第16話「また作る」
昼休み。いつもの六人。
右手の人差し指には、まだ昨日の切り傷が残っていた。上から貼った絆創膏が少しだけずれている。雑に貼ったせいで端が浮いていた。
昼休みになるまでに、その端を何度か指で押さえた。貼ったからって何かが変わるわけでもないのに、目に入るたび昨日の放課後を思い出した。
結衣が航の弁当を覗き込んで「あ、から揚げ!」と箸を伸ばした。航は無言で弁当箱ごと引いた。結衣「ケチ!」。航「自分で持ってこい」。この二人は毎日同じことをしているのに、一向に飽きる気配がない。
美咲はスマホ片手に器用に箸を動かしていた。通知が鳴るたびに目線だけ落ちる。凛はサンドイッチを食べながら、その全体を静かに眺めている。
椎名は俺の隣で弁当箱を開けた。白いご飯、きんぴら、ほうれん草のおひたし。相変わらず渋い。量は少ないのに、切り方だけは妙に丁寧だ。あの眠そうな椎名が朝からこれを詰めているのかと思うと、少しだけ可笑しい。
「……これ、食べる?」
椎名が箸の先を差し出した。卵焼き。黄色い。端に少しだけ焦げ目。
「いいのか」
「……多いから」
二切れしか入ってないのに、その言い訳は無理がある。
でも受け取った。箸と箸が、かちりと鳴る。一口で食べる。
甘い。砂糖が少し多い。けど、うまい。
「うまい」
「……そう」
ほんの少し間があってから、椎名が付け足した。
「……今日のは、ちょっと甘くしたの」
その言い方が、料理の報告というより結果の確認みたいだった。どうだった、と本当はもっと聞きたいのに、そこまでは言えない声。だから「ちょっと甘くした」で止める。椎名のこういう不器用さは、たぬきよりよほど分かりやすい。
「なんで」
「……なんとなく」
椎名は弁当に視線を落としたままだった。声はいつも通りなのに、耳の縁だけがうっすら色づいている。
その瞬間。
「え、ちょっと待って。今の何?」
結衣の声が教室を貫いた。
何人かがこっちを見た。窓際のグループまで振り返っている。椎名の箸が止まる。俺も止まる。
「卵焼きだろ」
「そこじゃなくて! 今の空気!」
結衣が机に身を乗り出す。「しかも千沙が藤原におかず分けてた! 卵焼きだよ!?」
「卵焼きにそこまでの効力あんのかよ」
「あるでしょ。愛情でしょ」
理屈が雑すぎる。
美咲がスマホを置いた。こういう時だけ反応が速い。「クラスでもちょっと噂あるよ? 椎名さんと藤原くんって」
「……噂」
椎名が小さく復唱した。
「隣の席だし、一緒に帰ってるし、教科書も寄せてたし」
「忘れたからだろ」
「でも千沙がおかず分けてるの、私初めて見た」
そこは否定しづらかった。結衣が一口ちょうだいと言った時の椎名は、だいたい無言で弁当箱を守る。
航がぼそっと言った。
「……学級委員がクラスメイトに卵焼き配るの、普通の業務だろ」
「どこの学校!?」
結衣が即座に突っ込む。航はから揚げを口に入れたまま肩をすくめた。援護する気があるのかないのか、相変わらず判別不能だ。
凛が静かに口を挟んだ。
「でも、縄張りの共有ではあるかもね」
椎名の箸先がぴたりと止まる。凛は笑っている。美咲が「それだ」と頷いた。結衣が「何それ何それ」と身を乗り出す。
追い詰められた椎名が、ようやく口を開いた。
「……たぬきは、隣にいる相手に餌を分けることがあるの。……縄張りの共有」
「それ仲いいってことじゃん!」
「……たぬきの話」
「たぬき便利すぎない!?」
美咲が笑い、結衣も笑い、凛はますます目を細めた。椎名はきんぴらを口に入れて咀嚼に逃げる。いつものやり方だ。でも耳は赤いまま。前髪の隙間から見えるそこだけが、全然いつも通りじゃない。
航が結衣の弁当を指差した。「シュウマイ、冷めてるぞ」
「あっ」
結衣が慌てて自分の弁当に戻る。話題が逸れた。助かった。
椎名の弁当箱には卵焼きが一切れだけ残っていた。俺に渡した方が、少し大きかった。
昼休みが終わって席に戻る時、窓際の女子二人がこっちを見て何かひそひそ言っているのが視界に入った。笑ってはいない。ただ、興味を持たれた時特有の目だった。
椎名も気づいたらしい。椅子を引く音が少しだけ硬かった。席に座って、教科書を出して、それでも一度だけこっちを見た。何も言わない。言えない代わりに、「ごめん」と「困った」が両方入った目をしていた。
だから俺は何も言わずに、机の端を軽く小突いた。大丈夫の代わりみたいな、小さな合図。
椎名は一拍遅れて、同じくらいの力で机の端を小さく叩き返した。
昼休みの真ん中でできるのは、そのくらいで十分だった。言葉にすると余計な形がつく。机越しの小さな返事だけで、今は足りる。
午後の授業でも、二つ前の席から一度、窓際の女子からもう一度、妙な視線が飛んできた。昼の一言は、思ったより長く教室に残るらしい。
◇◇◇
昼休みの余熱を引きずったまま、掃除の時間になった。
結衣がほうきを持った瞬間に言う。
「はいはい、窓二人必要! 藤原とちさ、そっち!」
「勝手に決めんな」
「さっさと終わらせたいの!」
何の絵面だよ、と言いかけてやめた。結衣は昼のことに触れなかった。美咲が笑って、凛が何も言わずに雑巾を配り、航が「めんどくせ」と呟きながら机を下げる。誰も止めない。多数決ですらない。空気で仕事が割り振られていく。
結局、俺と椎名で窓際に立つことになった。
椎名が雑巾を絞る。手首が細い。水が滴って、バケツの底に小さな音を立てた。
「……迷惑なら、断ればよかっただろ」
俺が窓ガラスを拭きながら言うと、椎名は外を見たまま小さく首を振った。
「……迷惑じゃない」
それから、一拍。
「……ちょっとだけ、恥ずかしかっただけ」
窓に映った自分の顔が少し間抜けに見えた。返事を探している間に、椎名の絞りが甘かった雑巾から水が跳ねて、俺の袖に飛んだ。
「冷たっ」
「……ごめん」
「わざとか?」
「……たぬきに、そんな器用な攻撃はできないよ」
「攻撃扱いは否定しないんだな」
椎名の口元が少しだけ動いた。笑ったのかもしれない。窓ガラスが西日に光って、二人の姿をぼんやり映している。思ったより悪くない絵面だった。
◇◇◇
放課後。昇降口。
「一緒に帰るだろ」
そう声をかけた瞬間、わざわざ言う必要があったかと少し後悔した。いつもは自然に並んでいたのに、今日は意識しすぎているのが丸わかりだ。
椎名は小さく頷いた。
校門を出る。椎名がいつもより半歩だけ遠い。隣じゃなくて、斜め後ろ。結衣の声量一つで人間の歩幅は狂うらしい。
沈黙が続く。気まずいわけじゃない。ただ、何か一つ口にしたら、それまでと同じではいられない種類の沈黙だった。
先に口を開いたのは椎名だった。
「……ごめん」
「何が」
「……変な噂になったら、迷惑……」
俯いたまま、スカートの裾を指でつまんでいる。言葉に困った時の癖だ。
「別に迷惑じゃねえけど」
椎名が足を止めかけて、止めなかった。田んぼの水面が夕陽を返している。オレンジの光が靴の先で揺れた。
「椎名」
「……なに」
「卵焼き、うまかった」
それだけ言った。
椎名はこっちを見なかった。でも裾をつまんでいた指が、ゆっくり離れた。
「……また、作る」
風がちょうど止んで、その一言だけがはっきり聞こえた。
「じゃあ、今度は俺も何か返す」
椎名が少しだけ目を上げた。
「……いいよ、別に」
「よくねえよ」
「……律儀だね」
「誰のせいだよ」
椎名の口元が、また僅かに動いた。
「……じゃあ、考えとく」
「ん」
情けない返事しか出なかった。でも椎名の歩幅が戻る。半歩の差が消える。いつもの隣に戻った。
さっき食べた卵焼きの甘さが、まだ妙に残っていた。
しばらくして、椎名がぼそっと言う。
「……今日の、違ったから」
「何が」
「……みんなの前で、きみに何かあげるの」
歩きながら、心臓が一回だけ変な打ち方をした。
「じゃあ、なんでくれたんだよ」
沈黙。
椎名の耳が、また少し赤くなる。
「……多かったから」
「まだ言うのかよ」
「……たぬきは、備蓄が苦手なの」
「お前の中のたぬき、都合よすぎだろ」
椎名の口元がほんの少し動いた。笑ったのかもしれない。
T字路で立ち止まる。夕陽が長い影を二本、アスファルトの上に並べている。
「……じゃあね」
椎名が背を向ける。今日は少しだけ早足だ。肩紐を握る手に力が入っている。逃げてる。たぶん、かなり。
でも角を曲がる直前、一度だけ振り返った。
◇◇◇
家に着いても、頭に残っていたのは味より『また、作る』の方だった。
リビングで卵のパックを見て、足が止まる。
「何」
母が振り向く。
「……卵焼きって難しい?」
母は一瞬だけ黙ってから笑った。
「珍しいこと聞くね」
「作ったことないから」
「そりゃそうでしょうね」
母はそこで何か言いたそうにしたが、結局言わなかった。卵を使う料理なんていくらでもあるのに、俺が知りたいのが卵焼きだと分かっている顔だった。親は本当に余計なところで勘がいい。
母はコンロの火を弱めた。
「出汁巻きじゃなければそこまで難しくないよ。砂糖にするか塩にするかで変わるけど」
甘い方が先に浮かんだ。今日のやつだ。
夕飯のあと、自分の部屋で『卵焼き 作り方』を検索した。フライパンを傾ける手元。菜箸の動き。全然できる気がしない。
それでも検索欄は消さずに、画面を閉じた。




