第13話「消しカス戦争」
朝、教室に入ると椎名がもう席にいた。おはよ、と声をかけると「……おはよう」と返ってくる。いつもと同じ。同じなのに——椎名の声がちょっとだけ硬い。昨日、文芸部室で原稿を裏返しされたあの気まずさがまだ残っているのかもしれない。
一限目も二限目も、椎名は俺の方を見なかった。視界の端で、椎名のシャーペンだけが規則的に動いている。
それが三限目の数学で唐突に壊れた。
教師の声とシャーペンの音だけが教室を満たしている。俺は板書を写しながらノートの隅に無意味な線を引いていた。数学は嫌いじゃない。でも眠い。
隣で椎名が消しゴムを使った。
ごしごし。椎名の字は丁寧で、間違えることは少ない。珍しく消しゴムを使って——その消しカスが、俺の机に越境してきた。
白い破片が三つ。俺のノートの端に着地している。
普通なら気にしない。消しカスくらい。でも俺は何を思ったか——指先でぴっと弾いた。椎名の机に向けて。
消しカスが放物線を描いて、椎名のノートの上に落ちた。
椎名の手が止まった。一拍。
ちらっとこちらを見た。何も言わない。ただ静かに、指先で消しカスを拾って——俺の机に戻した。正確に。きっちりと。俺のノートの「3x+」の上に、ぽん、と。
(……やるな)
俺がそれを弾き返す。椎名の消しゴムの隣に着地。椎名が弾く。俺の筆箱の蓋の上。俺が弾く。椎名のシャーペンの横。
消しカスの無言の攻防が始まった。
二人とも顔は正面を向いている。黒板を見ている。板書を写している。——ように見える。手だけが、机の境界線で戦争をしていた。
椎名の指が素早い。消しカスを弾く精度が異様に高い。指先が冷たいから消しカスが指に張り付かない。乾いた指は消しカス戦争に有利だということを今日知った。俺は指の腹に少し汗があるせいで、たまに消しカスが指にくっついて飛ばない。不利だ。環境要因で負けている。
椎名の攻め手が変わった。新しい消しカスを追加投入してきたのだ。自分の消しゴムでノートの隅をわざと消して、破片を俺の領土に送り込む。消す必要のない正解を消して消しカスを生産している。これは増援だ。補給線を断たなければ勝てない。
普段の椎名からすると珍しいくらい、遊び方が雑だ。几帳面な字をわざわざ消してまで戦力を増やしている。こういう無意味なことに乗ってくる時、この子は案外子どもっぽい。
俺も消しゴムを出した。「a=2x」を消す。間違ってないけど消す。消しカスを椎名の方へ——
椎名が指先で受け止めて、間髪入れずに俺の定規の上に弾き返した。定規の表面を滑って、親指の付け根にぶつかる。微かな衝撃。消しカス由来のくせに、正確すぎてちょっと怖い。
次の瞬間、椎名は自分の定規を机の境界線にそっと置いた。透明な十五センチ定規。国境線の明示だ。しかも定規のこちら側に消しカスを三つ並べている。防衛設備まで整え始めた。
(要塞化しやがった)
俺も対抗してシャーペンを横向きに置く。即席のバリケード。
椎名の口元が、また少しだけ動いた。笑ってる。絶対に笑ってる。
椎名は眠そうな目のまま表情が変わらない。でも気配が得意そうだ。口元――動いたか動かないか分からないけど、動いた。
こいつ笑ってやがる。
後ろの席から、ささやき声が降ってきた。
「何やってんのお前ら」
結衣だ。前の席の隙間から覗いている。声は抑えているが、抑えきれない笑いが混ざっている。
椎名が淡々と答えた。「……たぬきには縄張り意識があるの」
「消しカスに縄張りはねえだろ」
俺が突っ込む。椎名は黒板を見たまま。結衣が声を殺して震えている。肩がぷるぷるしている。美咲が後ろから「何笑ってんの結衣」と聞いた。結衣が耐えきれず「消しカスで……戦争してる……」と漏らした。美咲が「えっ何それ見たい」と身を乗り出す。航が「うるせえ」と小声で一閃した。
教師が「そこ、何笑ってんだ」と目を向けた。
三人が瞬時に真顔になった。条件反射。椎名はもともと表情が薄いから有利だ。俺も顔の筋肉には自信がある。結衣だけが口の端を震わせていたが、教師はそれ以上追及しなかった。
チャイムが鳴って、戦争は一時休戦。俺の領土には消しカスが五つ。椎名の領土には三つ。負けている。
数学教師が教室を出る間際、机の境目を見て眉をひそめた。
「そこ、ちゃんと片づけとけよ」
低い一言だけ残して去っていく。余計な説教がなかったのは幸運だった。
俺は小さく息を吐いて、手のひらで消しカスを集めようとした。ところが汗で指先に張り付いてうまくいかない。さっきからそうだ。戦闘にも後始末にも向いていない。
隣で椎名がノートの端を一枚ちぎった。無駄のない手つきで二つ折り、さらに折る。即席の小さなちりとりができあがる。
「……使って」
「準備いいな」
「……最後まで片づけないと」
急にそこだけ妙に真面目だ。可笑しくて笑いそうになる。
二人で机の境目の白い破片を寄せ集める。紙のちりとりに、俺が指で押して、椎名が受ける。無駄に息の合った共同作業だった。
くだらない遊びの後始末まで一緒にやっているのが可笑しい。しかも、こういう時の方が会話よりずっと噛み合っている。椎名とは、言葉が少ないぶん、こういう作業で距離が詰まることが多い。
最後のひとつを拾おうとした時、指先が触れた。
ほんの一瞬。椎名の指は相変わらず少し冷たくて、でもすぐには離れなかった。先に動いたのは俺でも椎名でもなく、消しカスの方だった。ころっと転がって、境目の真ん中で止まる。
椎名が小さく紙切れの裏に何か書いた。
『休戦』
丸い字。見せてから、机の境目にそっと置く。
「……これで終わり」
「急にちゃんと終わらせにきたな」
その瞬間、結衣が後ろから覗き込んだ。
「何その紙! かわいー!」
条約は一秒で押収された。平和なんてそんなものだ。
◇◇◇
放課後、六人でだらだらしていた。
帰りのHRが終わっても誰も急いで立ち上がらない。窓から西日が差して、ほこりが光の中でゆっくり回っている。
美咲がスマホを触りながらにやにやしている。通知音がひっきりなしに鳴る。
結衣が覗き込もうとして「また男?」と聞いた。
「ちょっ——! 違うし! いちいち見ないでよ!」
美咲がスマホを胸に抱えた。顔が赤い。
「違うならなんで隠すの」
「隠してないし! プライバシーだし!」
「プライバシーって言う時だいたい隠してるよね」
美咲が「結衣のデリカシーどこ置いてきたの」と呻く。結衣「生まれつきない」。自覚してるのか。
航がちらっと美咲のスマホに目を向けて、すぐ視線を戻した。何も言わない。頬杖の角度が微妙に深くなった。
「めんどくせ」
呟いた。何がめんどくさいのか分からない。美咲のスマホのことか、結衣の詮索か、放課後のだるさか。航の「めんどくせ」は複数のものに同時にかかる万能修飾語だ。
凛がスマホを取り出して——教室の風景を撮った。何気なく。シャッター音を消して。
俺は見ていた。凛のカメラは六人の方を向いていた。空じゃない。
「凛、何撮ってんの?」
美咲が聞いた。凛はスマホをしまいながら「別に。空が綺麗だったから」と微笑んだ。嘘だ。レンズは教室を向いていた。
椎名が帰り支度を始めた。文芸部室に行く時間だ。鞄を持って立ち上がる。椎名の動作はいつも音が小さい。足音も、椅子を引く音も。
凛が「千沙、今日も文芸部?」と聞いた。
椎名が頷く。「……たぬきの巣に戻るの」
結衣が「文芸部室って巣なの」と笑った。美咲がスマホから顔を上げる。「何書いてるの?」
椎名が一瞬だけ俺の方を見た。昨日の文芸部室。裏返した原稿。あの空気を覚えているのは俺と椎名だけだ。
「……秘密」
結衣が「千沙って秘密多いよねー」と笑った。
俺の机の前を通りすぎる。
——ぽとり。
椎名の指先から消しカスが一つ、俺の机の上に落ちた。
わざとだ。今のは絶対にわざとだ。通りすがりに、最後の一撃を落としていった。帰り際の不意打ち。宣戦布告なしの奇襲攻撃。
しかもその消しカスは、ただの破片じゃなかった。細長いのと丸いのが二つ。並び方のせいで、妙にたぬきの顔に見える。偶然にしては出来すぎている。
「……工作までしやがった」
小さく呟いたけど、椎名はもうドアの向こうだった。聞こえていたとしても、たぶん返事はしない。こういう勝ち逃げだけ妙にうまい。
声に出して笑った。少しだけ。
「はい、これ」
振り向くと、結衣がさっきの『休戦』の紙をひらひらさせていた。
「返して」
「えー、かわいくない? 保存しとけば?」
「何を」
「戦争の記念品?」
結衣はけらけら笑いながら、結局その紙を俺のノートの上に置いた。雑に扱うかと思ったのに、端だけは折れないように持っていた。こいつはこういうところで変に気がつく。
紙片を見下ろす。『休戦』。丸い字。ああいうところだけ妙に律儀だ。
捨てるには少し惜しかった。
結衣が「何笑ってんの」と聞いたが、「なんでもない」と流した。
椎名は教室のドアの向こうに消えていた。振り返りもしない。
机の上の消しカスを見る。白い。小さい。世界で一番意味のない物体のひとつ。
——でも今日はこれで遊べた。
帰る時に——やっぱり捨てた。消しカスだし。でも、消しカス戦争のことは捨てなかった。
『休戦』の紙だけは、ノートの間に挟んだ。
◇◇◇
帰り道。航と駅に向かう。
「お前、椎名さんと何やってたの。授業中」
「消しカス戦争」
「……何それ」
「消しカスの領土を争った」
航が三秒ほど沈黙した。「……めんどくせえ奴ら」。でも口元が緩んでいるのを見逃さなかった。航の「めんどくせ」には種類がある。今のは本気でめんどくさがっている方じゃない。
ホームでイヤホンを分け合う。今日はZUNの原曲。アレンジじゃなく原曲の日は航の機嫌がいい。
「藤原ってさ」
「ん?」
「授業中に消しゴムで戦争して、帰りに消しカス置かれて笑ってただろ」
「見てたのかよ」
「教室で笑い噛み殺してる奴が二人いたら気づく」
航のツッコミは淡白なのに逃げ場がない。弁護の余地がなかったので黙った。
こいつは本当に、他人のどうでもいい変化を見るのがうまい。昼の卵焼きも、授業中の笑いも、そういう本人たちだけが気づいていれば十分なものほど、航には見つかる。
「椎名さんとよくそういうの、やるよな」
「そういうのって何だよ」
航は答えなかった。曲が「恋色マスタースパーク」に変わった。ホームに風が吹いて航のフードが揺れる。
電車に乗る。窓の外は田んぼと山。
航の声が頭に残っている。「椎名さんとよくそういうの、やるよな」。
——そういうのって、何だ。




