第12話「窓の向こうで走ってる」
陸上部の仮入部が三日目になった。
正式にはまだ入部届を出していない。顧問に「走ってみろ」と言われて流されるまま走り始めただけだ。東京の中学でも陸上をやっていたから、体は覚えている。八百と千五百。個人競技。一人で走るのが性に合っていた。
グラウンドを三周。仮入部だからペースは抑えている。七割くらいの流し。それでも他の一年生より速いのは自分でも分かった。土のグラウンドは東京のタータントラックと違う。足裏に返ってくる感触が素直で、砂が微かにずれる感覚がある。悪くない。
先輩が声をかけてきた。日に焼けた三年生。
「藤原、速いな。中学で何やってた?」
「中距離です」
「うちは中距離足りてないんだよな。まあ無理に決めなくていいけど、合うと思ったら残れ」
来週には入部届を出す。東京でもグラウンドを走っていた。景色は全く違うが、足の裏が地面を蹴る一瞬の感触は変わらない。呼吸が上がって、風を切って、自分の心拍数だけが世界の音になる。この町で唯一、東京にいた頃と同じ感覚でいられる時間だった。
走り終えてトラックの端で水を飲む。何気なく校舎を見上げた。
古い校舎の二階の東端。小さな窓が開いている部屋があった。蛍光灯の白い光がぼんやり見える。文芸部室。椎名が言っていた場所だ。
窓際に何かが見えた気がした。小さな影。でも走っている最中だったし、西日がガラスに反射して中の様子がはっきりしない。
視線を前に戻す。戻したのに、窓の位置だけが頭の中に残った。
◇◇◇
着替えて校舎に戻る途中、古い校舎の二階を通った。
廊下の奥に半開きのドアがある。『文芸部』と書かれた小さなプレート。
中を覗いた。
椎名が一人で座っていた。窓際の席。夕陽が差し込んで、横顔の半分だけが橙に染まっている。原稿用紙に向かっている。シャーペンが動いている。背中を少し丸めて、前髪が垂れて、目が紙面に近い。
集中している時の椎名は教室とは違う。眠そうな目がちゃんと開いている。瞳がマス目を追っている。シャーペンの先が紙をこする音が、静かな部室に落ちていた。
他に部員はいない。椅子が四脚、机が二つ。棚に文芸誌のバックナンバー。窓際に小さな花瓶があって、枯れかけの花が一輪。水は入っている。
「何書いてんの」
椎名が顔を上げた。驚いた顔はしない。俺だと気づいていたのか。シャーペンを持ったまま、眠そうな目がこちらを見た。
「……小説」
「たぬきの恋愛小説?」
椎名のシャーペンがぴくりと止まった。
「……なんでそうなるの」
「お前が書くもの全部たぬきだろ」
「……たぬきの小説じゃない」
否定したのは「たぬき」の部分だけだった。「恋愛」には触れていない。——深読みしすぎか。
「じゃあ何の小説」
「……知らない」
否定としては弱い。肯定としても曖昧。椎名らしい。
俺は部室の入り口に寄りかかった。中には入らない。ここは椎名の場所だ。
「原稿用紙って久しぶりに見た。パソコンで書かないの?」
「……手で書くのが好き」
ちょうどその時、グラウンドの方からホイッスルの音が届いた。椎名の視線が、原稿用紙から一瞬だけ窓へ滑る。ほんの一瞬。でも見逃せるほど短くもなかった。
部室のカーテンが風で揺れて、机の上の原稿用紙の端を持ち上げる。椎名が手のひらでそっと押さえた。紙を守る指先と、外の音を追う目。その両方が同時にここにあるのが、不思議だった。
教室で見る椎名より、少しだけ目の焦点が近い気がした。紙にも、窓の外の音にも、同じ精度で神経が伸びている。
「窓、閉めないんだな」
「……音が入るから」
「集中の邪魔じゃないのか」
椎名は少しだけ考えてから、小さく首を振った。
「……外で誰かがちゃんと動いてる音、嫌いじゃないの」
椎名のシャーペンが紙の上に戻った。何行か書いてあるのが見える。小さな丸い字。——なのに、俺の前でさっと原稿用紙を裏返した。
うなじが赤くなっている。蛍光灯のせいとは言えない位置だ。髪を耳にかける仕草で一瞬だけ見えて、すぐ髪が落ちて隠れた。
「……まだ見せない」
声がぼそぼそよりさらに小さい。ここから先は踏み込むな、という声。原稿用紙を押さえる指先が紙の端を掴んでいる。風で飛ばないように——じゃなく、読まれないように。
でも。「まだ」と言った。「絶対嫌」じゃなかった。
「いつか見せてくれんの?」
長い沈黙。シャーペンの先で原稿用紙の端をとんとんと無意識に叩いている。窓の外で鳥が鳴いた。
「……分からない」
「分かった。気が向いたらでいいよ」
椎名がこちらを見た。眠そうな目が微かに開く。「気が向いたら」が予想外だったのか、瞳が揺れて、すぐにノートに落ちた。
「……別に、待たなくていい」
「待つとは言ってねえよ」
言いながら、少しだけ待つつもりでいる自分に気づいた。いつか見せると言われたわけでもないのに、そういう「いつか」が頭の片隅に残る。椎名の言葉は、こういう残り方をする。
椎名はそれ以上何も言わなかった。裏返した原稿用紙をもう一度表に戻す。——書き始めるつもりらしい。俺がいるのに。いや、俺がいてもいいと判断したのか。
「じゃな」と言って部室を離れた。
廊下を歩きながら考えた。文芸部室の窓から、グラウンドが見える。
◇◇◇
帰り道。航と駅まで歩く。
「今日走ってたな。速かったぞ」
「見てたのかよ」
「教室の窓から見えた。——椎名さんも二階の窓から見えてたけど」
何気ない報告だ。航にとっては「見えた」という事実の共有。でも俺の足が一瞬止まった。
「……見えてたって、何が」
「椎名さんが窓際に座ってた。お前が走ってる方向いてたよ」
航はイヤホンをつけ直した。淡々としている。椎名が見ていたかもしれない。航はそれを当然のように報告して、深追いしない。
「サンキュ」
「何が」
「いや——別に」
「めんどくせ」
ホームで電車を待つ。東方のアレンジが片耳から流れてくる。航の情報が嘘か冒談か判断がつかない。でも航は嘘をつかないし、冒談は言わない。
文芸部室の窓。二階の東端。椎名が窓際に座って、グラウンドの方を見ている。——それを想像したら、フォームを意識したくなる理由が分かった。
◇◇◇
翌朝。教室に入ると椎名がもう席にいた。眠そうな顔で窓の外を見ている。いつもの朝だ。
席について鞄を開けた時——椎名がぽつりと言った。
「……きみ、昨日走ってた」
手が止まった。振り向く。椎名は窓の外を見たまま。俺の方を見ていない。でも、自分から話しかけてきた。
「見てたのかよ」
「……窓から、見えたの」
「あの窓、グラウンド見えるんだ」
「……うん」
「毎日見てんの?」
沈黙。椎名の指がノートの端をなぞっている。白い指。冷たい指。
「……たぬきは、巣穴の入口から外を観察する習性があるの」
出た。たぬきだ。直接答えずにたぬきに逃げた。ということは——毎日見てる。少なくとも否定はしなかった。
「……きみ」
「ん?」
「……今日も走るの?」
「たぶん」
少し間があった。椎名の指がノートの端をなぞる。
「……昨日、最後の直線、きれいだった」
不意打ちだった。褒められた、というより、見られていたことの輪郭が急にはっきりした。
走っていた時の感覚まで、少し遅れて戻ってくる。腕の振り、呼吸、足の裏の土の感触。そのどこかを椎名が見ていたのかと思うと、昨日の最後の直線が急に別の意味を持ち始める。
「……そう」
返した声が少し変だった。自分でも分かった。
「……窓、開けとくから」
文芸部室の窓のことだ。何のために開けておくのか、聞かなかった。聞いたら壊れる種類の言葉がある。
それでも今日は、半歩だけ踏み込んだ。
「風、入って邪魔じゃないのか」
椎名の指が止まる。答えるか迷う間。ノートの端をなぞってから、ぽつり。
「……グラウンドの音、聞こえるから」
短い。それだけ。でも十分だった。
「……そう」
椎名はそれ以上何も言わず、ノートに目を落とした。前髪がさらりと落ちて、表情が隠れる。
放課後。グラウンドに出る前に校舎を見上げた。
文芸部室の窓が開いていた。約束通り。
走り出す。今日は少しだけ、フォームを意識した。
一周目の終わりで、また校舎を見上げた。窓は開いたまま。誰かが立っている気配までは分からない。でも、見られているかもしれないと思うだけで、足が勝手に前に出る。
最後の直線で、腕を少しだけ強く振った。呼吸が上がる。土を蹴る感触が一段深くなる。記録を狙ったわけじゃない。ただ、窓の向こうにいるかもしれない一人に、だらしない背中は見せたくなかった。




