びに誘う気か。雨だぞ。どこ行くんだ。


「何してる?」


打って、消す。聞いてどうする。答えは分かっている。読書。本を読んでいるか、たぬきちを眺めているか、寝ているか。その三択だ。椎名の休日は三色しかない。


「たぬきち元気か」


打って——迷って、消す。脈絡がなさすぎる。いきなりぬいぐるみの安否を聞く高一男子。おかしいだろ。


スマホを裏返しにして机に置いた。


テレビが笑っている。窓の外で雨が降っている。時計の秒針が動いている。部屋の中の音はそれだけだ。俺の呼吸と、テレビと、雨と、時計。


一人の休日は長い。東京にいた頃はこんなに長くなかった。友達がいたからだ。中学の連中と適当に遊びに行けた。でも鹿沼に来てまだ一ヶ月。航とは学校で話すが、GWに二人で出かけるほどの仲かと問われると微妙だ。結衣のBBQには声がかかっている。でも明日の天気次第だし、今日じゃない。


今日は、誰とも会わない。


そういう日があること自体は別に平気だ。一人には慣れている。母が夜勤の日は毎回そうだし、東京でもそういう日はあった。平気だった。


なのに今日はなぜか、静かさが耳につく。


スマホを裏返したまま二時間が経った。テレビの番組が二回変わった。雨が少し弱くなった気がする。


◇◇◇


夕方。


四時を過ぎた頃だった。窓の外が薄暗い。五月とは思えない曇天が空を覆っていて、まだ夕方の手前なのに部屋の隅が暗かった。電気をつけようか迷って、つけなかった。


スマホが震えた。


グループじゃない。個別。


椎名千沙。


画面をタップする。一通だけ。


『……たぬきは雨の日に巣穴の入口を塞ぐの。雨が入らないように』


読んだ。


もう一度読んだ。


すぐに意味が浮かぶ。雨だから家にいる。ただ、それだけじゃない。


俺が午前中ずっと迷って、結局送れなかった一通目を、椎名の方から先に寄こしてきた。たぬきの形で。


返す。


『俺も巣穴にいる』


既読。返信が速い。一分もかからなかった。


『……きみの巣穴は?』


『部屋。六畳』


『……狭い?』


『一人なら十分』


『……たぬきの巣穴は四畳くらいだよ。でも居心地がいいの』


『聞いてねえ』


『……参考までに』


『参考にならねえよ。たぬきと俺は違う生き物だし』


『……そうだけど。……巣穴は巣穴だから』


巣穴の話なのに、指が止まらない。返信を打って送る。椎名が返す。また打つ。また返す。テンポが心地いい。学校で隣に座って言葉を交わすのとは違う。文字越しの間。吹き出しと吹き出しの間の空白。椎名が入力している時間。三点リーダの向こうに椎名がいる。


少し間が空いた。入力中のマークが出て、消えて、また出る。迷っている。椎名は迷うときに文字を打っては消す。その挙動がスマホ越しに見える。


写真が送られてきた。


椎名の机。学習机の端に、たぬきちが鎮座している。ベージュ色。丸い目。まんまるの胴体。その隣に文庫本が一冊開いてあって、たぬきちはあたかも読書をしているかのように行儀よく並んでいた。机の上のライトが暖色で、木目の色が温かい。たぬきちの毛並みが少しへたっている。よく触るのだろう。右耳の辺りが特に薄くなっている。


説明はなし。写真だけ。文脈もなく、いきなりたぬきちの近影が送りつけられてきた。


『たぬきち元気?』


『……元気。……きょうは読書の日なの』


『たぬきちの?』


『……たぬきちの読書の日』


『何読んでんの』


『……銀河鉄道の夜。……たぬきちの好きな本』


『お前の好きな本だろ』


『……たぬきちの好きな本』


二回言った。椎名は譲らないときに同じ言葉を繰り返す。三回目も同じことを言うだけだから、突っ込んでも無駄だ。


『お前は何してたの。今日一日』


少し間。


『……読書』


予想通り。


『ずっと?』


『……ずっと。……雨だから』


『飽きないか。一日中読書』


『……本は飽きない。……たぬきは同じ巣穴にいても飽きないし』


『それ人間にも当てはまるか?』


『……たぬきの話だから』


ため息が出た。笑いに変わった。スマホの画面に向かって、一人で笑っている。五月の雨の日の夕方、六畳の部屋で、椎名とたぬきの話をしている。


何の意味もない会話だった。


でも、GW二日目でいちばん長かった。


◇◇◇


母が帰ってきたのは八時を過ぎた頃だった。


「ただいまあ。ごはんチンした?」


「シチュー温めた」


「えらいねえ」


玄関で靴を脱ぐ音。鞄を置く音。母がダイニングに入ってきた。髪をひとつに結んでいて、目の下にうっすら隈がある。でも笑っている。母はいつも笑っている。疲れていても。


シチューの残りを温め直す。母はスプーンでかき混ぜながら「GW、どこか行くの?」と聞いた。


「明日BBQかも。天気次第」


「お友達と?」


「うん」


母が嬉しそうに笑う。「いいじゃない。友達できたんだ」


「まあ」


「よかったあ。お母さん心配してたんだよ、転校してすぐだし」


「大丈夫だよ」


母がシチューを口に運ぶ。「おいしい。自分で作ったのにおいしい」と言って笑った。テレビのニュースが天気予報を流している。明日は晴れ。結衣が喜ぶだろう。


食器を洗って、部屋に戻った。


スマホを開く。椎名のトーク画面。たぬきちの写真が残っている。暖色の照明。机の木目。行儀よく座るぬいぐるみ。丸い目がこっちを見ている。


じっと見る。


——なんで、このぬいぐるみ見ると安心するんだろう。


たぬきちが特別かわいいわけじゃない。顔は丸くて、目は黒くて、胴体はずんぐりしていて、右耳がへたっている。どこにでも売っていそうなぬいぐるみだ。


でも、写真の中には椎名がいる。写ってはいないのに、いる。暖色のライト、丁寧に並んだ文庫本、少しへたった右耳。全部、椎名の生活の跡だ。


——それが何を意味するか。


考えない。考えるな。


スマホを閉じた。電気を消した。布団に入る。天井が暗い。目が慣れるまでしばらくかかる。


雨の音が聞こえる。弱くなった雨が、窓ガラスを叩いている。鹿沼の夜は静かだ。東京の夜とは違う。車の音も、人の声も遠い。雨と、自分の呼吸しか聞こえない。


たぬきちの丸い目が、瞼の裏にあった。


明日は晴れるらしい。BBQには行くかもしれない。航を叩き起こして、結衣の暴走を見て、凛に助けられて、美咲のテンションに巻き込まれる。椎名は——来ないだろう。巣穴にこもる、と言っていた。


でも明後日がある。明々後日がある。GWが三日残っている。


その三日の間に、椎名がまたたぬきの話を送ってくるかもしれない。送ってこないかもしれない。


どっちでもいい、と思おうとした。


少しだけ、嘘だった。


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