第21話「連休、ちょっと長すぎる」
ゴールデンウィーク前の金曜日。
四限が終わった瞬間、教室がざわついた。明日から五連休という事実が空気を浮かせている。窓際の席の男子が「GW何する?」と誰にともなく叫び、廊下側の女子が旅行の話をしている。浮ついた教室の中で、椎名だけがいつも通り弁当を開いていた。
昼休み。いつもの六人で机を寄せる。
四月の初めに比べて、この作業がずいぶん手際よくなった。航が椅子ごと引きずり、結衣が自分の机をくっつけ、美咲がティッシュの箱をどかし、凛が椅子を持ってくる。俺と椎名の机はもともと隣同士だから動かす必要がない。ただ、椅子の向きを少し変えるだけだ。
結衣がスマホを掲げた。画面の輝度を最大にしている。
「はい注目! あたしが作ったGWの予定表!」
画面には手描き風のカラフルなスケジュールが収まっていた。五月三日にBBQ、四日にカラオケ、五日に鹿沼探検ツアー。各日程に参加者の名前が勝手に入っている。全員フルメンバー。拒否権なし。
美咲が目を丸くする。「いつの間に!?」
航が即答した。「勝手にスケジュール入れんな」
「入れたけど?」
「だから入れんなつってんだろ」
結衣は聞いていない。自分のスマホを愛おしそうに見つめている。「完璧じゃない? ね? 完璧だよね?」
凛が自分のスマホを静かに差し出した。天気アプリの週間予報。三日の欄に傘マークが並んでいる。
「三日、雨予報だよ」
結衣の表情が凍る。一秒、二秒。
「——マジ?」
「降水確率八十パーセント」
「BBQ雨じゃん!」
航がパンの袋を破りながら言った。「だから言ったろ」
「言ってない! 凛が言っただけでしょ! 航は何も言ってない!」
「知ってた」
「知ってたのに黙ってたの!?」
「めんどくせえから」
結衣が「信じらんない!」と頭を抱える。美咲が「カラオケだったら室内だから天気関係ないよ?」とフォローを入れ、結衣が「天才! じゃあ三日をカラオケにずらして——」と組み替えを始める。航が「四日も怪しくねえか」と追撃する。結衣が「希望を奪うな!」と叫ぶ。
騒がしい。毎日騒がしい。この六人で机を囲むようになってからまだ一ヶ月も経っていないのに、もう何年もやっているみたいに馴染んでいる。
椎名はその嵐の中で、静かに弁当を食べていた。
箸の動きがゆっくりだ。卵焼き、ほうれん草の胡麻和え、小さなおにぎり。どれも丁寧に盛りつけてある。椎名の弁当はいつも彩りがいい。母親が作っているのだろう。卵焼きを箸でつまみ、小さい口に運び、ゆっくり噛む。目が半分閉じている。食事中は特に眠そうだ。
結衣がふいに箸の先を椎名に向けた。
「ちさは? GWの予定」
椎名が箸を止める。目がこっちを——いや、結衣を見た。少しだけ間があった。食べかけの卵焼きを飲み込んでから、ぼそっと言う。
「……たぬきは連休になると巣穴にこもるの」
結衣が眉を上げた。
「つまり引きこもり?」
「……たぬきの話」
「たぬきの話じゃなくて千沙の話を聞いてるんだけど」
「……たぬきの話だから」
椎名は結衣の追及を軽やかにかわし、卵焼きの残りを口に入れた。表情は変わらない。変わらないけれど、箸を持つ手が少しだけ速くなる。慌てている——のかもしれない。椎名の動揺は速度に出る。声は変わらないが、手の動きが微かに乱れる。半月、隣に座って気づいたことだ。
凛がくすっと笑った。美咲が「千沙って本当にブレないよね」と感心したように言い、航は興味なさそうにメロンパンを齧っている。航のGWの予定は聞くまでもない。たぶん何もない。
俺はパンの袋を開けながら、考えていた。
五日間。学校がない。教室がない。隣の席がない。
四月の途中まではなかった席だ。俺が転校してきて、たまたま空いていた椎名の隣に座っただけ。それ以前は別の誰かが座っていたか、あるいは誰も座っていなかったか。どちらにしろ、俺にとっては関係のなかった場所だ。
なのに五日間空くと思うと、ほんの少しだけ引っかかる。魚の骨みたいな、飲み込めない何かが喉に残る。
結衣が美咲と凛を巻き込んで予定の再編成をしている。航が「俺は三日は寝る」と宣言して、結衣に「寝かさない!」と叫ばれている。椎名は弁当箱の蓋を閉めて、小さいお茶のペットボトルを口につけた。
俺の方を見ている。いや、見ていたのか。視線が動くのが一瞬遅れて見えて、椎名がペットボトルの向こう側に目を隠した。
「……きみは、結衣のBBQ行くの」
「さあ。天気次第だろ」
「……そっか」
椎名が頷く。ペットボトルを机に置く。その仕草が少しだけ丁寧だ。指先が冷たそうに見える。五月の手前なのに、椎名の指はまだ白い。
◇◇◇
帰り道。
昇降口を出た瞬間、風が変わっていた。四月の風は桜の匂いがしたが、もう花は散っている。代わりに緑が強い。道路脇の植え込みのツツジがピンクに咲いていて、その向こうに鹿沼の空が広がっている。夕方の手前。空がまだ青い。
椎名が隣を歩いている。
靴音が二人分。俺のスニーカーと椎名のローファー。リズムが違う。俺の方が歩幅が広いから、意識しないと椎名を置いていく。だから少しだけ歩調を落としている。椎名は気づいていない。たぶん。
「……きみ、GWはどうするの」
椎名がぽつりと聞いた。昼休みに聞いたのと似ている。でもあの時は六人の中で聞いた。今は二人きりだ。声のトーンが少し低い。ぼそぼそ度が上がっている。
「特に。母さん仕事だし」
「……ずっと一人?」
「まあ。航と遊ぶかもしれないけど、五日間みっちりってわけでもないだろうし」
椎名が黙った。三歩分くらいの沈黙。
「……たぬきも、巣穴の仲間が出かけると、一人で待ってるの」
すぐには決めきれなかった。
「それお前の心配してんの? 俺の?」
椎名の足が一瞬だけ止まった。ほんの一歩分。すぐに追いついて、また並ぶ。
「……たぬきの話」
「どっちだよ」
「……たぬきの話だから」
耳が赤い。今度は夕陽のせいにできない。雲が厚くて、光はほとんど届いていない。椎名の耳だけが、勝手に赤くなっている。
答えは出なかった。出ないまま、分かれ道に着いた。
ここで右に行けば椎名の家。左に行けば俺の家。毎日この場所で別れる。四月の後半からずっと、この十字路が一日の区切りだった。
椎名が立ち止まる。俺の方を見る。
眠そうな目。茶色い瞳。睫毛がゆっくり動く。風で前髪が揺れて、一瞬だけ額が見えた。すぐに落ちてくる。
「……じゃあね」
いつもの「じゃあね」。投げっぱなしの、区切りの記号みたいなやつ。
でも今日はそれで終わらなかった。
椎名が少しだけ口を閉じて、開いて——
「……良い連休を」
声が丁寧だった。
いつものぼそぼそとは違う。ちゃんと言葉にしている。「良い連休を」。敬語じゃないのに距離がある。五日間を丁寧に区切る言い方。明日から会えないことを、椎名はちゃんと認識していて、だから挨拶を一段階上げている。
椎名なりの――礼儀なのかもしれない。あるいは、もう少し違うものなのかもしれない。
「お前もな」
椎名が小さく頷く。「……うん」。
右の道に歩いていく。背中が小さい。制服のスカートが膝の裏で揺れている。鞄を右手に持って、左手はポケットに入れていない。指先が白い。細い。
見送った。角を曲がるまで。
何をやっているんだ、と思った。普段は背中なんて見ない。それぞれの方向に歩き出して、次の日にまた教室で会う。それだけだ。
なのに今日は見送った。
足が動かなかった、と言えば嘘になる。動かなかったんじゃない。動かさなかった。椎名の背中が消えるまで、そこに立っていたかった。理由は分からない。分からないまま、左に歩き出した。
◇◇◇
家に帰る。靴を脱ぐ。台所は暗い。冷蔵庫にマグネットで留めた付箋。『ごはんチンしてね カレー おかあさん』。
電子レンジにカレーの容器を入れる。待っている間にスマホを開く。
グループLINE。結衣がまだ暴れている。『BBQは四日に延期! 異論は認めない!』。航が『四日も雨だったらどうすんだ』。結衣が『泣く』。美咲が『泣くなし(笑)』。凛が『屋根のある公園もあるよ』。結衣が『凛天才!!!!』。
椎名は既読だけ。発言なし。グループLINEの椎名はいつもこうだ。全部読んでいるのに何も言わない。
個別トーク。椎名とのやりとり。最後のメッセージは昨日の夜。椎名が送ってきた。
『……GW、暇だったら連絡して。……たぬきは暇だから』
あれに、まだ返していない。何て返せばいいか分からなかったからだ。「おう」でいいのか。「暇だったら連絡する」でいいのか。それとも——
電子レンジがチン、と鳴る。カレーを出す。一人で食べる。テーブルは二人掛けだけど、椅子は一つしか出していない。
スマホをもう一度見る。椎名のアイコン。たぬきの絵。自分で描いたらしいが、これがたぬきだと分かるのは本人だけだろう。耳みたいなものと、目みたいなものと、丸い体みたいなもの。それでも椎名はこれを真剣に描いたのだと思うと、妙にいとおしい。
——いとおしい、は違う。変な言葉を使うな。
カレーを食べ終わる。食器を洗う。母が帰ってくるのは遅い。夜勤明けの日と早番の日が交互に来る生活。ここに越してきてから、むしろ前より忙しそうだ。
部屋に戻る。天井を見る。
明日からGWだ。五日間。結衣のBBQに行くかもしれないし、行かないかもしれない。航と東方の話をするかもしれない。一人で部屋にいるかもしれない。
どう過ごしても五日間は五日間で、六日目にはまた教室に行く。隣の席に座る。椎名がいる。
「……良い連休を」
椎名の声が耳の底に残っていた。丁寧な声。いつもより少し高くて、少し硬くて、五日間の距離を正確に測ったような声。
個別トークを開く。
『……GW、暇だったら連絡して。……たぬきは暇だから』
「良い連休を。お前もな」と打つ。
打ってから、一秒だけ止まった。
これを送ったら、本当に五日間が始まる気がした。
でも、送った。
既読がつく。
すぐには返ってこない。三十秒。四十秒。画面の上で、椎名のアイコンが上に上がったり下がったりする。打って、消しているのかもしれない。
やがて、短い通知が来た。
『……うん。おやすみ』
それだけだった。
たったそれだけなのに、明日からの五日間が急に本物になった。




