秘奥
門の向こうは、ひんやりしていた。
外の湿った熱気が嘘みたいに、空気が石の匂いに塗り替わる。苔と土、そしてどこか金属が錆びたような匂いが混ざっていた。
壁の溝に埋め込まれた結晶のようなものが、弱い青白い光を滲ませている。松明も火もないのに、遺跡は自分で呼吸するみたいに淡く明るかった。
「便利だろ?」
フェルが肩をすくめる。軽口なのに、声だけは妙に響いた。
床に、細い線が走っている。石の継ぎ目――いや、違う。意図して刻まれた溝だ。模様のようにも見えるが、目で追うほど規則的で、どこか誘導されている感覚があった。
ティリルが壁の文字列に指を当てる。
「……これ、道しるべに近いわ」
「読めるの?」
俺が聞くと、彼女は小さく首を振った。
「完全に、分からない。でも、意味の流れがある。『進む』『戻る』『触れるな』……そんな感じ」
触れるな。背筋が少しだけ硬くなる。
スイが前を行く。足取りが迷いなく、呼吸すら一定だった。彼は振り返らずに言う。
「足元。踏むな」
「何を?」
「線の交差点」
言われて改めて見ると、溝は所々で交差している。交差点だけ、石の色がほんの少し違う。濡れているような、黒ずんだような。
通路は緩やかに下っていく。階段ではない。地面が地の底へ滑り落ちるように傾いている。古代都市が地上ではなく、地面の下に広がっているのを感じた。
スクレは、少し後ろを歩いていた。白布が視界の端で揺れる。何も喋らないが、距離だけは一定で、俺が遅れると同じだけ遅れた。
やがて通路が開けた。
広場と呼ばれるであろう空間が現れる。
天井は高く、丸いドーム状になっていて、そこから垂れ下がる蔦が雨みたいに揺れている。石畳の中心には、半分崩れた噴水のような円形の構造物があった。
噴水は枯れている。だが水の跡だけは残っていて、石に刻まれた溝が川のように伸びている。
その先には、建物が並んでいた。建物、というより、街だ。
石の家々が連なり、柱が並び、崩れたアーチが道を作っている。ジャングルに呑まれた遺跡の“入口”とは違う。ここは、都市の“中心”に近い。
俺の胸が、久しぶりに高鳴った。この感覚だ。世界が広がる感じ。未知に足を踏み入れる感じ。
「……すげぇ」
言葉が勝手に漏れる。
フェルが笑った。
「その顔。やっと旅人っぽい」
ティリルも微笑む。
「ここは、冒険心が似合う場所ね」
だがスイは、広場の端にある石柱の影をじっと見ていた。
「喜ぶのは後にしろ」
声が低い。
「ここは“生きてる”」
「生きてる?」
俺が聞き返す前に、スイが拾った小石を床へ投げた。
カン、と乾いた音。
次の瞬間、石畳の一部が沈んだ。
ガコン、と内部の歯車が噛むような音が遺跡全体に響く。
遅れて、空気が動いた。
壁の穴から、矢が飛んできた。一本、二本じゃない。雨のように、一直線に。
俺は反射で身を引く。矢は広場の中央を横切り、噴水跡の石に突き刺さった。矢尻は黒く、艶がない。毒かもしれないと思った瞬間、喉が乾いた。
「な……っ」
フェルは軽く手を上げている。まるで、予想していたみたいに。
「見せといた方がいいと思ってさ」
ティリルが小さくため息を吐く。
「フェル、タイミング!」
「ごめんごめん」
謝っているのに、悪びれた様子がない。
スイが俺を見た。
「だから踏むなって言った」
「……あ、あぁ」
俺は、ようやく頷く。
スクレが噴水跡へ近づいて、矢を一本抜いた。手袋越しに触っているのに、慎重だった。矢を軽く振り、耳を澄ませるようにしてから、また元の穴へ戻す。
「……まだ、仕掛けが生きてる」
小さな声。
「でも、規則がある」
ティリルが頷く。
「罠は、無秩序じゃない。守るべきものがあるから」
守るべきもの。その言葉が、胸の奥をくすぐった。
宝物庫。秘宝。封印。子どもの頃、夢中で読んだ冒険譚の匂いがする。
広場から伸びる道は四本あった。石のアーチが、四方向へ通路を作っている。
「中心へ行くには、どれか一つが正解」
「正解って?」
「外れは……まぁ、面倒」
面倒の言い方が軽すぎて、余計に怖い。
ティリルが壁の刻印を見る。
「こっち」
彼女が指した道には、石の床に“波”の模様が刻まれていた。噴水跡から伸びる溝と、同じ形をしている。
俺たちはそこへ入る。
通路は狭く、天井が低い。蔦が垂れていて、肩に触れる。湿った葉が服に張り付く。足元は石なのに、ところどころ苔で滑った。
しばらく進むと、床の模様が変わった。
波の模様が、突然途切れる。代わりに、細かな四角形のタイルが敷き詰められている。
スイが立ち止まる。
「ここ、来るな」
彼は足元を睨んでいる。
一見、普通のタイルだった。だが、微妙に高さが違う。ほんの一ミリ程度。違いが分からなければ踏んでしまう。
フェルが、口笛でも吹きそうな顔をしている。
「床抜けだなぁ」
「そんな軽く言うな」
スイが言うと、フェルは肩をすくめた。
「落ちても死なないって言いたいところだけど、保証はできない」
ティリルが睨む。
「余計なこと言わない」
スイが短く命令する。
「真司、俺の足跡だけ踏め」
スイが、ようやく俺の名前を呼ぶ。
彼はゆっくり、確かめるように足を置いた。踏んだタイルは沈まない。次へ、また次へ。
俺はその足跡をなぞる。心臓がうるさい。ほんの少しでもズレたら、床が抜ける。その事実だけで、喉が渇く。汗が背中を流れる。
途中で、わざとらしいほど“綺麗なタイル”があった。色が少し明るくて、傷がない。踏みたくなる。罠の匂いがした。
スイはそこを避けた。俺も避けた。直後、その綺麗なタイルの隙間から、細い刃がスッと出た。刃は一瞬で引っ込み、何事もなかったように静かになる。
「見てないと踏むな、これ」
俺が呟くと、フェルが笑う。
「罠ってのは、人間の“癖”を狙うからね」
ティリルが小さく頷く。
「焦り、油断、欲」
そのまま進み、タイル地帯を抜ける。
すると、扉が現れた。
石の扉。高さは三メートル以上。中央に、円形の窪みがある。窪みの周囲には、星みたいな模様と、波の模様、そして――見覚えのない文字。
スクレが扉の前に立つ。白布の奥で、息を吸う気配がした。
「スクレ、いけるか」
スクレは一度だけ頷いた。そして、扉の窪みに手を当てた。
触れた瞬間、窪みが淡く光る。青白い光が、波紋のように広がった。
扉の文字が、ひとつずつ点灯する。
歯車の音。遺跡の奥で何かが回る音。そして、石の扉がゆっくりと開いた。
重たい音を立てながら、左右へ滑るように割れていく。
扉の向こうは、広い。いや、広いなんてもんじゃない。
巨大なホールだった。
天井はさらに高く、壁には幾重にも棚のような段差があり、そこに石の箱が並んでいた。箱の表面には刻印があり、薄い金属の縁取りが残っている。
宝物庫。
俺はそう思った。
空気が違う。乾いている。外の湿気が嘘みたいに、ここだけ別世界の匂いがする。
フェルが、少しだけ声を落とす。
「……ここは、良い」
軽い男の声が、初めて重く聞こえた。
ティリルは慎重に歩き出す。
「触らないで。順番がある」
「順番?」
俺が聞くと、彼女は棚の段差を見上げた。
「上からじゃない。真ん中でもない。――“中心”」
ホールの中心に、台座があった。
噴水跡のように円形で、そこだけ床の模様が密度を増している。波の溝と星の模様が、絡み合い、渦を作るように中心へ吸い込まれていた。
その中心に、黒い球体が浮かんでいた。表面の紋様が鮮明で、脈打つ光がはっきり見える。
宝物庫の中心にあるそれは、宝物というより、心臓みたいだった。
「これが“残骸”?」
俺が言うと、フェルは笑わない。
「そう、都市の核」
ティリルが続ける。
「ここは昔、地上の流れを整えるために作られた。水、風、熱、命――全部を“循環”させる仕組み」
「循環……」
スイは球体を睨んでいる。その目が、俺には怒りに見えた。
「……止める」
短く、決意みたいに言った。
スクレは、少しだけ後ろに下がった。白布が揺れる。怖がっているのか、耐えているのか、分からなかった。
冒険心があった。宝物庫に胸が躍った。罠を抜けた達成感もあった。でも今、目の前にあるものは、盗ってはいけないものに見えた。
フェルが、器具を取り出す。
「真司、見ておいて」
「俺が?」
「うん。君が“見届ける”役」
フェルが球体へ器具を当てる。
キィン、と高い音が鳴った。耳の奥が痺れる。空間が震え、ホールの棚の箱が一斉に微かに揺れた。
ティリルが呟く。
「……まだ、守りがある」
次の瞬間、床の溝が光った。
波の模様が、流れるように点灯していく。中心から外へ、外から中心へ。呼吸みたいに。
俺は足元が勝手に動いた感覚を覚えた。
床が、回っている。円形の床が、ゆっくり回転し始めた。立っているだけでバランスが崩れる。踏ん張ろうとした瞬間、足元の一部が沈んだ。
「うわっ!」
俺は倒れそうになるが、スイが腕を掴んで引き戻した。
「立つな。膝を落とせ」
言われた通りに膝をつく。床の回転が少しだけ耐えやすくなる。フェルは回転を意に介さないみたいに、中心へ器具を押し込んでいる。
棚の段差から、何かが落ちた。
石の箱が一つ、転がり落ちる。蓋が外れ、中から金属片が散った。次々に、別の箱も揺れる。落ちる。割れる。
宝物庫が、目を覚ましたみたいだった。
ティリルが叫ぶ。
「時間がない!フェル!」
「分かってる!!」
フェルは、笑っていなかった。
スイが周囲を見渡し、低く言う。
「来るぞ」
壁の隙間から、細い鎖が飛び出した。
一本、二本、三本。
蛇みたいに床を這い、俺たちの足へ絡みつこうとする。
スクレが一歩踏み出し、鎖を避けるように動く。白布が翻り、鎖の動きが一瞬鈍った。偶然かもしれない。だが、その一瞬がなければ絡まれていた。
スイが鎖を蹴って弾き飛ばす。
「動くな、真司!」
俺は息を呑む。頭の中で、友香の顔が一瞬よぎった。
――やめろ。今は、考えるな。
フェルの器具が、球体の紋様の中心へ刺さる。
光が、いびつに揺れた。球体の脈動が、乱れる。
ティリルが祈るみたいに目を細める。
「……あと少し」
床の回転が速くなる。膝をついていても体が持っていかれそうだ。ホール全体が、怒っているみたいだった。
スイが、俺の肩を掴む。逃げる準備をしている。
フェルが叫んだ。
「抜けるぞ!」
器具が引き抜かれた瞬間、球体の光が、ぷつんと切れた。
ホールが静まり返った。
鎖が、力を失って床に落ちる。
回転も止まる。
宝物庫は、死んだみたいに沈黙した。
俺は、息を吐くことすら忘れていた。
「……終わったの?」
声が震えていた。
ティリルが小さく頷く。
「終わった。ここは、もう“動かない”」
フェルが、器具を仕舞いながら、俺に言う。
「これで、余計な循環は消えた」
宝物庫の棚は、さっきより少し暗く見えた。光が弱まったような気がした。遺跡が息をしなくなったような。
スイが低く言う。
「帰るぞ。崩れる前に」
「崩れる?」
俺が聞くと、フェルはいつもの軽さを取り戻したみたいに笑った。
「こういうの、止めると拗ねるんだよね。建物って」
冗談みたいに言うが、彼の目は笑っていない。
俺たちは走り出した。
通路へ。タイル地帯へ。矢の広場へ。
戻る道は、来た道より速く、危険だった。
なぜなら、遺跡は今、目を覚ましているのではなく――眠り直そうとしているからだ。 眠りにつくとき、体は大きく動く。
その動きに巻き込まれたら、終わりだ。
俺の胸の中に、冒険の高揚と、言いようのない不安が、同じ重さで残っていた。
それでも足は止まらなかった。
俺たちは、宝物庫の奥で見た“心臓”の死を背に、ジャングルの出口へ向かって走り続けた。




