第15話「机の上の絆創膏」
四限目が終わって教室移動。三階の化学室から一階の教室へ。
航と並んで階段を下りていた。航がイヤホンで東方のBGMを聴きながら「化学やばい」と呟く。「お前ノート取ってなかっただろ」と返すと「藤原のを写す」と当然のように言い切った。俺のノートは航の副読本と化している。
後ろから結衣の声がした。
「ねーちょっと聞いて、美咲がまたスマホ没収されたんだけど」
「今度は何したんだよ」
「化学の実験中にインスタのストーリー撮ろうとして」
「実験中にか?」
「ビーカーの泡が映えるって……」
航が「あいつ学ばねえな」と感心したように言う。感心するな。
廊下は混んでいる。昼前の移動時間は人が多い。
一階の教室の前で、前の列が急に詰まった。誰かが戸口で立ち止まったらしい。勢いのまま扉を引いていた右手が、金具の角に滑った。
び、と紙が裂けるみたいな感触。
「おい、大丈夫か?」
航がイヤホンを外して振り返った。
「大丈夫。別に」
そのまま配布プリントの束を持ち直して歩く。数歩進んだところで、結衣が「え、待って」と声を上げた。
白いプリントの端に、細い赤い線がついていた。
「藤原、血」
言われて初めて右手を見る。人差し指の腹が浅く裂けている。皮がめくれて、じわじわ血が滲んでいた。
「……あ」
そこまで来てようやく気づいた。切った感覚はあったのに、痛みだけがうまく結びつかなかった。
結衣が「うわ、結構切れてるじゃん!」と覗き込む。航がプリントの端を見て「気づいてなかったのかよ」と低く言った。
「いや、まあ……大したことねえし」
「大したことなくても血ついてるし!」
結衣が呆れた顔をする。周りのやつも「男子ってそういうの平気だよね」と笑って流した。強がりだと思われているのがわかる。
無理じゃない。本当に、見た目ほどでもないんだ。
傷があることはわかる。血が出ているのも見える。でもその中心だけ、感覚が妙に遠い。自分の指なのに、一拍遅れて所有権が戻ってくるみたいだった。
階段の途中で、椎名とすれ違った。
上の階に向かうところだった。文芸部のノートを小脇に抱えて、いつもの小さな歩幅で階段を上っている。すれ違いざまに、椎名の眠そうな目が俺を見た。一瞬だけ。
——椎名の視線が、俺の右手に落ちた。
コンマ何秒の出来事だ。顔から右手に移動して、そこで微かに止まった。すれ違いの速度でそれだけの情報を拾えるのは、椎名の観察眼が鋭いからか、俺が椎名の視線に敏感になっているからか。
すれ違っただけだ。言葉は交わしていない。椎名はそのまま上の階へ消えていった。
教室に戻って席に座る。ティッシュを巻いた指先が少し赤い。応急処置ですらない雑さだ。
航が「保健室行くか?」。俺が「いらねえよ」。航が「そうか」。男子の会話はあっさりしていて、それでいい。
◇◇◇
昼休み。六人で弁当。
いつもの風景だ。結衣が美咲のスマホ没収事件を全員に報告している。美咲が「もういいでしょ!」と顔を赤くする。
「でもさ、ビーカーの泡はちょっと分かるかも」と凛が言った。
「凛ちゃんまで!?」
「光の屈折が綺麗じゃない? 泡の表面に虹ができるし」
「分かる! そう! そこ!」美咲が勢いづいた。「だから撮りたくなったの! 先生が分かってくれないだけで!」
航が「分かるわけねえだろ実験中に」と冷静に切った。
椎名がもぐもぐしながら小さく呟いた。
「……たぬきは、光る物に反応する習性があるの」
結衣が「それ美咲がたぬきってこと?」と聞くと、椎名は「……美咲さんは泡を追いかけてたから」と答えた。
航が「たぬき言うか、それ虫の習性だろ」と冷静に訂正した。生物学と物理学が交差した意味不明の空間が生まれた。
美咲が「たぬき扱い!?」と声を上げて、教室中の視線が集まった。
くだらない。くだらないけど笑える。六人の昼休みはいつもこんな調子で、俺はこの空気が好きだった。
結衣が「あ、そういえば藤原、指大丈夫? さっき血ついてたじゃん」と振った。
「切っただけ」
「え、大丈夫なの?」美咲が聞く。
「大丈夫大丈夫」
この会話は今日三回目だ。全員が「大丈夫?」と聞いて、俺が「大丈夫」と答えて、それで終わる。便利な言葉だ。相手を安心させて、会話を終わらせる。それ以上の質問を封じる蓋。
椎名だけが——何も聞かなかった。
弁当を食べて、時々たぬき情報を投下して、結衣に突っ込まれて。いつもの椎名だ。でもふと視線を感じて横を見ると、椎名の目がまた俺の右手に落ちている。ティッシュの白を見ている。すぐに逸れる。弁当に戻る。何も言わない。
何度も確認しているのに、言葉にしない。その沈黙の方が気になった。結衣みたいにまっすぐ「大丈夫?」と聞かれる方がまだ楽だ。椎名は見て、引っ込めて、また見る。そのためらいごと机の上に置かれている感じがする。
昼休みが終わって、皆が立ち上がる。俺も椅子を引いた。ノートを持とうとして、ティッシュが少し緩んだ。指先にまた赤が滲む。
表情は変えなかった。変えるほどのことでもないからだ。
でも、椎名の手が一瞬だけ止まった。弁当箱を包む途中で、藍色のハンカチを持つ指先が固まる。こっちを見たのは一秒もない。ただ、その一秒で十分だった。
「……きみ」
呼びかけるところまで来て、やめた声だった。
「何」
聞くと、椎名は小さく首を振る。
「……なんでもない」
その『なんでもない』は、たぶん全然なんでもよくなかった。
◇◇◇
放課後。
教室はほとんど空になっていた。俺は帰り支度をしていた。右手のティッシュがさっきより赤くなっている。
椎名が来た。
教室の入り口に立っていた。文芸部の帰りだろう。鞄を肩にかけて、ノートを胸の前で抱えている。まっすぐ俺の方に歩いてきて——自分の席ではなく、俺の机の前で止まった。
俺の右手を、じっと見ている。
椎名の視線には重さがある。普段のぼんやりした目とは質が違う。何かを確かめようとしている目だ。
「……痛くないの?」
ぼそっと。声が静かだ。いつもの椎名よりさらに小さい。教室に他に誰もいないから聞こえた。
「全然。気づかなかった」
いつもの答えだ。昔から使い慣れた三つの台詞——「大丈夫」「大したことない」「平気」。どれかを選んで返せば、誰も深追いしない。
でも椎名は引かなかった。
眠そうな目がいつもより少し開いている。椎名の目が開く時は、何かが引っかかっている時だ。眉が微かに寄っている。普段は動かない眉。それがほんの少しだけ中央に集まっている。
沈黙。
俺は待った。椎名のこの沈黙を遮ると、椎名は黙ったまま引っ込んでしまうことを、二週間で学んでいた。椎名の言葉は、待たないと出てこない。急かすと消える。
椎名がぽつり。
「……たぬきは、痛い時に声を出さないの」
たぬきの話だ。でも今日のたぬきは——空気が違う。声のトーンが低い。いつものぼそぼそとした語り口ではなく、言葉を一つ一つ選びながら置いていくような話し方だ。
たぶん、ここまで言うのに昼休みからずっと迷っていたんだと思う。階段ですれ違った時の視線も、弁当箱を包む途中で止まった手も、全部この一言の前置きだったのかもしれない。
「……天敵に見つからないように。……だから痛くても、平気な顔をする」
椎名の目が俺の指から、俺の顔に上がった。見ているのは俺の顔だが、見ようとしているのはその奥にあるものだ。
「……だから、周りの仲間が、気づいてあげないといけないの」
静かだ。ぼそぼそと消え入りそうなのに、一言一言が耳に刺さる。教室は空っぽで、遠くの部活の掛け声だけが窓から漏れている。その隙間に、椎名の声が落ちてくる。水滴が水面に触れるように、静かに、波紋を残して。
何と返せばいいか分からなかった。
たぬきの話の形をしているのに、今日は逃げ道が薄い。
椎名は何か言おうとした。口が動きかけて——音になる直前で、止めた。唇を噛んで、言葉を飲み込んだ。
代わりに背を向けた。
「……じゃあね」
鞄を持って教室を出ていく。足音が小さい。椎名の背中が角を曲がって消えた。
——消えた後、机の端に何かが置いてあるのに気づいた。
絆創膏。一枚。おそらく椎名のポケットから出したものだ。普通の肌色の絆創膏。何も言わずに、帰り際にそっと置いていった。「気づいてあげないといけない」と言った後に、言葉ではなく行動で返してきた。
絆創膏をつまんだ。指にはまだ貼っていなかった。ティッシュを巻いただけの雑なままだ。貼ろうと思えば今すぐ貼れる。でもその前に、しばらく包みを指でなぞった。捨てなかった。筆箱の中に入れた。
筆箱を閉じる直前、ふと思って机の引き出しを開けた。たぬきちのメモがまだ入っている。『教科書忘れないでね』。丸い字。点の目。
たぬきちのメモの隣に、絆創膏を入れた。どっちも椎名が黙って置いていったものだった。
それから指先をもう一度見る。裂けたところは浅いのに、血だけはちゃんと出ている。見た目だけなら普通の怪我だ。なのに、感覚だけが少し遠い。
その鈍さの上に、『痛くないの?』という聞き方だけが薄く残っていた。
一人になった。
右手を見下ろした。洗ってティッシュを外すと、切れた線がはっきり見えた。赤い。浅い。絆創膏を貼れば済む程度の傷だ。指で周りを押してみる。違和感はある。熱もある。なのに、自分の中でそれがうまく名前にならない。
こういう時、自分でも変に平気だと思うことがある。
みんな「大丈夫?」とは聞いた。航も、結衣も、美咲も。
椎名だけが「痛くないの?」と聞いた。
◇◇◇
家に帰って、制服のままベッドに倒れ込んだ。
そのまま寝るにはまだ早い。天井を見て、起き上がって、結局また右手を見る。洗っても傷の線は残っている。見た目だけなら、ちゃんと痛そうだ。
指で押す。ぐ、と少し強めに。やっぱり、妙に遠い。
いつもならそこで終わりだ。服を下ろして、忘れる。今日はそれができなかった。
机の引き出しから筆箱を出す。チャックを開けると、絆創膏がある。白い包み。軽い。軽いくせに、入っているだけで中身の並び方が変わったみたいに見える。
取り出して、しばらく指で挟んだ。
貼る理由はある。切り傷だし、まだ少し血も滲む。ただ、それを認めて貼るのがなんとなく引っかかった。
それでも、包みの端を少しだけ折ってみる。開けるかどうか迷って、やめて、また戻す。情けないくらい意味のない動作だ。
キッチンの方で玄関の開く音がした。母が帰ってきたらしい。しばらくしてドアが開く。
「ただいま。あれ、まだ制服なの」
「今着替える」
母が部屋の入り口から少しだけ覗き込む。俺の顔より先に、右手を見た。
「手どうしたの」
「扉で切った」
「痛くない?」
今日、何度目だろう。聞かれ慣れた問いに、口が先に動く。
「大丈夫」
母はそれ以上は聞かなかった。「そ。なら早く着替えなさい」とだけ言って、キッチンへ戻る。たぶんそれで普通なんだと思う。大丈夫だと言われたら、そこで会話は終わる。
ドアが閉まってから、もう一度絆創膏を見る。「大丈夫」の上に、まだ薄い引っかかりが残っていた。
椅子に座って、包みを開けた。ぺり、と小さな音が部屋に鳴る。肌色の絆創膏を取り出して、少し迷ってから人差し指の腹に貼る。真ん中じゃない。切れた線から少しずれた、雑な位置だ。
当然、貼ったからって何かが変わるわけでもない。腫れも熱もそのまま。見た目だけが少しだけ整う。
でも、その雑な貼り方の絆創膏が妙に目についた。
机の上に肘をついて、貼った指を見る。おかしかった。痛みの薄い場所に、ちゃんと意味のある物を貼っただけなのに、それで少しだけ落ち着いている自分が。
窓の外はもう暗い。住宅街の灯りがぽつぽつ見える。部屋の中にいるのは俺一人なのに、今日はそれがいつもより少しだけ一人じゃない感じがした。
椎名の『……きみ』という言いかけの声と、机に置かれた一枚。
絆創膏の下だけが、そこに何かあるみたいだった。
指先は相変わらず、何も言わなかった。




