第18話「鹿沼の色は嫌いじゃない」
電話の夜から、二、三日たっていた。四月の終わり。通学路の空気が、少しだけ夏に近づいていた。
道端のツツジが咲いている。田んぼには水が張られて、朝の空を丸ごと映していた。風が吹くたび、水面の青が揺れる。カエルの声も、最初はうるさいだけだったのに、最近はないと物足りない。
転校してきた日、鹿沼はただ広いだけの町に見えた。今は広いだけじゃない。色が多い。
教室に入ると、椎名がもう席にいた。頬杖をついて、窓の外を見ている。
「おはよ」
「……おはよう」
目の開き具合は六割くらい。通常営業だ。この数週間で、椎名のコンディションを瞼で判別するようになった。ひどい特技だと思う。
窓の外には校庭、その先に山。若葉の緑が朝の光を受けている。椎名がぼそっと言った。
「……鹿沼は、色が多いよ」
「朝から唐突だな」
「……東京は、灰色が多かったでしょ」
少し考える。ビル、コンクリート、ガードレール、線路、夜のネオン。たしかに、色はあっても落ち着く色じゃなかった。
「ここは、緑と青と……」
椎名が窓の外を指差す。校舎脇のツツジ。空。田んぼの水面。
「……ツツジのピンクと」
それだけ言って、また前を向いた。
一限目が始まる前の教室はまだざわついているのに、その一言だけ妙に澄んで耳に残った。
◇◇◇
放課後。航は家の用事で先に帰った。結衣は凛を引っ張って駅前の買い物へ、美咲はスマホを見たまま別方向に消えた。
残ったのは、俺と椎名だけだった。
校門を出たところで、椎名が小さく言う。
「……一緒に帰ろ」
短い。たぬきも何も挟まない。自分の言葉だけ。
「うん」
歩き出す。最初から二人きりの帰り道は、なんとなく普段と温度が違う。椎名はいつもの半歩後ろ。歩幅の差でそうなっているだけなのに、その半歩がやけに意識に引っかかった。
校門の少し先にある自販機の前で、椎名が足を止めた。
「……喉、渇いた」
珍しく分かりやすい理由だった。自販機のボタンを眺める横顔が、夕方の光で少し柔らかい。
「何飲むんだよ」
椎名の指が、薄いピンクの缶で止まった。
「……いちごミルク」
「甘そうだな」
「……鹿沼の色」
そう言われると、ちょっと飲んでみたくなるのが悔しい。俺は結局、麦茶を選んだ。冒険しない自覚はある。
プルタブを開ける音が二つ。椎名はいちごミルクを一口飲んで、少し考えるような顔になった。
「……飲む?」
差し出される。今日は何なんだ。卵焼きの日といい、椎名はたまにこっちの心臓に悪い。
一口だけもらう。甘い。予想以上に甘い。
「デザートだろこれ」
「……でしょ」
歩きながら少しずつ飲んでいるうちに、椎名の缶は先に空になった。俺の麦茶も、気づけば半分以下になっている。
どこか得意げだ。いちごミルクで勝ち誇るな。
それでも、こうやって一本の飲み物を挟んで歩いているだけで、帰り道の見え方が少し変わる。味そのものより、椎名がこれを「鹿沼の色」と呼んだことの方が残っていた。
「でも、ツツジの色はちょっと分かる」
そう言うと、椎名がほんの少しだけ嬉しそうな顔をした。
自販機の横の小さなゴミ箱に缶を入れる。空になったいちごミルクの缶は、夕方の光の中でもまだ薄いピンクをしていた。
「……きみ、たまにちゃんと付き合ってくれるね」
「何に」
「……こういうの」
自販機と夕方の色と、いちごミルクと、用水路の水面。たしかに、東京にいた頃の俺なら立ち止まらなかった類いのものばかりだ。
「椎名がいちいち止まるからだろ」
「……人のせい」
「半分はな」
その半分を否定しないでいる自分に、少しだけ驚いた。
その時、後ろから軽トラがゆっくり近づいてきた。道が細い。自然に端へ寄る。
用水路側は危ないから、椎名が先に内側へ入って、俺がその外に立つ形になった。肩が少し触れる。たった一瞬。でも、いちごミルクの甘い匂いがまだ近くに残っていた。
軽トラが通り過ぎる。運転席のおじさんが軽く手を上げた。椎名が小さく会釈を返す。鹿沼の通信プロトコルは相変わらず謎だ。
「……近いね」
椎名が前を向いたまま言う。
「道が狭いからだろ」
「……そういうことにしとく」
返しが少しだけ大人びていて、逆に困った。
夕方の田んぼは朝と別物だった。水面が空の青じゃなくて、夕陽の橙を映している。カラスが低く飛ぶ。遠くでトラクターの音がする。アスファルトがまだ昼の熱を少し持っていて、風だけが涼しい。
用水路の脇で、椎名が足を止めた。つられて止まる。
水面に空が映っていた。青の上に橙が薄く重なって、ツツジの色だけが端で浮いている。風が吹くたびに全部ゆらぐ。
「……ほら」
椎名が顎で水面を示す。
「……夕方は、こういう色になるの」
説明というより、見せたかっただけの声だった。
「毎日見てんの?」
「……たまに」
たぶん嘘だ。好きなものを見つけた時の声だった。毎日じゃなくても、何度も見てきた人の声。
用水路の縁に、ツツジがひとつ落ちていた。椎名がしゃがんで拾う。花びらじゃなくて、花ごと。指先でくるりと回して、それを水面の上にそっと置いた。
橙の上を、濃いピンクがゆっくり流れていく。
「……流れるね」
「当たり前だろ、水だし」
「……そういうことじゃなくて」
少しだけむっとした声。けど、その横顔はどこか楽しそうだった。
椎名が珍しくたぬきの話をしない。黙って歩いている。でも不機嫌じゃない。むしろ静かに機嫌がいい時の顔をしている。口元の力が少し抜けている。
「……ここ、好き?」
「何が」
「……鹿沼」
前を向いたまま聞かれた。俺の方は見ない。けど、答えはちゃんと欲しい聞き方だった。
好きかどうか。
ここに来たのは、自分で選んだからじゃない。離婚だの引っ越しだの、そういう大人の事情に押し出されて来た。四十分に一本の電車も、広すぎる空も、最初は全部よそよそしかった。
でも。
この数週間で、六人でコンビニの前に座った。教科書を寄せてもらった。消しカスで戦争した。夜に電話して、同じ月を見た。変な学級委員のたぬき話を、少しずつ読めるようになった。
「……まだわかんねえ」
正直にそう言う。
椎名が小さく頷く。否定しない。急かさない。
だから、もう一つだけ足した。
「でも、悪くない」
椎名がこっちを見た。半歩後ろから、視線だけが追いついてくる。夕陽を受けた瞳が薄い琥珀色になる。
「……そっか」
椎名が笑った。
眠そうな目のまま、口元だけが少し上がる。声は出さない。静かな笑い方。
風が吹く。椎名の髪が揺れる。
「……悪くないなら、よかった」
また前を向く。歩き出す。俺も歩く。半歩の差が少しだけ縮まる。
答えを急がないのが椎名らしいと思った。好きか嫌いかをすぐ決めさせない。ただ、一歩ぶんだけ近い答えを受け取って満足している。その受け取り方に、少し救われる。
「椎名は」
「……なに」
「好きなのかよ。鹿沼」
少しだけ間があった。
「……うん」
すぐには続かなかった。言葉を探して、それからぽつりと落とす。
「……きみが来てから、前より好き」
足が一瞬だけ止まりそうになった。
でも椎名は前を向いたままだ。たぶん、自分が何を言ったか半分しか自覚していない。言い終わってから、耳がじわっと赤くなっていくのが見えた。
「……たぬきの話じゃねえのかよ」
「……今日は、いいの」
それが限界だったらしい。椎名は少しだけ歩く速さを上げた。
分かれ道に着く。
「……じゃあね」
小さい背中が夕陽の方へ伸びていく。長い影だけが、しばらくこっちに残っていた。
一人になって、帰り道を歩く。ツツジのピンク、田んぼの緑、水面の橙。
鹿沼は色が多い。
——まずい、かもしれない。
◇◇◇
家の最寄りのコンビニに寄った。
別に用事はなかった。飲み物でも買って帰るか、くらいの気分だったのに、冷蔵棚の前で足が止まる。薄いピンクの缶が並んでいた。さっき椎名が飲んでいたのと同じ、いちごミルク。
自分で選ぶ日が来るとは思わなかった。
しばらく見てから、一本取る。ついでに麦茶も持った。レジで並んでいる間、これを母に見られたら絶対何か言われるなと思ったけど、戻すほどでもなかった。
家に帰って、部屋の机に二本置く。結局先に開けたのは、いちごミルクの方だった。
甘い。やっぱり甘い。喉を潤す飲み物というより、間食に近い。
でも、さっきより少しだけ分かる。味だけじゃなくて、缶の色も込みで椎名はあれを選んだんだろう。窓の外のツツジと、夕方の光と、田んぼに映る空の色を、そのまま飲めそうな物として。
机に肘をついて、今日の帰り道を思い出す。用水路の縁。流れていくツツジ。『きみが来てから、前より好き』。
スマホを取る。個別LINEを開いて、閉じる。何か送ろうとして、やめる。『いちごミルク飲んだ』は報告としてどうなんだ。意味が分からない。
でもそのまま閉じるのも違う気がして、結局一言だけ打った。
『鹿沼の色、ちょっと分かったかも』
送る。数十秒で既読がつく。
『……どの色?』
返ってきた。
質問が細かい。適当に返すと見透かされるやつだ。
少し考えてから打つ。
『夕方の水の色と、ツツジの色』
既読。少し長めの間。
『……えらい』
何に対する評価なのか分からない。
『なんだそれ』
『……ちゃんと見てたから』
短い文だった。でも、帰り道で椎名が見せたかったものの答え合わせとしては十分だった。
窓の外はもう暗い。田んぼの水面も、昼や夕方みたいに色を返さない。ただ街灯だけが細く伸びている。
それでも今日は、頭の中に残っている色の方が強かった。
机の上のいちごミルクの缶を見る。薄いピンク。鹿沼の色、とまではまだ思えない。でも、前みたいにただ甘いだけの変な飲み物とも思わなくなっていた。
さっきより、ただ甘いだけの色には見えなかった。




