第17話「同じ月を見ていた」
夜。母は遅番で、家は静かだった。
冷蔵庫のおかずを温めて食べる。悪くはない。でも昼に食べた椎名の卵焼きの甘さが舌に残っていて、勝手に比べてしまう。比べるな。比較対象として不健全だ。
食器を洗って、部屋に戻る。数学のワークを開く。二次関数。放物線。頂点。どれも頭に入ってこない。窓の外に月が出ていた。満月までは少し足りない、九割くらいの月。鹿沼の夜は暗いから、月の白さがよく見える。
スマホが震えた。個別LINE。椎名。
『……たぬきは満月の夜に活発になるの』
二十一時二十三分。夜に来るには、少しだけ遅い連絡だった。
『それ今送る必要あった?』
既読がつく。
『……月が出てたから、つい』
『たぬきの話って月で発動するのか』
『……たぬきは常に頭にいるの』
『重症だな』
『……失礼。たぬき愛は健全な精神活動だよ』
顔が見えないぶん、椎名はLINEだと少しだけ饒舌になる。教室でぼそぼそ話す時より、文字の方が素直だ。
それでも、送る速度にはまだ椎名らしいためらいが残る。既読がついてから一拍置いて、入力中が出たり消えたりして、それから届く。画面の向こうで言葉を選んでいる姿が見えるみたいだった。
『で、何。眠れないのか』
少し間が空いた。
『……うん』
前にもそんなことを言っていた。あの時は「寝ろ」で終わった。でも今日は終わらなかった。
『寝ろよ。明日小テストだろ』
既読。しばらく返ってこない。数学に戻る。戻ったふりをする。三分後、またスマホが震えた。
『……電話していい?』
椎名からそんなことを言われるとは思わなかった。
返事を打つ前に、通話ボタンを押していた。
◇◇◇
コール二回で出た。
「……もしもし」
椎名の声が近い。電話越しの声は、教室で聞くより少し低くて、少しかすれていて、息の成分が多い。耳のすぐそばにいるみたいな距離感だ。
「起きてた?」
「起きてたから出たんだろ」
「……そっか」
布が擦れる音。寝転がってるのかもしれない。少しの沈黙があってから、椎名が聞いた。
「……何してた?」
「二次関数」
「……あ、僕もまだやってない」
「やれよ」
「……やる。たぶん」
「たぶんって何だよ」
「……たぬきに数学は不要だから」
「お前はたぬきじゃないだろ」
「……三十八回目」
「増えてんじゃねえか」
小さく笑う気配がした。声にはならないけど、分かる。電話だと、そういう微かなものまで耳に届く。
会話は中身が薄い。小テストの範囲、結衣の声の大きさ、航のから揚げ防衛力、美咲がまたスマホで何か見ていたこと。どうでもいい。どうでもいいのに切れない。
「文芸部、何書いてんの」
「……秘密」
「まだ秘密なのか」
「……まだ」
「いつか見せてくれんの」
少し黙ってから、椎名が言った。
「……いつか」
「曖昧だな」
「……曖昧じゃないよ。……ちゃんと、いつか」
その言い方だけ少し真面目で、変に胸に残った。
虫の声が聞こえる。向こうの窓が開いてるらしい。
「……GW、予定ある?」
「特にない」
「……じゃあ、一回くらい、勉強でも」
たぬきを挟まなかった。素の言葉だった。
「いいよ。どこで」
「……図書館。……一人だと寝ちゃうから」
「勉強しに行く意味あんのか」
「……椎名ちさ、約束する。たぬきに誓って」
「信用ならねえ誓い方だな」
机の端に置いたカレンダーを見る。GWの白いマスが並んでいる。そのうちの一つに、無意識で丸をつけかけて、ペン先が止まった。先走りすぎだろ、と自分で思う。
でも、その白いマスのどこかに図書館が入ることだけは、もう決まった気がしていた。
そのあと、椎名がぽつりと聞いた。
「……月、見えてる?」
窓を見る。月光が机の端に四角く落ちている。
「見えてる」
「……僕も、見えてる」
少し間。
「……右の下に、ちっちゃい星あるでしょ」
窓に顔を寄せる。たしかに、月の少し右下に小さな光がひとつだけ見えた。言われるまで気づかなかった。
「ある」
「……同じ月を見てるの、変な感じ」
向こうで窓枠に指先が触れるような、小さな音がした。椎名も窓に寄っているのかもしれない。そう思うだけで、夜の距離感が少し変わる。
「……外、寒くないのか」
「……少し」
「閉めろよ」
「……でも、月が見えなくなる」
言い方が、子どもみたいに真っ直ぐだった。可笑しくて、少しだけ笑った。
こういう時の椎名は、たぬきの後ろに隠れない。好きなものを好きなまま外に出す。昼の教室では見えにくい部分が、夜だと少しだけ表に出るらしい。
夜の空気のせいか、椎名の声がいつもより柔らかい。ぼそぼそじゃなくて、静かにほどけていく感じの声だった。
「……椎名」
自分でも少し驚くくらい、低い声が出た。
向こうが黙る。呼吸だけが聞こえる。
「……なに」
さっきより半音だけ高い。名字を呼んだだけなのに、何かが揺れたのが分かった。
でも追わない。追ったら壊れる。
「寝ろよ」
「……うん」
「寝ないと明日もっと眠そうだぞ」
「……たぬきは夜行性だから」
「だからお前はたぬきじゃないって」
小さな息。笑ったのかもしれない。
「……おやすみ」
今度ははっきり聞こえた。消えそうじゃなくて、ちゃんとこっちに届かせる声だった。
「おやすみ」
それで通話が切れると思った。けど、切れなかった。
どっちも通話終了のボタンを押さないまま、数秒が過ぎる。向こうの虫の声。こっちの壁掛け時計。お互いの呼吸だけが、細い糸みたいに繋がっている。
「……椎名?」
「……まだいるよ」
「知ってる」
「……じゃあ、きみが切って」
「なんで俺が」
「……なんとなく」
最後までそんな調子だった。結局、もう一回だけ『おやすみ』を言い合ってから、ようやく通話が切れた。
通話が切れる。十八分。
部屋が急に静かになる。スマホを枕元に置いて、天井を見る。
「……変な奴」
声に出したら、自分が笑ってるのが分かった。大した話はしていない。なのに部屋の温度だけが少し上がっている。
机に戻って、さっきのカレンダーを開く。結局、丸はつけない。代わりに、GWの欄を親指で一度だけなぞった。
予定が一つ入るだけで、連休の形が変わる。去年までそんなこと、気にしたこともなかったのに。
◇◇◇
翌朝。教室。
椎名は机に突っ伏していた。完全に沈没している。髪が机に広がって、腕に顔を埋めて、ぴくりとも動かない。
「おはよ」
返事はない。深い。
結衣が通りすがりに「千沙、死んでる?」と覗き込んだ。
「生きてるだろ」
「起こす?」
「かわいそうだからそのままで」
美咲が後ろから「椎名さん朝弱いよね」と言う。航が「お前もだろ」と切り捨てる。いつもの朝だ。
航が俺の顔を見て、付け足した。
「ハルトも目、死んでるぞ」
「死んでねえよ」
「いや、椎名さんと同じ開き方してる」
その言い方で分かる。見逃してくれないやつだ。
チャイムが鳴る。椎名がむくりと起き上がった。頬に腕の跡。前髪が片方だけ跳ねている。ひどい寝起きだ。
「遅くまで起きてたからだろ」
椎名がゆっくりこっちを見る。眠そうな目がさらに細い。ひどい顔なのに、昨日電話をしていたことを知っている側からすると少し可笑しかった。
「……きみも」
小声で返して、そのまままた机に額をつけた。反論のキレがない。完全に寝不足だ。
一限目の数学は、お互いひどかった。
先生のチョークの音が眠気を加速させる。窓の外はよく晴れていて、余計にだめだ。俺が一度だけ欠伸を噛み殺した直後、隣からこつ、と机の脚に軽く何かが当たった。椎名の上履きの先だった。
横目で見る。椎名は前を向いたまま、小さくノートをこっちへ寄せてきた。
端っこに、丸い月の落書き。横に小さく『……切るの、そっちの役目だったのに』。
吹き出しそうになるのを堪えて、シャーペンでその下に書く。
『無茶言うな』
返すと、数秒後にまたノートが戻ってきた。
『……電話、嫌じゃなかった?』
授業中にする確認じゃない。けど、椎名はこういうことを真正面から言う時ほど小さくなる。目は前、声はない、字だけが妙に正直だ。
少しだけ考えて、短く書いた。
『嫌なら出てない』
椎名の指先がその文字の上で一瞬だけ止まった。消しゴムを持ちかけて、やめる。結局そのままノートを引き戻した。
耳の端が、今日も薄く赤い。
休み時間。結衣が振り向くなり言った。
「ねえ、二人とも今日めっちゃ眠そうじゃない?」
「そう?」と美咲が割って入ってきて、俺と椎名の顔を順に見る。「ほんとだ。同じ感じ」
窓際の女子二人がそのやり取りを聞いて、ちらっとこっちを見てから何か言い合った。昨日の噂は、まだ薄く教室に残っているらしい。
航が「授業中に寝るなよ」とだけ言って、自分は机に突っ伏した。説得力がない。
凛が静かに微笑む。
「夜更かしの種類が似てるのかもね」
椎名の肩がぴくっと揺れた。俺は咳払いで誤魔化す。
「ゲームじゃねえの、椎名」
「……たぬきに、ゲーム機はないよ」
「じゃあ何してたんだよ」と結衣が食いつく。
椎名は少しだけ間を置いてから、ぼそっと言った。
「……月見」
結衣が「風流!」と笑う。美咲が「何それおばあちゃんみたい」と追撃し、凛は「いい夜だったもんね」とだけ言った。
一限目のチャイムが鳴る。椎名がノートを引き寄せる。端っこに描かれた月だけは、まだ消えていなかった。
昨夜の月は、朝になっても隣の机に残っていた。
椎名が横目で一度だけこっちを見る。そこで昨日の窓際の沈黙が、教室の明るさの中に一瞬だけ戻ってきた。
昼休み、弁当を食べ終えてから、椎名が小さな欠伸を一つした。珍しく隠しきれていない。
「眠いなら帰って昼寝しろよ」
そう言うと、椎名は弁当箱を包みながら小さく首を振った。
「……でも、昨日の続きみたいだったから」
結び目を作る指が止まらないまま、その言葉だけが落ちる。
聞こえたのはたぶん俺だけだ。
「そりゃよかった」
返すと、椎名は俯いたまま、ほんの少しだけ笑った。
椎名がこっちを見る。目が合う。耳がぴくっと動いた気がした。
「……たぬきは夜行性だから、昼は眠いの」
「お前はたぬきじゃないだろ」
昨夜と同じ台詞だ。椎名の口元が、ほんの少しだけ上がる。
「……きみのせいだよ」
ぼそっと落ちたその一言に、心臓が変な音を立てた。
「……お互い様だろ」
椎名が小さく笑った。眠そうな目のまま、音のない笑い方で。
その笑いの奥に、昨夜の月がまだ薄く残っていた。




