第11話「教科書はだいたい半分こ」
国語の教科書を忘れた。
鞄を二度探った。ノート、筆箱、数学のプリント、なぜか入っている充電ケーブル——教科書だけがない。昨日の夜、予習しようと思って机に出した。出しただけで予習はしなかった。そのまま置いてきた。完璧な忘れ物だ。
隣の椎名がページをめくった。シャーペンが走る音。眠そうな目のくせに手は止まらない。
どうするか。教師に言えば「何で忘れたの」が始まる。後ろの席の奴に借りるほど親しくない。航は反対側の列で、ノートの端に東方キャラの落書きをしている。あいつに視線を送っても国語の時間は応答がない。
考えあぐねていると——動きがあった。
椎名の手が、自分の教科書をそっと机の右端に寄せた。二人の机の境界線。ちょうどその上に教科書が置かれる。
椎名は俺を見なかった。何も言わない。視線は黒板に向いたまま。教科書を寄せたという事実以外に、何のアクションもない。でもその教科書は明らかに俺にも見えるように配置されていた。落ちそうで落ちない、絶妙な位置。
(……ああ、そういうこと)
黙って文字を追い始める。
——近い。
教科書を共有するなら、身を寄せなければ文字が読めない。椎名も同じで、いつもより少しだけ俺側に体を傾けている。ブレザーの肩が数センチ近い。
距離にして、二十センチもない。
椎名の髪から柑橘系の匂いがした。シャンプーかリンスか分からない。この距離じゃないと絶対に届かない匂いだ。教科書の文字を追っているつもりが、意識の半分くらいが鼻に持っていかれている。
椎名の右手の小指が、教科書のページの端をそっと押さえている。白い指。爪が短く切り揃えてある。その小指だけで、ページが逃げないように押さえているのが妙に目についた。
ページが変わる。椎名がめくった。
「……ここだよ」
声にならない声。教師の朗読が教室を満たしている中、椎名の声だけが耳に落ちてきた。唇がほとんど動いていない。吐息のついでみたいに音を乗せただけ。二十センチ限定の内緒話。
「ああ」
返した声が思ったより掠れた。喉が乾いている。
教科書の文字が頭に入らない。椎名の指がページをめくるたびに視界をかすめる。柑橘の匂いが断続的に届く。
しかも椎名は、共有しやすいようにページの角度を細かく直していた。俺が少し身を引けば教科書が一センチこっちに寄り、俺が書き写そうとすれば、椎名の手が自然に端へずれる。会話にならない種類の気遣いが、こういう時だけ妙にうまい。
教師が「ここの主語、省略されてるけど何だ?」と問いかけた。沈黙。誰も手を挙げない。椎名のシャーペンがノートの隅をこつ、と叩いた。ちらっと盗み見ると走り書きがある。——「作者」。ノートが微かに俺の方に傾いていた。
手を挙げた。「作者、ですか」。教師が「そうだ」と頷く。席に手を下ろした時、椎名のノートの端に小さな「◎」が書き足されるのが見えた。採点が厳しいのか甘いのか判定不能。——なんだよそれ、連携プレーかよ。
俺は自分のノートの隅に小さく『助かった』と書いた。見せるつもりで書いたわけじゃないのに、ノートを置く位置が少しだけ椎名側にずれていた。
椎名の視線が一瞬落ちる。シャーペンが動く。
『……どういたしまして』
丸い、小さな字。すぐ下に、なぜかまた「◎」が増えた。点数が上がったらしい。何に対する採点なのかは分からない。
さらにその横に、豆粒みたいなたぬきちが一匹描き足された。教科書の余白じゃなく、俺のノートの端に。共有の教科書と、共有のノートと、共有の落書き。国語の授業中にやることじゃない。
でも、消さなかった。
椎名はこちらを見ない。でもノートを引っ込めなかった。二人の間に教科書が置かれているこの五十センチの空間で、声を使わずに会話が成立していた。よく分からないがチームワークだ。
授業中なのに、少しだけ楽しかった。忘れ物をしている側なのに。普通なら気まずいだけの五十分が、今日は妙に短く感じる。たぶん、教科書一冊を境目にして二人で小さな秘密を共有していたからだ。
五十分が異様に長かった。
◇◇◇
昼休み。いつもの六人。机を寄せて弁当を広げる。
結衣が口を開けた瞬間、もう知っていた。目が三日月になっている。卵焼きを箸で挟んだまま身を乗り出してくる。
「あんたら午前中、ずーーっと教科書くっつけてたよね?」
声がデカい。教室の反対側まで聞こえている。窓際のグループが振り返った。
「忘れたんだよ。教科書」
「ふーーん?」
「語尾伸ばすな」
「だってさー、教科書の位置めっちゃ藤原寄りだったじゃん! 普通もっと真ん中に置くでしょ!」
「位置の解析までしてんのかよ」
美咲がスマホから顔を上げた。スマホより面白い話が出た時だけ上向く顔だ。「あ、でも私も見た。なんか近くなかった? 普通の教科書共有より」
「普通がどんな距離か知らねえよ」
航がパンの袋を破りながら目線だけ寄越した。「……めんどくせ」
結衣「航は黙ってて!」
航「お前がうるせえからだろ」
結衣「だってこれ大事な案件じゃん! 千沙が! 自分から! 教科書を! 寄せたんだよ!?」
四分割して強調するな。接続詞なしで感嘆符を連打する人間の議論に参加する気になれない。
航「寄せなかったら授業にならねえだろ。学級委員の仕事だ」
おお、珍しく助け舟が来た。航ナイス。
結衣「じゃあなんで千沙の教科書、ほぼ藤原の机の上にあったわけ?」
航「……知らね」
助け舟、三秒で沈没した。
凛はサンドイッチを噛みながら微笑んでいた。眼鏡の奥の目がこちらを観察している。何も言わない。全員のリアクションを等距離で見渡している。何も言わないのが一番怖い。
「椎名はどう思う?」
結衣が矛先を変えた。椎名の箸が止まる。卵焼きが箸の先で宙に浮いたまま静止した。
「……何が」
「教科書共有。近かった?」
「……普通だよ」
「普通ってどのくらい? センチで言って」
椎名がぼそり。「……たぬきのパーソナルスペースは約二メートル。……それよりは近かった」
結衣が食いついた。「それ近いってことじゃん!」
「……たぬきの話だよ」
「たぬきの話じゃなくて藤原との距離の話をしてるの!」
椎名は卵焼きを口に運んだ。咀嚼。もぐもぐすることで回答義務を物理的に放棄するテクニック。慣れている。
航が「飯冷めるぞ」と結衣の弁当を指差した。結衣が「あっ私のから揚げ冷めてる!」と自分の弁当に向き直る。話題が逸れた。助かった。航、今度こそナイスだ。
凛がこちらをちらっと見て、ふっと笑った。目が合う。凛の目は「全部見えてるよ」と言っていた。——何が見えてるんだよ。
昼休みの残りはGWの話に流れた。結衣が行き先を増やし、美咲が乗っかり、凛が現実的な候補を調べ、航が全部に「めんどくせ」で返す。椎名は卵焼きを小さくかじりながら、たまにだけこちらを見た。
◇◇◇
五限目終わり。椎名が配布物の束を小脇に抱えて立ち上がった。学級委員の日課。三十五人分のプリントを一人で配る。
「半分持つよ」
声をかけた。椎名がこちらを見た。一拍。束の半分が差し出された。
「……ありがとう」
「隣の席だし。ついでだ」
受け取った時、椎名の指先が束の端を整えていた。俺に渡した半分だけ、角がぴったり揃っている。仕事を分けても精度を落とさないあたり、本当にこういう作業が染みついているんだろう。
奇数列と偶数列に分かれて配る。教室の真ん中ですれ違った時、椎名がぼそっと言った。
「……きみ、配るの雑」
「は?」
「……曲がってる」
見比べた。椎名の列はプリントが机の端にぴったり揃っている。俺の列は微妙に斜めだ。そこまで見るかこの人は。
「次から真っ直ぐにする」
「……次もやってくれるの?」
「プリントは毎日来るだろ」
椎名が小さく頷いた。「……じゃあ、次も頼むの」。配布作業はこれで二人の仕事になった。学級委員と、隣の席のついで要員。
◇◇◇
帰り支度をしていると、椎名が俺の机にスッとメモを置いた。
手のひらよりも小さい紙切れ。端が少しだけ歪んでいる。ハサミじゃなく手でちぎった形だ。
『明日の持ち物』
丁寧だけど小さな丸い字。その下に箇条書き。英語の教科書、数学のワーク、体操服。——忘れ物をした生徒にメモを渡す制度なんて、聞いたことない。
メモの右下に、何か描いてあった。
丸い。目が点。手足が短い。しっぽだけがやたらと立派にふさふさしている。全体的に楕円。生き物だとは思うが、種の特定が困難だ。
「……何これ」
「……たぬきち」
「たぬきちって何」
「……たぬき」
「いや名前じゃなくて画力の話をしてる」
椎名がむっとしたのか無表情なのか判別がつかない顔で、メモの角を指先でつまんだ。
「……明日も忘れたら、また書く」
「忘れねえよ。たぶん」
「……たぶんの人は忘れるの。……経験則」
鋭い。反論の余地がなかった。椎名がすっと背を向けた。鞄のファスナーを閉める音。椎名の動作はいつも音が小さい。
メモを裏返す。裏にも何か書いてあった。
『教科書忘れないでね』
同じ丸い字。最後の「ね」だけ、ほんの少しだけインクが濃い。
注意というより確認に近い書き方だった。怒っているわけでも、学級委員として叱っているわけでもない。忘れ物をしたやつに、次は困らないように渡してくるだけ。その距離感が椎名らしかった。
……捨てる理由がなかった。鞄に入れた。財布の横。
◇◇◇
帰り道。航と駅まで歩く。イヤホンの片方を分けて東方のアレンジを聴く。
航が「今日の国語どうだった」と聞いた。
「教科書忘れた」
「椎名さんに見せてもらったのか」
「ああ」
「ふーん」
航の「ふーん」には結衣のような毒がない。ただの確認だ。イヤホンからピアノアレンジが流れている。
電車の中でメモを取り出した。たぬきちの絵を見る。丸い。下手だ。でも——なんだろう。ビニール袋の中の金魚みたいな、守りたくなる下手さ。手足が短すぎてどうやって歩くのか分からないのに、しっぽだけ立派。このバランス感覚は天然だ。
航がちらっとメモを見た。
「何それ」
「たぬきちだって。椎名が描いた」
航が三秒沈黙した。「……お前、それ大事にしまってんの?」
「メモだし。持ち物リスト」
「裏に何か書いてあるけど」
「……教科書忘れるなって」
「教科書忘れるなって書いたメモを、財布の横にしまうやつ初めて見た」
痛いとこを突く。この男は余計な言葉を使わない分、一発の命中精度が高い。
「持ち物リストだから鞄に入れてるんだよ」
「財布の横が鞄の中かどうかは聞いてない」
反論を諦めて窓の外を見た。航も窓の外を見た。田んぼと電線。二人揃って凝視する必要のない風景だ。
「めんどくせえ奴ら」。航が呟いた。でも口元が緩んでいるのを俺は見た。
家に帰って、メモを引き出しに入れた。ペンケースの横。たぬきちの点の目が上を向いている。閉める直前にまた目が合って、笑いそうになった。
こいつ、頭の中にたぬき何匹飼ってるんだ。
引き出しを閉めた。明日は教科書を忘れない。忘れないつもりだ。
でも、あの五十分を思い出すと、その決意は少しだけ鈍る。




