第14話「寝起きの睫毛」
体育は四限目だった。
グラウンドに出ると、四月の終わりの日差しが目に刺さる。準備体操、ストレッチ、トラック二周。俺は七割くらいで走った。周りの一年生が「藤原くん速くない?」とざわついている。航が後ろの方で「あいつ中学で陸上やってたらしいぞ」と広報活動をしていた。頼んでない。
授業はソフトボール。外野でフライを捕って「ナイスキャッチ!」と声が飛ぶ。適当に片手を上げて返す。
結衣が内野のショートで張り切っている。ゴロが来るたびに「任せて!」と叫んでいるが、三本に一本は足の間を抜けていく。口の勢いと守備力が全然釣り合っていない。航がレフトから「うるせえ」と定型文を送る。
美咲はベンチでスマホを触りかけて体育教師に没収されていた。
凛は打席でバットを構えているが、フォームが完全に剣道だ。面を打つ角度でソフトボールを叩いて、ボテボテの内野ゴロ。
結衣が「凛ちゃん! それ刀じゃないんだよ!」と叫んだ。凛は「あ、つい……」と微笑んだ。航がライトの定位置から一歩も動かずに「素振りだけは完璧だったな」と冷静に評した。
凛が「次は打つから」と静かに宣言した。宣言するほどの成績ではない。
椎名は——ネット裏のベンチにいた。椎名のライトフライを見事に祈りながら見送るスタイルが教師の判断でベンチ要員に変わったらしい。小柄な身体がグローブに埋もれかけていた。体育の椎名は存在感が消える。たぬきの擬態能力だ。
些細なことだった。整理体操の時間、鉄棒のそばでストレッチをしていて、立ち上がった拍子に脛をぶつけた。鉄棒の横棒に、がん、と。鈍い金属音。周りの何人かが振り返った。
「大丈夫?」
「大丈夫。当たっただけ」
顔色は変えなかった。航が「強がんなよ」と一言。脛は赤くなっていた。じんわり熱を持っている。航が「……腫れてねえか」と眉を寄せたが、「大丈夫だって」と笑って流した。
——別に大したことない。ぶつけた音だけが残って、実感は妙に遠かった。
◇◇◇
教室。体育の後の休み時間。
結衣が俺の机に来て開口一番「私ソフト向いてない!」と宣言した。知ってる。
「打つのはできるんだけどさ、守備がさあ」
「ボール怖いなら外野行けよ」
「外野は遠いじゃん、走るの嫌。近くて楽なのがいい」
「楽を求めるならベンチだろ」
「椎名さんと被る」
「ベンチ定員あんの?」
航が「うるせえぞ二人とも」と机に突っ伏したまま呟いた。航も疲れている。美咲は体育教師からスマホを返してもらう交渉に行って戻ってきていない。凛はタオルで汗を拭きながらスマホで打撃フォームの動画を検索していた。次は打てる気でいる。
結衣が自分の席に戻ると、教室が少し静かになった。
美咲が「体育きつかった……」と机に突っ伏した。
航が「お前走ってないだろ」と突っ込む。
「走ったよ! 一周は!」
「一周を走ったと言う神経がすごい」
美咲が「航って冷たい」と頬を膨らませた。航は聞いていない。すでにイヤホンをつけている。
隣を見る。
椎名が机に突っ伏していた。体育で体力を使い果たしたらしい。小柄な身体がブレザーに包まれて、机の上で丸くなっている。
眠そうな目が——完全に閉じている。寝ている。
五限目まであと十分。俺はそーっと椅子に深く座り直した。教科書を出す。椎名は微動だにしない。呼吸だけが一定のリズムを刻んでいる。
何となく——横顔を見てしまった。
机に伏せた椎名の顔が、こちらを向いている。頬を腕の上に乗せて、口が少し開いている。寝息が微かに聞こえる。教室のざわめきに消えそうなくらいの、小さな呼吸音。
睫毛が長い。
こんなに長かったのかと思った。伏せた目の上で、睫毛が影を落としている。一本一本が繊細に浮かび上がって、頬の上に細い影の線を描いていた。前髪の先が鼻にかかって、椎名が息を吐くたびに僅かに揺れる。
手が机の上で丸まっている。猫が爪を隠すみたいに、指を軽く握って。消しカス戦争で精密射撃を仕掛けてきた指が、今はこんなに無防備に丸まっている。爪が淡い桃色をしていて、それがやけに目を引いた。
普段は机の上の物をきっちり揃えて、配布物を寸分違わず置く手だ。そんな手が今は力を抜いて、子どもみたいに丸くなっている。その落差が妙に効く。
ブレザーの襟元が少し乱れている。体育の後、急いで着替えたせいだろう。首筋が——
(——何見てんだ)
視線を逸らした。窓の外。校庭を見る。カラスが校舎の屋根から飛び立つ。全然頭に入らない。目が隣に戻りそうになって、ノートに落とした。空白を睨む。三十秒。また横を見ている。癖か。病気か。
後ろの席から航がルーズリーフを差し出してきた。受け取る。何か書いてある。
『前から見えてる。不審者』
二文字目で心臓が跳ねた。握りつぶして机に突っ伏した。航の方を振り返ると、航は何食わぬ顔で窓の外を見ていた。口元だけが微かに上がっている。
——こいつにだけは気づかれている。
意識を前に向け直す。それでも視界の端で、椎名の寝息と睫毛の影がちらちらと存在を主張してくる。
椎名がむにゃっと動いた。
顔の向きがさらにこちら側に変わる。近い。鼻先から三十センチくらい。柑橘の匂いがまた届く。ああ、これ教科書の時と同じ匂いだ。もう覚えてしまっている。
——目が開くか、と思ったところで、チャイムが鳴った。
椎名の目が開く。
ぼんやりとした、眠りの底から引き上げられた瞳。焦点が合っていない。ゆっくりと瞬きして——俺と目が合った。
至近距離。
椎名の瞳は薄い茶色だ。寝起きで潤んでいて、眠りの膜がまだ残っている。光を含んだ茶色の中に、蛍光灯の白い点が二つ映り込んでいた。
時間が引き伸ばされた。
二秒。三秒かもしれない。チャイムの余韻が空気に溶けていく。周りで椅子が動く音。誰かの笑い声。全部遠い。俺の耳には椎名の呼吸の方が近い。体温が届きそうな距離で、お互いの瞳に映るお互いの顔が見える。
心臓が、妙に大きく鳴った。
椎名が何事もなかったように姿勢を正した。前髪を直す。襟を整える。腕についた机の跡をさすって消す。リカバリーがいつも通り速い。何も起きなかった顔をしている。
——耳だけが赤かった。
顔は無表情。声も出していない。でも耳の先端だけが、蛍光灯の白い光の下で隠しようもなく赤い。耳は嘘をつけない器官だ。椎名が唯一ごまかせない場所。
椎名はノートを開いた。シャーペンを持つ。背筋を伸ばして、眠そうな目で黒板を見て——いつもの椎名に戻る。
五分後。椎名のノートが微かに俺の方にずれた。見ると、ノートの端に小さな字が書いてあった。
『寝てた? 僕』
シャーペンで書いた。『爆睡してた』。椎名のシャーペンが動く。隣のノート越しの筆談。
『……ちゃんと起こしてよ。次から』
次から。——保証はしかねる。起こすタイミングを図っていたら永遠に起こせない気がする。
そもそも、あの寝顔を見ていた時間を自分から切り上げられる自信がない。そんなことは書けないから、ノートの上では平然としているふりをするしかない。
『善処する』
少し間があって、椎名のシャーペンがまた動いた。
『……寝起き、そんなにひどかった?』
危うく咳き込みそうになった。質問がそこに来るのか。ひどかったかどうかで言えば、むしろ逆だ。あまりにも反則だった。
『普通』
我ながら最低限にも程がある返答を書いた。椎名のノートに、小さく『……うそ』と足される。さらにその横に、睨んでいるたぬきちが一匹増えた。
その下に、もう一行だけ書き足す。
『睫毛、長かった』
書いた瞬間、何やってんだ俺は、と思った。でも消す前に椎名の視線が落ちる。
椎名の手が止まった。耳が、一気に赤くなる。シャーペンがノートの上で迷子みたいに一度止まってから、ようやく動いた。
『……ばか』
それだけ。たぬきちも増えない。椎名が顔を上げないまま前髪の奥に隠れた。ここまで真っ赤な耳を見るのは久しぶりだった。
短いのに効く。たぬきで包まない言葉は、やっぱり少し反則だと思う。あの一言だけで、さっきまでの教室の空気が全部個人的なものに変わる。
しばらくして、またノートが一ミリだけこっちへずれる。
『……きみも、すごい顔してた』
今度は俺の手が止まった。何の顔だよ、と書き返そうとして、やめる。分かっている。寝顔を見ていたのがばれていた、ということだ。
代わりに、たぬきちの横に小さく『お互い様』とだけ書いた。
椎名の口元が見えないまま、耳だけがまた少し赤くなる。相手の反応を見ずに分かるようになってきたのが、何だか可笑しかった。
椎名のノートに小さなたぬきちが描き足された。怒っているらしい。目が吊り上がっている。——相変わらず下手だが、なぜか伝わる。
俺も教科書を開いた。五限目が始まる。
ノートの上に文字を書く。でも無意識にさっきの光景がリプレイされる。睫毛の影。前髪の揺れ。目が開いた瞬間の、焦点が合う前の潤んだ瞳。あの二、三秒の間に、椎名の寝顔の全てが記録されてしまった。消去の仕方が分からない。
(……覚えなくていいことほど、鮮明に残るのはなんなんだ)
椎名のシャーペンがかりかりと規則的に動いている。いつもの音。いつもの距離。なのにいつもと同じ感覚で座れない。
五限目のノートは、いつもより字が乱れていた。
——ふと、脛のことを思い出した。体育でぶつけた場所。机の下で足を伸ばして見る。赤い。腫れている。結構ひどい。
それでも、妙だった。見た目のわりに、脛のことをうまく自分のこととして掴めない。
◇◇◇
帰り道。椎名と二人になった。
椎名がぽつり。
「……きみ、走るの速いね」
「見てたのか。ベンチから」
「……たぬきは巣穴から外を観察する習性があるの」
「それ毎回使ってないか」
「……汎用性が高いの」
声に笑いの気配が混じった。こいつが自分のたぬきネタを「汎用性」と形容するの、初めて聞いた。自覚はあるらしい。
分かれ道。椎名が「……じゃあね」と言って背を向けた。今日の筆談のたぬきちより、『……ばか』の方が、帰り道の最後まで残った。




