第1話「転校生は一週間遅い」
空が、広い。
それが最初の感想だった。
俺は藤原晴人、十五歳。春休みの終わりに東京から栃木県鹿沼市へ引っ越してきた。入学手続きがずれこんで、登校初日が今日になった、と母は言っていた。父親の書類がどうとか、住民票がどうとか。そのへんの事情は、聞いても仕方がない。
通学路にガードレールがない。代わりに用水路が道に沿って流れていて、足元からぽちゃん、と何かが跳ねた。蛙だ。四月に蛙。東京で最後に蛙を見たのは理科の教科書の中だった。蛙はこちらを一瞥して用水路に消えた。人間に一ミリも興味がない目だった。
田んぼの匂いがする。土と水と、何か甘い草の匂い。名前も知らない鳥が電線に三羽並んでこっちを見ていた。東京の鳥は人間を視界に入れない。ここの鳥は物珍しそうにこっちを観察している。見世物じゃねえぞ、と心のなかで呟いた瞬間、三羽そろって首を傾げた。同期してるのが怖い。
五分歩いて、軽トラ一台。荷台に野菜のコンテナが積まれていて、運転席のおじさんが手を上げた。俺に向かって。知らない人に。東京で見知らぬ人に手を振ったら通報される。とりあえず会釈を返したら、おじさんは満足そうに去っていった。これが鹿沼の通信プロトコルらしい。
桜がまだ残っている。散りかけの花びらが風で靴の上を横切った。
——まあ、なんとかなるだろ。
◇◇◇
「藤原晴人です。東京から来ました」
短い。我ながら短い。だが言葉の在庫がなかった。
担任の横に立って三十人くらいのクラスメイトを見渡す。前列の女子が隣と肘で突き合っている。——東京、と口が動いた。中列の男女は明らかに目線が教室後方の時計に行っている。授業開始までのカウントダウンのほうが大事らしい。後列の男子は鉛筆を回していて、俺の存在が完全に射程外だ。一週間分の日常がもう堆積していて、新入りひとり途中参加したところで水面は揺れない。
「質問ある人ー?」
担任がさらっと振った。沈黙。後列の男子が手を上げかけて——隣の女子に腕を叩かれて下ろした。何を聞くつもりだったのか少し気になる。
「じゃあ藤原、あそこの空いてる席な。椎名の隣」
窓側の三列目。指された方を見て——足が一瞬止まった。
小柄な女子が座っていた。頬に片手を添えて、窓の外をぼんやり見ている。まつ毛が長い。長いのに伏し目がちだから、目元に影が落ちている。春の日差しが横顔の輪郭だけを明るく縁取っていた。俺が近づいていくのに気づくと、ゆっくり——本当にゆっくりと姿勢を正した。日向の猫がまぶたを持ち上げるくらいの速度。急ぐという概念がこの子の辞書から抜け落ちている。
席に着く。椅子を引くとキュッと鳴って、その音で隣がようやくこちらを向いた。視線が先に来て、顔がのろのろ追いつく。独特の間。
「……椎名千沙です。学級……委員を、やってます」
声が小さい。隣に座っていなかったら聞き取れなかった。
「僕が、案内するから」
言い終えて、椎名は俺の机の右上を指先で軽く叩いた。そこが配布物の置き場だと教えるみたいに。
——僕。
ちょっと引っかかった。でも教室の誰も反応しない。一週間の蓄積が、この一人称をもう空気に溶かしている。
「よろしく」
椎名は小さく頷いて、また窓の外に視線を戻した。校庭と山しかなかった。
机の上は妙に整っていた。教科書、ノート、筆箱。全部がきっちり直角を作っている。その端に、消しゴムのかすがきれいに寄せられていた。几帳面、というより、机の上だけは自分の領土として完璧に整えておきたい人間の配置だ。
担任が次の連絡事項を話し始める。教室の空気はすぐ元に戻った。前の席の奴はもう別の話をしているし、後ろでは椅子を軋ませる音がする。一週間遅れの新入りひとりが入ってきても、日常はそのまま進む。ありがたいような、少しだけ置いていかれるような気もした。
その中で、隣の椎名だけがこちらを見ない。見ないまま、出席番号順に回ってきたプリントを一枚取って、俺の机の端に揃えて置いた。無言。説明もない。ただ「ここに置くべきものを、置く」。その手つきだけが、歓迎の代わりみたいだった。
それから十分くらい、誰にも話しかけられなかった。別に困らない。東京でも初日なんてそんなものだ。けど、教科書のページをめくる音と、担任の声と、前の席の奴が時々消しゴムを落とす音のあいだに、自分だけが薄く浮いている感じはあった。
隣の椎名は、その浮き方を見ないふりしてくれているようでもあった。次に回ってきた連絡プリントも、返却された小テストも、俺の机の右上にきれいに揃えていく。置くたびに端を指先で一回だけ揃える。その手つきが妙に丁寧だった。ここが仮置き場です、と無言で教えられているみたいだった。登校初日に必要なのは大げさな歓迎より、こういう説明のいらない救助かもしれない。
◇◇◇
椎名千沙は、案内が上手かった。
廊下はワックスの匂いがした。四月の陽射しが窓ガラスを通り抜けて、リノリウムの床が鈍く光っている。どこかの教室からリコーダーの音が漏れていた。下手くそだけど一生懸命な、春の音。
消え入りそうな声なのに、伝えるべき情報は漏らさない。職員室、保健室、図書室、トイレの位置。廊下を歩きながら淡々と指さしていく。爪が短く整えられた白い指。椎名のスニーカーが床を擦るたびに、きゅっ、と小さな音が鳴った。歩くペースは俺より遅いが、口は止まらない。足が追いつかないぶん言葉で前に進んでいるような不思議なリズムだ。
「……ここが体育館。……雨漏りする」
「直せよ」
「……十年、直ってない」
十年放置された雨漏りを、今朝の天気予報くらいの温度で語る。この学校には施設を管理する概念が存在しないのか。
「……こっちが理科室。……骨格標本が、夜動くって噂がある」
「動かねえだろ」
「……たぶん」
たぶんで済ませるな。でもこの人は全部この温度だ。体育館が崩壊しても「……崩れたね」で片づけそうな気がする。
「……ここは購買。木曜はカレーパンが出る。人気。……でも僕はコロッケパンのほうが好き」
「コロッケパン?」
「……朝じゃないと売り切れる」
コロッケパンだけ情報の解像度が違う。購買のパンの中でこれだけ時間指定つきの限定情報が出てくるのは、情熱の偏りとして異常だ。つまりこの人にとっては「わざわざ朝から確保する程度の普通」であり、普通のハードルにバグがある。
購買の前にはすでに昼のメニュー表が貼ってあった。焼きそばパン、メロンパン、牛乳、紙パックのコーヒー。数字の丸い手書き文字の端に、油の染みがついている。椎名はその一覧を一瞬だけ見て、特にコロッケパンの行で目を止めた。ほんの一瞬。なのに、そこだけがこの人の中では太字なんだと分かるくらい分かりやすかった。
「……金曜は、揚げパン」
「まだ情報あるのかよ」
「……でも、砂糖が落ちるから、制服が白くなる」
「経験者の忠告だな」
椎名は否定しなかった。たぶん一度やっている。たぬきの話は多いくせに、自分の失敗談だけ妙に黙るあたり、変なところで羞恥心の配分が人間っぽい。
「……ここは生徒会室。……近づかないほうがいい」
「なんで」
「……会長が、よく喋る人で——」
ガチャ。
「おっ、椎名じゃん! 新入生の案内? そうだよね案内だよね! あのさ、ちょうどよかった、来月の交通安全週間の件なんだけどさ——」
眼鏡の男子が突撃してきた。会話のエントリーポイントが二小節分すっ飛んでいる。
椎名の歩行速度が無言で一・五倍に跳ね上がった。さっきまで亀の散歩だったのが急に人間のスピードが出ている。この加速力をさっきから出せ。
「……行こう」
背中越しに「あっ、待って——」と響いたが、椎名は一ミリも振り返らなかった。逃げ足だけ運動能力を全開にする人間を初めて見た。
「……ああなるから」
小さく。だから言ったでしょ、という空気が漂っている。でも表情はほぼ動いていない。この人の感情表現は、冬のはじまりみたいだ。どこかで何かが動いているはずなのに、外からはほとんど見えない。
渡り廊下の窓が少し開いていて、風が吹き抜けた。椎名の前髪が揺れて、すぐ戻る。校庭では野球部らしき掛け声が遠くで跳ねていた。案内は必要なことしか言わないのに、不思議と気まずくはない。黙って歩いても、この人は「沈黙が失敗した」とは思わないんだろうな、とぼんやり考えた。
案内は余計な質問もなかった。「東京ってどんなところ?」も「なんで一週間遅れて来たの?」もない。助かる。
「……以上」
椎名がくるりとこちらを向いた。廊下の西日が右半分だけを照らしていた。前髪の隙間から覗く瞳が、光の加減で薄茶色に透けている。
制服の肩に桜の花びらが一枚。さっき渡り廊下を通った時についたんだろう。本人は気づいていない。
取ってやるか、と思った。右手が肩のほうに向かいかけて——止まった。なんで止まるのかは分からない。花びら一枚で手が止まる理由なんて、まだ自分でもうまく説明できない。
「何か……質問ある?」
「いや。助かった」
「……そう」
小さく頷いて、教室に戻っていく。足音がほとんどしない。歩くというより滑っている。
肩に桜を乗せたまま、椎名千沙は廊下の向こうに消えた。
◇◇◇
放課後。
帰り支度をしていると、椎名がプリントを持ってきた。
「……明日の、持ち物リスト」
「ありがとう」
受け取る。指が触れた。
——冷たい。
四月の教室で、窓から春の風が吹き込んでいるのに、椎名の指先だけが季節ごと無視していた。朝の起き抜けにステンレスの水筒を掴んだ時みたいな冷たさ。ほんの一瞬なのに、指の腹に温度差が刻まれた。
椎名はプリントを渡し終えて、背を向けた。鞄を持って、椅子を入れて——。
振り返った。
さっきまで伏し目がちだった瞳が、一瞬だけまっすぐこちらを向いた。何か言おうとして、でも言葉の形が定まらなくて、迷った顔。
「……たぬきは、あとから巣穴に入ってきた仲間には三日間そっとしておくの。……慣れるまで」
「……は?」
主語がたぬきだった。
校内案内の締めくくりとして、たぬきの生態をぶち込んでくるのはカリキュラムのどこにもない。文科省は想定していない。
「……明日もよろしく」
椎名はもう廊下に出ていた。足音がすぐ消えた。
プリントを見下ろす。たぬき。巣穴。何の話だ。
変な人だ。声は届かない。学級委員の仕事は完璧。生徒会長からは全力逃走。コロッケパンの情報だけ解像度がバグってる。雨漏りと骨格標本をセットで差し込んでくる。
でも——振り返った瞬間の、あの目。薄茶色に透けた瞳。言いたいことがあったのに、言葉にならなくて、代わりにたぬきの話をした。そう見えた。
指先の冷たさと、あの透けた瞳と、肩に乗ったままの桜の花びらと、言葉を探していた一瞬の顔。一日で覚えた情報量がおかしい。ただの隣の席のクラスメイトなのに。
家に着いた。
鍵を回す音が響く。玄関は俺のスニーカーだけ。母はまだ帰っていない。靴箱の中段がまるまる空いている。東京では三人分の靴がぎゅうぎゅうに押し込まれていたのに、ここでは二人分で余裕がありすぎる。減った一段ぶんの中身は知っている。知っているが、考えなくていい。
テーブルの上に水色の付箋——「カレー温めてね」。母の丸い字。文字の端っこがちょっとはねている。急いで書いたのか。流しに朝のマグカップが一つ。乾いた紅茶のあとが底に輪を描いていた。
段ボールが壁際に積まれている。俺の荷物が一つ。母の荷物が二つ。それだけ。東京の部屋にはもっとあったはずだが、ここに着いた時点で物は三分の一に減っていた。ガムテープに油性ペンで「晴人」「台所」「母・衣類」。三つ。この家の全財産が段ボール三つに圧縮されている。
自分の箱を一つだけ開けた。制服の替え、教科書、漫画が数冊、使いかけのノート、東京のコンビニでなんとなく買ったままのシャーペン。向こうでの生活を証明する物はあるのに、並べた瞬間どれも今の部屋にしっくりこない。机の上にノートを置いてみて、すぐやめた。まだこの部屋は、俺の机とか俺の棚とか、そういう呼び方を許していない感じがした。
段ボールの底に、中学の時に使っていた定期入れが転がっていた。もう使えないICカードが入っている。東京の路線図を覚えていた頭のまま、さっき無人駅で四十分待った。落差が雑すぎる。定期入れを戻して箱を閉めた。今はもう、あっちの速さを持っていても使い道がない。
カレーを温める。鍋の底からこぽこぽと泡が立ち始めて、スパイスの匂いが台所に広がった。皿に盛って、一人で食べた。テレビはつけない。テレビを置く棚がまだない。窓の外に星が見え始めている。東京では数えるほどだった星が、ここでは手に負えない。市街地のはずなのに星の数が渋滞している。夜風が網戸を揺らして、どこかで犬が一声だけ吠えた。
カレーの味は悪くない。母のカレーは東京でもこっちでも同じ味がする。引っ越しで鍋が変わろうがコンロが変わろうが、じゃがいもの煮崩れ方だけは一定だ。変わらないものがひとつあると、なんとなく座りがいい。
皿を洗って、乾かし台に伏せた。隣には朝のマグカップ。二つ並んだ食器が、この家の住人の全人口を正確に表している。
学校の鞄を開ける。教科書を机に置いて、プリントを揃えて、筆箱を引き出しに入れる。新しい学校の匂いがする。チョークの粉とワックスと紙の匂い。その中に、ほんの少しだけ、今日の廊下の風の匂いが混ざっている気がした。思い出したのは、椎名の肩に乗った桜の花びらだった。
持ち物リストを何気なく裏返す。端っこに、すごく小さい字が一行だけ増えていた。
『購買のコロッケパンは朝じゃないと消える』
昨日までなかった注意書きだ。印刷じゃない。手書き。丸い字。椎名の字だ。
わざわざ裏に書くな。表に書け。いや表に書いたら公式情報みたいになるのか。学級委員の連絡事項にコロッケパンの生存率を混ぜるのはさすがにまずい、と理性が止めたのかもしれない。
字は小さいのに、妙に真面目だった。「購買」の二文字だけ少しだけ筆圧が強い。どうでもいい伝言じゃなく、ちゃんと伝えるべきこととして書いてある。登校初日の持ち物より、コロッケパン確保の方が切実だった可能性がある。価値基準が読めない。
でも、登校初日の持ち物リストの裏に、購買のおすすめだけこっそり足してくる神経はよく分からない。親切なのか。食への信仰なのか。たぶん両方だ。
思わず笑った。声は出なかったけど、口元は完全に緩んでいた。
取ればよかった、と思って、いや別に取らなくてよかっただろ、とすぐ打ち消す。登校初日から肩の花びらを取る男は距離感を間違えている。正解だ。たぶん。
部屋に戻る。天井を見た。まだ自分の匂いがしない部屋。壁のクロスが妙に白い。段ボールの隅から漫画の背表紙がはみ出しているが、本棚がないから出せない。しばらくはこの箱詰め状態が続く。
——椎名千沙。たぬきの話をする学級委員。
指先の冷たさを思い出す。透けた瞳を思い出す。振り返った瞬間の、言葉を探していた顔。
巣穴に慣れるまで三日間。あれは俺に向けた言葉だったのか、自分自身に向けた言葉だったのか。
たぬきの三日間が何のことかは、まだ分からない。
鹿沼の一日目が、もう終わる。




