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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
眠そうな君と、たぬきの話
19/21

第19話「誰もいない教室」

六限目が終わった。


結衣が即座に立ち上がる。「放課後、計画会議!」。航が「うるせえ」。美咲が「駅前のカフェなら行ける」と乗り、凛が「じゃあそこで」とまとめた。四人しかいないのに、すでに騒がしい。


「千沙は?」と美咲が聞く。


椎名は少しだけ考えてから首を振った。


「……今日は、文芸部」


「俺もパス」と言うと、結衣が「じゃあ四人で行ってくる!」と手を振った。航は嫌そうな顔のままついていく。結局行くんだよな、あいつは。


◇◇◇


筆箱を忘れたのに気づいたのは、昇降口まで来てからだった。


溜め息を一つついて三階に戻る。放課後の校舎は静かだ。蛍光灯は半分落ちていて、夕陽だけが廊下を長く照らしている。自分の足音だけが反響する。


教室のドアを開けた。


椎名がいた。


窓際の席で文庫本を読んでいる。ページの端が夕陽を吸って、薄い橙に光っていた。椎名の横顔も同じ色をしている。


「……文芸部じゃなくて?」


椎名が顔を上げる。


「……今日は、ここがいい」


たぬきの話じゃなかった。素の言葉だった。


筆箱は机の中にあった。数学のノートの下。取って鞄に入れる。用はそれで済んだ。


それなのに、帰らなかった。


隣の席の椅子を引いて座る。椅子の脚が床を擦る音が、夕方の教室に小さく響いた。椎名は何も言わない。俺も言わない。椎名はまた本に目を落とす。俺は窓の外を見る。


それだけのことが、妙にしっくりきた。


六人でいる時のにぎやかさも嫌いじゃない。でも今の静けさは、別の種類で居心地がいい。話さなくても埋めなくていい余白がある。椎名が「ここがいい」と言った意味が、少しだけ分かる気がした。


窓は半分開いている。四月の終わりの風が入ってきて、カーテンの裾を揺らした。遠くで部活の掛け声がしている。でも遠い。この教室だけが少し別の場所みたいだ。


椎名がページをめくる音。


五分か十分か。時間の感覚がぼやける。花瓶の水が西日に反射して、天井に揺れる光を映していた。


「……きみ」


椎名がぽつりと呼ぶ。


「ん?」


本から目を上げる。こっちを見ようとして、途中で止まる。薄い茶色の瞳の奥で、何かが揺れた。


「…………なんでもない」


飲み込んだ。


ページに視線を落とす。でも本は進まない。同じ行を見ているのが分かる。


追いかけなかった。追いかけると、椎名の言葉はもっと奥に引っ込む。椎名が言えない時は、待つしかない。


その時、窓から少し強い風が入った。机の上のプリントが一枚、ふわっと浮く。


「あ」


二人同時に立った。椅子の脚が床を擦る音が静かな教室に重なる。プリントは教卓の方へ逃げて、途中でくるりと回って落ちた。


拾い上げた拍子に、今度は椎名の文庫本から何かが落ちた。


しおりだった。紙じゃない。押し花みたいに薄くなったツツジが透明なフィルムに挟まれている。


「……返して」


珍しく少しだけ早い声だった。からかう気は最初からなかった。黙って渡す。


椎名は受け取ると、ほんの少しだけ息をついた。大事にしていたものを乱暴に扱われなかったと分かった時の、小さな安堵みたいな顔だった。


「……それ、去年の」


「好きなんだな、ツツジ」


「……うん」


そこでやっと、椎名が文庫本を差し出す。さっきよりほんの少しだけ、まっすぐな手つきで。


しばらくして、椎名が本を閉じた。しおりを挟んで、鞄に仕舞う。それから別の文庫本を取り出した。表紙の角が少し擦れている。何度も読んだ本のくたびれ方だ。


「……これ」


差し出される。


「読んでみて。……好きな本だから」


受け取る。知らない作家だった。でも椎名の好きな本だというだけで、妙に重みがある。


椎名が少し迷ってから、本を開いた。真ん中より少し後ろ。慣れた手つきでページをめくって、ある一文のところで指を止める。


「……ここ、好き」


覗き込む。短い一文だった。静かな言葉。教室の夕方みたいな温度をした文章だった。


「こういうの読むんだ」


「……うん」


「なんでそこが好きなんだよ」


椎名は少し黙った。答えるかどうか迷う時の沈黙。ページの端を指でなぞって、それから小さく言う。


「……うまく言えないけど、ちゃんと静かだから」


「ちゃんと静か?」


「……無理に優しくしてないし、無理に悲しくもしてないの。……ただ、そこにある感じ」


「じゃあちゃんと読む」


「読んだら返す」


「……急がなくていいよ」


少し間があってから、椎名が付け足した。


「……でも、感想は聞きたい」


それから、もっと小さな声で。


「……できれば、ここで」


「ここ?」


椎名は教室の窓際を少しだけ見る。花瓶の水、揺れるカーテン、夕方の光。全部まとめて『ここ』なんだろう。


「……うん。……この部屋の方が、話しやすいから」


「注文多いな」


「……貸し主だから」


「じゃあ読む」


椎名の口元が少しだけ緩む。


「……うん」


立ち上がる。椅子を戻す音が二つ重なる。椎名が教卓の横から鍵を取る。学級委員の手つきで慣れている。


廊下に出る。ドアを閉めて、鍵を回す。カチャン、という金属音が静かな廊下に響いた。さっき椎名が飲み込んだ言葉も、あの教室の中に残してきた気がした。


階段を下りる。二人とも喋らない。喋らないことが自然だった。


校門を出る頃には、空はかなり暗くなっていた。西の端だけがまだ橙色を引きずっている。一番星が低い位置に出ていた。


椎名が前を向いたまま言う。


「……また明日」


足が止まった。


椎名の方を見る。横顔だけが見える。いつもの「じゃあね」とは違う言葉。明日も会う前提の言葉。


「……ああ。また明日」


返すと、椎名はそのまま歩き出した。


角を曲がる直前、椎名が一度だけ振り返る。ほんの一瞬。


すぐにまた前を向いた。


一人になる。鞄の中には椎名の文庫本が入っている。明日、返す理由ができた。


四月の終わりの夜風は冷たいのに、足だけは軽かった。


◇◇◇


家に着いて、夕飯を食べて、風呂に入って、それでもすぐには寝る気になれなかった。


机の上に置いた文庫本を手に取る。貸された時の重みがまだ指に残っている気がする。表紙の擦れ具合。角の丸まり方。何度も開かれた本の手触りだった。


ベッドに座って最初のページをめくる。静かな話だった。事件らしい事件はなかなか起きない。会話も少ない。そのくせ不思議と読み進められる。音の小さい本だと思った。


しばらく読んでいるうちに、さっき椎名が指を止めていた一文に辿り着く。


そこで手が止まった。


『……ちゃんと静かだから』


椎名の説明を思い出す。無理に優しくしていないし、無理に悲しくもしていない。ただそこにある感じ。


派手じゃないのに、見落とせない。あの教室と少し似ていた。


スマホを手に取る。感想を送るなら今でも送れる。


『ここ、分かったかも』


打って、消す。


椎名は『できれば、ここで』と言っていた。あの教室で。花瓶の水と、揺れるカーテンと、部活の音が遠い場所で。


それなら、今送るのは違う。


今すぐ送りたかった。でも、それは明日あの教室で返したかった。


感想ひとつ先延ばしにするだけで、明日の放課後に形ができる。そんなふうに明日の理由を作っている自分に気づいて、少しだけ可笑しかった。


本にしおり代わりのレシートを挟んで閉じる。椎名の押し花のしおりみたいに綺麗じゃない。コンビニの印字が入っただけの紙だ。


明日返すんじゃなくて、明日話すために持っていく。


そう決めると、文庫本の重さが少し変わった。借り物というより、明日の約束みたいな重さになる。


机の引き出しを開ける。たぬきちのメモ。筆箱の中には絆創膏。そこに今日の文庫本を入れようとして、やめた。これは引き出しじゃなくて、鞄に入れておくべき気がした。忘れたくなかったし、明日学校に持っていくのを忘れたら間抜けすぎる。


鞄の一番上に本を入れる。ファスナーを閉める音がやけに軽い。


窓の外を見る。住宅街の明かりがまばらに灯っている。今日の教室ほど静かじゃない。でも、あの場所の空気がまだ少しだけ服に残っている気がした。


『……また明日』


その言い方を思い出す。


ベッドに入ってからも、すぐには眠くならなかった。頭の中にあるのは本の一文より、『また明日』と言った時の椎名の横顔の方だった。


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