第2話「卵焼きばっかり見てる」
朝。教室に入ると、椎名がもう席にいた。
机の上にプリントの束。誰よりも早く来て、配布物の仕分けをしている。一枚ずつ指先で数えて、各列の先頭にきっちり同じ枚数を置いていく。学級委員の朝は世間の朝より二段階早い。
俺の机の右上にも、今日の配布物がもう揃っていた。いちばん上の端に、丸い字で小さく『一時間目 数学』とだけ書いてある。印刷じゃない。たぶん椎名だ。
俺が席に着いたのに気づくと、ちらりとこちらを見た。今朝も覚醒ゲージが低空飛行。
「おはよう」
「……おはよう」
ワンテンポ遅い。でも昨日より速い。ミリ単位の進歩。この調子だと自然な速度の返事がくるのは冬休み明けだ。
机のプリントのことには触れなかった。触れたらたぶん、椎名はまたたぬきの生態に逃げ込む。
◇◇◇
数学の授業。
前の席の奴の後頭部に寝癖が二本、見事に天を衝いていた。UHFアンテナか。地デジに移行しろ。
椎名は真面目に板書を取っていた。隣だから見える——先生の言葉をそのまま写すんじゃなくて、脳内で一回圧縮してからペンに渡している。ノートの字が丸い。「θ」が顔文字の目に見える。端っこに無意識なのか丸い生き物が描かれていた。たぬき、だろうか。判別には高度な想像力を要する。
先生が指した。
「椎名、この問題」
ゆっくりと顔を上げる。起動に時間がかかるタイプだ。
「……僕は、こっちだと思います」
声は小さい。教室の後方に届いているのか物理学的に怪しい。でも答えは的確だった。先生が「正解」と頷く。
——やっぱり「僕」って言う。
教室の誰もツッコまない。もうこの教室の標準設定になっている。変な奴だけど、頭はいいらしい。
◇◇◇
休み時間。
女子のグループが椎名の机に来た。三人組。真ん中がポニーテールで、両脇を従えた三角陣形。
「椎名さん、週末なにしてた?」
椎名が顔を上げるまでに二秒。返事が出てくるまでにさらに三秒。
「……たぬきは週末になると活動量が落ちるの」
沈黙。
ポニーテールの子が両隣を見た。両隣が首を傾げた。三人の頭が同時に同じ角度に傾く。もはや一つの生命体だ。
「……だから、僕も……活動量が」
補足が入った。入ったのに情報量が増えていない。たぬきの話が椎名の話に変わっただけで、要するに「ゴロゴロしてた」と言えば三秒で済む内容を、動物行動学の発表みたいな形式で述べている。
「え? あ、うん……そっか」
「ま、いっか」
「ね、美咲んとこ行こ」
三人が去った。椎名は何事もなかったかのように机に向き直った。
——昨日のたぬきは偶然じゃない。こいつ、常にこうなんだ。
あの三人組の「ま、いっか」には呆れと微かな距離が混ざっていた。嫌悪じゃない。「咬み合わない」という結論を出した声だ。椎名がそれを気にしているのか、気にしないふりをしているのか——まだ分からない。
でも、三人が離れていったあと、椎名のシャーペンの音だけが少し強くなった。紙に芯が当たる、かり、かり、という小さな音。表情は変わらない。窓の外を見ればいつも通り眠そうだし、肩も落ち着いている。ただ、ノートの端に描かれた丸いたぬきの線だけが、さっきより少し濃かった。
そのまま次の休み時間まで、椎名は誰とも喋らなかった。話しかけられなかった、の方が正確かもしれない。教室の空気は露骨じゃないぶん厄介だ。嫌っているわけじゃない。ただ、合わないなら深追いしない。その判断が全員の中で静かに共有されている。
東京にもそういう空気はあった。人間関係の整理が早い教室。面倒な噛み合わせは、無理に噛ませないまま進行する日常。だから見覚えがある。見覚えがあるぶん、椎名の「何事もなかった顔」が少しだけ引っかかった。慣れている顔にも見えたからだ。
椎名がノートを広げた。何を書くのか横目で見ていたら——「たぬき 週末 行動パターン」という走り書き。
今のやり取りの復習をしている。たぬきの方の。
あの会話で「自分のコミュニケーション」ではなく「たぬきの行動パターン」をメモする人間がこの世にいるとは。改善すべき対象の選定が根本からズレている。
◇◇◇
昼休み。
まだ一緒に飯を食うような相手がいない。二日目だ。焦る話じゃない。
弁当を開ける。白飯、鶏の照り焼き、ほうれん草の胡麻和え、卵焼き。蓋を取った瞬間、醤油と砂糖の甜い匂いが立ち上る。照り焼きのたれが卵焼きの端まで染み出して、おかず同士が兵力を分け合っている。おかず同士の国境線に無頓着な母だ。でも味は悪くない。照り焼きの甘辛いたれがご飯に合う。
箸を持とうとしたところで、椎名がプリントを持ってきた。
「……配布物」
「ああ」
受け取る。椎名が立ち去ろうとして——足が止まった。
視線が俺の弁当を掠めた。一瞬。ほんとうに一瞬。半分しか開いていない瞳の奥で、視線が卵焼きの位置に停まったのを、俺の目は拾った。
弁当のことには触れない。代わりに。
「……たぬきは雑食で、なんでも食べるの。果物も虫も。……好き嫌いしない」
「……弁当食ってる最中に虫を出すな」
「……虫はたぬきの話」
「全部たぬきの話だろ」
「……うん」
反論する気がないのか反論の概念がないのか。それだけ言って自分の席に戻る。距離にして五十センチ。
椎名が弁当箱の蓋を開けた。俺の弁当の半分くらいの大きさ。焼き鮭、ほうれん草のおひたし、卵焼き。整然と並んでいる。おかず同士の境界がはっきり区切られていて、うちの弁当とは国境管理のレベルが違う。
「……いただきます」
小さく手を合わせてから、箸を動かし始めた。食事の所作だけ妙に丁寧だ。右手の箸がおかずに触れる動きに迷いがない。普段のもたもたした受け答えとは別の人間みたいに、手つきだけが冴えている。
俺も卵焼きをつまんだ。甘い。いつも通りの甘さ。母の卵焼きは砂糖が多い。
しばらく黙って弁当を食べる。横並びだから視線は自然に合わない。窓の外から部活の勧誘が聞こえる。「サッカー部入りませんかー!」。鹿沼の昼休みは東京より音の種類が少ないぶん、一つ一つがよく響く。
ふと気づいた。
椎名の弁当箱が、さっきより俺側に寄っている。五センチくらい。最初は机の真ん中にあったはず。椎名は窓の外の山を見ながら鮭をほぐしている。自分の弁当箱が俺の領土に越境していることに気づいていない。
五センチ。たったそれだけの距離なのに、隣の空気が変わる。鮭をほぐす箸の先が、ほんの少しだけ俺のほうに傾いている。
食べる速さも、いつの間にか揃っていた。俺が卵焼きを口に入れると、隣で椎名が鮭を一口。俺がご飯に戻ると、椎名も白飯を食べる。偶然だと思う。でも二、三回続くと、偶然にしては律儀すぎる。横を見なくても、隣にいる相手のテンポをどこかで拾っている。そういう食事だった。
しかも椎名は、たまにこっちの弁当を見ている。真正面からじゃない。視線の端で、確認するみたいに。照り焼きがあと何切れ残っているか、卵焼きがもう減ったか、そういうどうでもいい情報だけを拾っている感じだ。観察しているくせに、見ていない顔がうまい。
俺の弁当の卵焼きは今日は一切れ多い。母の勘のよさに腹が立つ。いや、勘というより取調べ能力かもしれない。朝、弁当箱を見た瞬間に「増えてる」と分かった時、台所の向こうで母が何も言わずに笑っていた。あの顔を思い出すとちょっと腹が立つ。
箸が動いた拍子に、椎名の肘が俺の腕に触れた。
——冷たい。
昨日の指先と同じ温度。四月の教室で春の匂いが流れ込んでいるのに、この人の体の端っこだけが季節から取り残されている。
椎名がちょっとだけ肘を引いた。五センチの空白が戻る。
——数分後、またその五センチが詰まっていた。
無意識だ。振り子。離れて、戻って。律儀に。
弁当箱の隅に梅干しが一つ。椎名はそれを最後まで残して、おかずを全部きれいに食べ終えてから——覚悟を決めたように口に運んだ。
顔が歪んだ。目がぎゅっと閉じて、口元が「く」の字に縮む。酸っぱいのが苦手らしい。でも残さない。咀嚼して、飲み込んで、鼻の奥が痛そうな顔をして——「ふう」と小さく息をついた。
偉い。何が偉いのかよく分からないけど、苦手なものを最後にきっちり食べきる姿勢が、なんか偉い。
「……ごちそうさま」
小さく手を合わせる。指がきれいに揃っている。
俺が卵焼きの最後の一切れを口に入れた時、椎名がぽつりと言った。窓の外を見たまま。
「……たぬきも、甘いものは好きだよ」
また、たぬき経由。
でも弁当を見ていたのが確定した。「好き嫌いしない」と言っておいて「甘いものは好き」と追加情報を出してくる。たぬきの食性を経由して、自分の味の好みを語っている。一枚比喩を挟んでも本音を保護する構造が、この子の話し方にはある。
「食うか? 明日もたぶん入ってるけど」
椎名の箸が止まった。
五センチの空白が、一瞬だけ広がった。
「……別に、たぬきの話をしただけ」
そう言って蓋を閉じた。指先が蓋の縁をなぞるように押さえている。弁当箱を包んでいたハンカチが薄い水色で、四隅をきちんと折って戻す手つきが丁寧だった。弁当の食べ方に性格が出るなら、椎名は「几帳面だけど最後まで苦手を残すタイプ」だ。あのこんにゃくの放浪と、梅干しの最終戦争を思えば、結論は明らかだった。
耳の先に——四月の午後の光のせいか、ほんの少し赤みが差している。ほんとうに光のせいかは、分からない。
でも、「たぬきの話をしただけ」の声が、さっきまでより一段小さかったのは確かだ。
そのあと、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで、椎名は一度も卵焼きの方を見なかった。見ないようにしているのが逆に分かる。教科書を出す手が少しだけ忙しない。ペンケースの向きを直して、シャーペンを出して、消しゴムを揃えて、まだ時間があるのに次の授業の準備を全部終えてしまう。落ち着かない時ほど作業を増やす人間なんだろう。
そのくせ、授業が始まる直前、机と机の間の空気がまた五センチ分だけ縮まっていた。戻ってきている。律儀に。そういうところだけ、妙に正直だ。
◇◇◇
帰り道。駅のホームで電車を待つ。次は四十分後。田んぼに水が入り始めていて、夕陽が水面をオレンジに塗っている。風がぬるい。制服のシャツが首筋に張りつく汗を、四月の風が順番に乾かしていく。
ベンチの板が尻の下で温い。向かいのホームに人はいない。駅舎の時計が止まっている。止まっているのか、もとから動いていないのか。パンジーだけが元気だ。このホームで唯一、時間通りに生きている存在はパンジーだと思う。
弁当箱が五センチ寄ってくる。離れて、戻って。梅干しで顔が歪む。「甘いものは好きだよ」。
——明日、卵焼きをもう一個多く入れてほしいと母に言おうかと思って、やめた。
あれはたぬきの食性の話だ。たぶん。
◇◇◇
家に帰ると、台所から卵を割る音がした。母が明日の弁当の下ごしらえをしている。フライパンの上で油が小さく鳴って、醤油の匂いが立ちのぼる。
「おかえり。今日どうだった」
「普通」
「その普通、毎回情報量が少なすぎるのよ」
母は言いながら卵を溶いている。菜箸の先がボウルの縁に当たって、からから鳴った。黄色がするすると混ざっていく。
俺は冷蔵庫を開けるふりをして、できるだけ何でもない顔で言った。
「明日の卵焼き、ちょっと多めでもいい」
菜箸の音が止まった。
「珍しい」
「そうか?」
「そうよ。あんた、卵焼きは好きだけど『ちょっと多め』って言うほど執着しないじゃない」
図星だった。執着しているのは俺じゃなくて、たぶん、隣の席のたぬきだ。
「……気分」
「ふーん」
母がにやっとした。嫌な笑い方だ。親という生き物は、こっちが墓場まで持っていきたい類いの微妙な変化だけを嗅ぎ当てる能力がある。
「誰かにあげるの?」
「は?」
「女の子?」
「違う」
反射で返したら、母は卵液を流し込みながら「はいはい」と頷いた。何ひとつ信じていない頷き方だった。くるくると卵を巻く手つきだけがやたら手慣れている。
しかも今日は、いつもよりちょっとだけ形がきれいだった。端が崩れていない。焼き色も均一だ。からかわれているのか応援されているのか分からないまま、フライパンの上で巻かれていく卵を見ているしかない。家庭内の空気が妙に先回りしている。
「ま、余ったら自分で食べなさい」
余ったら、って何だ。最初から配給前提で卵焼きが増産されることになっている。家庭内で勝手に物流計画を立てるな。
でも、フライパンの上で巻かれていく黄色を見ていると、少しだけ明日が近づいた気がした。
それでも、もし本当に甘いものが好きなら、卵焼きじゃなくて別のものの方がいいのかもしれない。大学芋とか。いや、高校の弁当に大学芋を入れろと言う男子は気持ち悪い。そもそも誰に食わせる気だ。母にどう説明する。隣の席の女子がたぬき経由で甘いもの好きを匂わせてきたので、という報告は家庭内でも採用されない。
考えれば考えるほど意味が分からなくなって、ベンチの上で一人、唇の端が緩んだ。鹿沼に来て二日目で、俺はたぬきの好物について真剣に悩んでいる。だいぶおかしい。
線路の向こうに山が赤く染まっている。空が広い。星が一つだけ先に出ている。一番星にしてはやけに控えめで、空の端っこにぽつんと光っている。遠慮がちに。椎名っぽい星だな、と思って——なんでそこに椎名を重ねるんだ。
頭を振る。振ったところで消えない。
昨日の「巣穴に慣れるまで三日間」。今日の「雑食で好き嫌いなし」。それから「体温は三十八度」。全部、たぬきの話。全部、椎名千沙を通すと別の意味になる。
新しい場所が苦手で、弁当が気になって、指先が冷たくて、卵焼きが好き。
——もしそうだとしたら、この子は自分のことを一度も直接言っていない。全部たぬきに翻訳して、ワンクッション置いてから外に出している。なんでそんな面倒くさいことをするのか。
わからない。わからないが——面白い。
電車がまだ来ない。四十分。線路が夕焼けの中を一直線に伸びている。あのカーブの向こうから、そのうち二両編成が顔を出す。
ベンチの上で、たぬきの生態について考えている。隣の席の変な学級委員の話し方について考えている。
——いや。考えすぎだ。
でもホームのベンチで、四十分間、そのことだけ考えている自分に気づいて、少しだけ笑った。




