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忘れても、繋がっている

戻る、と口にした瞬間から、世界は「俺の外側」から順番にほどけ始めた。


音が遠のく。

匂いが薄くなる。

湿り気が消える。

病の谷の苦さが抜ける。


抜けたのに、痛みだけは残る。

足首の痛み。

太腿の張り。

肺の重さ。

喉の乾き。


それがありがたい。


痛いなら、俺はここにいる。

ここにいるなら、帰れる。


角笛を握り直す。

冷たさが骨まで届く。

冷たいのに、指は動く。

動くなら、まだ終わっていない。


境界鍵が、勝手に線を引きたがる。

引きたがる、というより。

線を引く以外に「戻る」という動作を知らないみたいに、冷たい。


俺は線を引く。

引いた線が、世界の輪郭を一つだけ残す。


ここまでが俺。

ここからが、帰還のための空白。


空白は優しくない。

空白はただ、取りに来る。


俺は息を整える。


吸って。

吐いて。


吸って。

吐いて。


整えた瞬間、星辰環の一本の線が、空間の奥に縫い付けられる。

縫い付けられた先に、「中心」の密度が見える。

世界樹。

さっきまで背中にあったものが、今は前にある。


距離じゃない。

段差だ。


俺は段差を越える。

足を出す。

踏む。

踏む。


踏んだはずの地面が、地面じゃなくなる。

境界の硬さになる。

硬さのまま、熱を奪う。

熱を奪われても、震えない。

震えないのは、もう選んだからだ。


戻る、と選んだ。

終わらせる、と選んだ。

その先を引き受ける、と選んだ。


世界が一段、落ちる。


落ちるのに、落下じゃない。

足の裏が、ふっと軽くなる。

軽いのに、浮かない。

浮かないのに、歩ける。


歩けるなら、俺はまだ個体だ。


次に戻るのは、光じゃなかった。

闇でもなかった。


ただ「白さ」だけが、前にあった。


白い。

でも眩しくない。

眩しくないのに、逃げ場がない。


世界樹の根元。

あの“前”。


俺はそこに立っていた。


谷の匂いはない。

森の湿りもない。

サタンの黒さもない。


ないのに、全部が残っている。

残っているのに、触れない。


触れないから、ここは“終わった後”だと分かる。


掌が熱い。

熱いのに、冷たい。

角笛の冷たさがまだ染みている。


神具が、黙っている。


黙っているのに、消えてはいない。

太極図の回転が、胸の奥でまだ遅い。

深海心核の痛みが、まだ沈んでいる。

始原音叉の揃った余韻が、まだ骨の中で鳴っている。


でも。


名前なき神具だけが、妙に軽い。


軽いのに離せない。

離せないのに、握っている感覚が薄い。


薄い。

薄い、という言葉がこの瞬間だけは怖い。


俺は角笛を見下ろして、それから目を上げた。


そこに、光がいた。


純白に身を包んだ女性。

白さが、世界のどこにも属していない白さ。

神々しい、という言葉がようやく役に立つ白さ。


でも、俺はその白さを「怖い」と思わなかった。

怖いのは、あの黒さじゃない。

この白さが、俺から何かを持っていくと知っていることだ。


彼女は俺を見て、ほんの少しだけ微笑んだ。

微笑みは、慰めじゃない。

許しでもない。


見守る、という約束の形だった。


「どこにいても、何をしていても、いつまでもあなたの隣で見守っています。あなたが、私の事を忘れてしまっていたとしても」


言葉が、胸の奥まで真っ直ぐ落ちる。

落ちた瞬間、深海心核がドクン、と鳴って、涙の準備を始める。

準備を始めるのに、涙は落ちない。


落ちないのは、まだ立っていたいからだ。


俺は息を吸う。

吐く。

吸う。

吐く。


「……ありがとう」


声が掠れる。

掠れてもいい。

ここで飾った声を出したら、自分に嘘になる。


彼女は首を振るみたいに、ゆっくり瞬きをした。


「どんな事にも意味があって、それぞれ乗り越える事しか起こらない。君は、絶対に幸せになる」


言われたかった言葉が、今さら来る。

今さらなのに、遅くない。

この言葉は遅れるために存在していたみたいに、ぴったりの場所に落ちる。


俺の胸の奥が、じん、と熱を持つ。

熱を持ったまま、痛む。

痛むのに、折れない。


「友香のためにも」


俺は、そう言った。

誰に言ったのか分からない。

多分、自分にだ。


彼女の目が、ほんの少しだけ揺れた。

揺れたのに、壊れない。

壊れない揺れは、強さだと俺は知っている。


空気のどこかで、音が鳴り始めた。


鎮魂歌。


響くのに、耳で聞く音じゃない。

骨の奥の水に触れて、そこを揺らす音。

揺らされると、泣きたくなる。

泣きたくなるのに、立っていられる。


「……レティ、また会えるかな」


言った瞬間、俺は自分の声に驚いた。

“レティ”という名前が、今の白い彼女には似合わないと分かっている。

分かっているのに、口は勝手に呼んだ。

呼んでしまった。

呼んだら、戻れなくなる気がした。


でも、彼女は否定しなかった。


「はい。会えますよ、私とあなたは繋がっているのですから」


根拠のない抽象的な言葉。

なのに、世界の真理みたいに重い。


俺は少しだけ目線をずらす。

見てしまうと、今の俺が壊れる気がした。

壊れたくない。

壊れたら、帰れない。


「会った時、俺……覚えているかな」


言った瞬間、名前なき神具が掌の中で、ふっと軽くなった。

軽くなって、薄くなる。

薄くなるのに、もう怖くない。


怖くないのは、俺がさっき選んだからだ。

戻るために、終わらせるために。

戻るには、代償が必要だと知っているからだ。


彼女は笑った。

笑いは、泣きそうな笑いじゃない。

大丈夫だ、と言う笑いだった。


俺は、角笛を胸に当てたまま、もう一度息を整える。


吸って。

吐いて。


吸って。

吐いて。


その呼吸の隙間に、もう一つ気配が差し込む。


スイ。


白い炎の気配。

形じゃない。

でも、確かにそこにいる。


俺は言った。


「スイもありがとう。次会えるのが、いつか分からないけど」


白い炎が、揺れる。


「いつまでもお待ちしております。貴方の息子として」


その言葉が落ちた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。

縮むのに、温かい。


温かいのは、別れが確定したからだ。


確定は、痛い。

でも、痛いから進める。


鎮魂歌が、さらに深くなる。

深くなるほど、世界が眠りの底に沈んでいく。

眠りの底に沈むのに、俺は眠らない。


眠らないまま、失っていく。


最初に薄くなるのは、色だ。

次に薄くなるのは、匂いだ。

次に薄くなるのは、温度だ。


最後に薄くなるのは、名前だ。


サタン。

神具。

夢の世界。

友香。

レティ。

スイ。


全部が、輪郭から順に剥がれていく。

剥がれていくのに、抵抗しない。

抵抗したら、戻れない。

戻れないのが一番怖い。


俺は最後に、白い彼女を見た。

見た瞬間、視界が滲む。

滲むのに、涙は落ちない。


「……帰る」


声に出した瞬間、彼女は頷いた。

頷きだけで十分だ。

言葉があると、抱きついてしまう。

抱きついたら、戻れなくなる。


鎮魂歌が、ふっと遠のく。


遠のいた代わりに、生活の音が近づく。


遠くで、電子音が鳴る。

規則的で、淡々としていて、現実にしかない音。


目覚まし。


俺は眉を寄せる。

まぶたが重い。

重いのに、開けられる。


開ける。


天井がある。

少しだけシミのある白い天井。


カーテンの隙間から、朝の光が四角く落ちている。

部屋の角に冬の冷えが溜まっている。

布団が温かい。

温かいのに、胸の奥が変に冷たい。


俺は手を握って、開いて、もう一度握る。

指は動く。

爪が掌に当たる。


その感触だけが、やけに確かだ。


胸の奥に、沈みが残っている。

名前のない沈み。

理由のない沈み。


でも、沈みの底に、何かがある気がする。

何かがあった気がする。

掴もうとして、指が空を切る。


俺は深呼吸する。


吸って。

吐いて。


吸って。

吐いて。


息を整える癖だけが、残っている。


目覚ましを止める。

止めた瞬間、部屋が静かになる。


静かになったのに、胸だけがうるさい。


俺は天井を見たまま、ぼんやり思う。


どんな夢を見ていたのだろう

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