第10話「夕方の帰り道は悪くない」
金曜日の六限目が終わった瞬間、松本結衣が跳ね起きた。
椅子の脚が床を打つ乾いた音。何人かが振り返る。でもいつものことだ。金曜の放課後に結衣が覚醒するのは自然法則に近い。太陽が東から昇るのと同じカテゴリ。
「今日どっか行こうぜ!」
航が瞬きもせずに返した。「めんどくせ」
反射速度が異常だ。結衣の声が空気を震わせてから航の拒否が着弾するまで、おそらく〇・三秒。脊髄反射。脳を経由していない。
「いいから! 金曜だよ? 放課後だよ? 青春は有限なの分かってる!?」
「有限だから節約してえんだよ」
「美咲も凛も行くって言ってんの!」
美咲がスマホから顔を上げた。「行くとは言ってないけど……まあ暇だし」
凛が後ろの席から微笑む。「いいよ」
結衣が椎名の腕を掴んだ。「ちさも行くでしょ!」
「……引っ張らないで」
椎名は小さく抗議しながら、鞄のファスナーを閉めている。口が拒否して、手が準備をしている。体内の多数決が割れたまま行動だけ先に出ている。
俺は巻き込まれる前に退避すべきかと一瞬考えた。一瞬で諦めた。結衣の射程にもう入っている。
「藤原も当然行くよね!?」
疑問形だが、答えは既に装填されている。この人の質問にはいつも回答が内蔵されている。
まあ、いいか。予定もない。
予定がない、は半分本当で半分嘘だ。東京にいた頃なら、金曜の放課後はそのまま家に帰るか、適当に駅前をうろつくか、そのくらいだった。鹿沼に来てからは、そもそも「誰かとそのままどこか行く」という発想自体が、少しずつ生活に戻ってきている。
◇◇◇
六人で校門を出た。
結衣が先頭をずんずん歩く。目的地は存在しない。本人の頭にも存在していない。方角すら怪しい。地図を持たない探検隊長が自信だけを装備して北に進んでいる。北に何があるのかは俺も知らない。たぶん結衣も知らない。
航が最後尾をだるそうについてくる。口は「めんどくせ」以外を発しないが、足は一度も止まらない。文句と前進を同時に実行する男だ。
美咲がスマホで通り沿いの建物を撮りながら歩く。「鹿沼の放課後って映えないなー」
凛が「そう? 空が広くていいじゃない」と返した。
美咲がカメラを空に向けて、三秒で下ろした。「……うん。空しかないけどね」
「だから広くていいって言ったの」
「空の広さで褒められても反応に困るんだけど」
美咲が俺に振った。「東京の人はどう思う?」
「……広いとは思う」
「褒めてる?」
「事実を言ってる」
美咲が「事実って何」と笑った。凛がくすりと息を漏らす。
椎名は——俺の左側にいた。
校門を出たときの位置がそのまま維持されているだけだ。でも五分経っても距離が変わらない。肩と肩の間が一定に保たれている。椎名は普段もっと小刻みに歩くはずだ。歩幅が、少し伸びている。俺に合わせて——いるのか、偶然なのか。視線を落とすと、つむじが見えた。髪の分け目から四月の陽が透けている。
「……きみ、鹿沼は初めて?」
椎名が前を向いたまま聞いてきた。声が小さい。風と足音の隙間に差し込むような声。
「ああ。東京以外にまともに住んだことない」
「……そう」
それだけ。でも椎名の歩く速度が変わらないのが、なんとなく嬉しかった。
結衣や美咲と話している時の椎名は、会話の外周を慎重に歩いている感じがある。でも今は違う。言葉の数は少ないままなのに、足取りだけはちゃんと並走している。歩く速度って、案外その人の本音が出る。
喋らなくても、置いていかれない。置いていかない。その事実だけで、並んで歩くこと自体に意味が出る。四月の放課後にそんなことを考えるのは、たぶん少し早い。でも早いからこそ、余計に意識してしまう。
鹿沼の商店街に入った。シャッターが半分以上降りている。開いている店にも時間が堆積していた。看板の字が手書きの店がある。自転車の数が歩行者を上回っている。人は少ない。その分、六人分のスニーカーが石畳を打つ音がよく響いた。ばらばらのリズム。でも不思議と不快じゃない。
石畳の一角に差しかかった。古い街灯が等間隔に並んでいる。
「……ここが屋台通り」
椎名がぽつりと言った。ガイドの自覚はなさそうだ。でも声の温度が上がった。ほんの少し。この通りが好きなんだろう。
「今は何もねーじゃん」航が後ろから投げた。
「……秋祭りのとき、出店が並ぶの」
「半年後かよ」
結衣が振り返った。「その頃にはもう鹿沼の人間でしょ! 全員で行くに決まってんじゃん!」
半年後。今日できたばかりの六人が半年後も同じ顔ぶれだと、結衣は疑っていない。根拠はない。でもこの人が言うと、それが本当になりそうな気がする。
◇◇◇
商店街の外れにコンビニが一軒あった。六人で入る。自動ドアが開いた瞬間、冷房の空気が顔に当たった。外の四月の陽射しとの温度差が肌を粟立たせる。店内BGMが穏やかに流れている。コーヒーとおでんの匂いが混ざった、日本中どこでも同じ香り。でも棚の中身は違った。
雑誌コーナーに農業誌が二冊、園芸雑誌が一冊。週刊の漫画誌は一種類。棚の面積に占める農業の比率が高い。東京のコンビニとは生態系が違う。
「藤原の奢りね!」
結衣がアイスの冷凍庫に手をかけて宣言した。
「なんで」
「転校祝い!」
「二週間前だろ」
「祝祭に時効はない!」
航が横から「都会の奴は金持ちだからな」と真顔で乗った。
「嘘つくな。同じ高校生だろ」
「地元民は貧しいんだよ。格差社会。是正しろ」
航のガバガバ経済学が真顔で展開されるのが一番タチ悪い。しかも最終的に「是正しろ」と命令形で着地した。論理が破綻しているのに語気だけ強い。
美咲が冷凍ケースの前で固まった。「チョコとバニラどっちがいいと思う?」
凛が「好きな方でいいんじゃない」と返す。
「だからどっちが好きか聞いてんの!」
「私はストロベリー」
「聞いてない!」
航が「チョコにしろ。五秒以上悩むな」と斬った。
「即断即決すぎない? もうちょっと悩ませてくれない?」
「アイスに人生賭けんな」
「賭けてないけど! でも大事でしょ!」
「大事じゃねえ」
美咲が「ひどーい」と笑いながら——結局バニラを取った。チョコでもストロベリーでもない。三十秒の民主的議論と二名の助言が全滅した。会議の存在意義がゼロだった。
椎名はミルク味を迷わず手に取って、レジの列の最後尾に並んだ。選択に二秒。六人で唯一、意思決定に問題を抱えていない。
結局、アイスは各自で買った。転校祝いは不成立。俺の財布は無事だ。
レジから出てきた時、結衣が当然の顔でレシートを俺に見せてきた。「ほら、今日は自立してる!」。意味が分からない。美咲が「偉い偉い」と雑に褒め、航が「基準が低すぎる」と切り捨て、凛が「初歩の経済活動」と補足した。こいつら、六人になってまだ二日くらいなのに、もう役割分担が雑に完成している。
結衣が俺のアイスに「一口ちょうだい」と手を伸ばしかけ、航に「行儀悪い」と止められている。
「航にもあげよっか?」
「いらね」
「ケチー」
「人のを食おうとしてる奴のセリフじゃねえだろ」
正論だけ回転が速い。
◇◇◇
コンビニの横にベンチがあった。四人がけ。航と美咲は立ったまま食べている。
結衣がベンチの中央寄りを占領し、椎名はその隣の端寄りに腰掛けていた。ミルクのアイスをちびちび舐めている。一口が小さい。急がない。四月の陽射しがアイスの側面を攻め始めているのに、食べる速度が溶ける速度に追いつかない。指先に白い雫が垂れかけて、椎名はそれを丁寧に拭った。
俺は空いていた端に座った。椎名の隣。——また、自然に。
凛がベンチの肘掛けに腰掛けて、六人を見渡していた。ポケットに手が伸びかけて、止まった。今日はスマホを出さない。代わりに目を細めて、風の温度やアイスの匂いや結衣の笑い声ごと、この場所の空気を丸ごと記憶するみたいに皆を眺めている。眼鏡の奥の瞳が、柔らかかった。
「これからも一緒に遊ぼうね!」
結衣がアイスを掲げて宣言した。溶けかけのバニラが手首に垂れている。宣言の崇高さと手首のバニラが釣り合わない。
美咲が「まあ、他に行くとこないしねー」と笑った。
航が溜め息をつく。「……それ、コンビニの前で言うなよ。店員に聞こえる」
面倒くさそうだが帰ろうとしない。この男は不満を口にしている限りその場にいる。文句が接着剤になっている。
凛がくすっと笑う。
椎名は何も言わない。ミルクのアイスを食べている。口の端についた白いのを指で拭って、黙っている。嫌そうじゃない。六人の輪の端っこにいるけど、その端っこが——この子の定位置になりつつある。
アイスの側面がまた少し溶けて、白い雫が指先に垂れた。椎名がハンカチを探そうとして、鞄の口をちらっと見る。間に合わないと判断したところで、ポケットの中にコンビニのレシートと一緒に突っ込んだ紙ナプキンを思い出した。
一枚、差し出す。
椎名が目を上げた。
「……あ」
「使えよ」
椎名は少しだけ迷ってから受け取った。指先が紙越しに触れる。冷たい。でも、前ほど遠い冷たさじゃなかった。
「……ありがとう」
小さい声。紙ナプキンで指先を拭いて、それから、ほんの一拍遅れて付け足した。
「……きみ、気づくの早い」
「溶ける速度が遅いんだよ、お前」
「……ミルク味は、急いで食べるものじゃないよ」
「理屈になってない」
でも椎名の口元は少しだけ緩んでいた。
使い終わった紙ナプキンを、椎名は雑に丸めなかった。丁寧に四つに折って、膝の上に置いた。その几帳面さが椎名らしい。
「……あとで返す」
「紙ナプキン一枚返されても困る」
「……じゃあ、別のかたちで返す」
ぼそっと。独り言みたいな小ささだったけど、ちゃんと聞こえた。俺が何か返す前に、結衣が「次どこ行くー!?」と大声を出して、その一言は六人の会話に埋もれた。
でも、一度聞こえた言葉は消えない。紙ナプキン一枚の話なのに、椎名がそう言うと妙に残る。こっちは軽口で流したのに、向こうは向こうでちゃんと勘定に入れているらしい。その几帳面さが、少し可笑しくて、少し嬉しい。
しばらくベンチにいた。結衣がころころ話題を変えて、航が一言で切って、美咲がリアクションして、凛が相槌を打って、椎名がぼそっと呟いて結衣が「え、なに?」と聞き返す。そのリズムが噛み合い始めていた。
◇◇◇
「じゃ、そろそろ帰るかー」
結衣が立ち上がった。「またね!」と手を振る。全力。
凛が「じゃあね」と穏やかに続いた。航が次の角で振り返りもせず消える。
美咲が「あたしこっちー」と航の方向に曲がっていった。
残ったのは——俺と椎名だった。
帰り道が同じ方向なのは、もう知っている。
無言で歩いた。夕陽が低い。影が長く伸びて、二人分の輪郭が道路の上で並んでいた。歩くたびに揺れる。同じ速度で。
四月の夕方の匂いがする。アスファルトが日中の熱を手放しかけて、少しだけ甘い。住宅街は静かだ。遠くで犬が鳴いた。
椎名がぽつりと口を開いた。
「……たぬきは、仲間が増えると巣穴が暖かくなるの」
また、たぬき。でも今は意味が分かる。仲間も巣穴も暖かいも、たぶん全部椎名の話だ。
少し間を置いた。影が並んで揺れている。
「——お前、嬉しいの?」
椎名が立ち止まった。
瞼が上がった。いつもの眠い目が一瞬だけ開く。教室で初めてたぬきの裏を読んだときと同じだ。見透かされた驚きが、瞳の中でかすかに震えている。
「……たぬきの話」
小さく返す。いつもの防壁。でも声が違う。半音、上がっている。
防壁のくせに薄い。完全に隠れる気があるなら、もっと平坦に言えるはずだ。椎名の「たぬきの話」は、最近ときどき素材が透ける。隠すための布が、前より少しだけ薄くなっている。
「嘘つけ。お前の話だろ」
椎名の耳が赤い。
夕陽のせいだと思えなくもない角度だった。西日が低い位置から横向きに当たっている。でも——首は染まっていない。頬もそうでもない。耳だけが、はっきりと色づいている。
夕陽は関係ない。
椎名は何も答えなかった。「……じゃあね」と小さく言って、きびすを返した。スニーカーの踏み出しがいつもより速い。半歩分だけ歩幅が広い。逃げている。
俺は立ち止まったまま、その背中を見送った。夕暮れの住宅街に吸い込まれていく小さな背中。
心臓のあたりが、妙に騒がしい。さっきコンビニで食べたアイスの冷たさなんてとっくに消えているのに、喉の奥だけ少し乾いている。夕陽のせいにしたくなる熱が、胸の内側で勝手に広がっていく。
角を曲がる直前——椎名が振り返った。
一瞬だけ。
目が三日月みたいに細くなっていた。口元がほんの少し上がっている。眠そうで、柔らかくて、あたたかくて。
笑っていた。
呼吸が止まった。椎名はもう角の向こうに消えていた。
まだ四月だ。
次の放課後が、もう少し待ち遠しかった。




