崩壊に鎮魂歌を
言い切った瞬間、空気の密度が一段変わった。
変わったのは世界じゃない。
俺の中の「揺れ方」だ。
勝つためじゃない。
倒すためじゃない。
終わらせる。
戻る。
そのために、選ぶ。
俺は一歩踏み出す。
踏み出した足裏が、粘りを踏む。
ぬるり、と滑る感触が遅れて来る。
遅れて来ても、膝は折れない。
折れないように、腰を落とす。
太腿に力が入る。
痛い。
痛いから、現実だ。
サタンの黒さが、俺の動きを見ている。
見ている、というより。
俺が「何を選ぶか」を量っている。
刃の冷たさが、じわ、と近づく。
近づくほど、意味が薄くなる。
俺の言葉の輪郭が削られようとする。
削らせない。
俺は境界鍵を握る。
冷たい線が、指の骨を貫く。
ここまでが俺。
ここからが削る側。
線は溶ける。
溶けるたび、引き直す。
引き直すたび、俺が俺のままになる。
始原音叉が、……ィィン、と鳴る。
鳴った瞬間、空間の揺れが揃う。
揃うだけで、世界は落ち着かない。
落ち着かないからこそ、揃える意味がある。
太極図が回る気配がする。
回るのは図じゃない。
「因果の向き」だ。
俺に向かって来る斬撃の意味が、ほんの少しだけ横にズレる。
ズレた。
だから、避ける余地が生まれる。
俺は避けない。
避ける余地を、踏み込むために使う。
星辰環が、一本の線を濃くする。
濃い線の先に、黒さの「継ぎ目」が見える。
弱点じゃない。
ただ、そこだけが「繋ぎ直されている」場所だ。
繋ぎ直す、ということは。
そこに「意志」が介在している。
意志があるなら、歪められる。
原初火が背中でトク、と鳴る。
温度が上がる。
怒りが燃える。
燃えるのに、暴走しない。
暴走しないために、深海心核がドクン、と打つ。
感情が濃くなる。
濃い感情は痛みになる。
痛みは、俺を「単方向」にしない。
俺を「俺のまま」にする。
サタンが動く。
動いた瞬間、黒さが「圧」になる。
圧じゃない。
存在の重さが、俺の中心を潰しに来る。
胸が苦しい。
肺が重い。
喉が渇く。
唾を飲む。
落ちる場所はない。
でも、飲むという行為が俺の輪郭を守る。
体は疲労する。
太腿が張る。
足首が痛む。
肩が重い。
その全部がありがたい。
疲労がある限り、俺は個体だ。
個体である限り、選べる。
俺は踏ん張る。
地に足を付ける。
力を入れて踏ん張る。
踏ん張った瞬間、筋肉が悲鳴を上げる。
悲鳴は声にならない。
でも、熱として伝わる。
熱が俺を支える。
サタンの声が落ちる。
「――まだ、抗うか」
抗う。
その言葉は嫌だ。
抗っているだけなら、終わりがない。
終わりがない戦いは、サタンの庭だ。
俺は、息を整える。
吸って。
吐いて。
吸って。
吐いて。
肺の重さが、少しだけ自分のものになる。
重さが自分のものになると、恐怖が「外」にならない。
外に出した恐怖は、俺を薄くする。
薄くなると、戻れない。
俺は言う。
「抗うんじゃない」
一歩。
「戻るんだ」
もう一歩。
「守るんだ」
もう一歩。
サタンの黒さが、笑止千万、と言いたげに揺れる。
揺れただけで、空気が削れる。
削られるのに、俺の足は止まらない。
俺は角笛を握り直した。
角笛の冷たさが、掌の骨まで染みる。
冷たいのに、重い。
重いのに、持てる。
持てるなら、俺はまだ人間だ。
ギャラルホルンを吹いた。
呼んだ。
呼んだ音は、まだこの空間に残っている。
残っているなら、もう一度吹く必要はない。
今は「呼び出したものを、どう使うか」だ。
俺は角笛を下げたまま、目を逸らさずに言う。
「このゴミ同然の世界を作り変えてやるのだ。感謝しろ」
サタンの台詞を、俺の喉で言い直す。
言い直した瞬間、怒りが燃える。
燃えるのに、飲まれない。
飲まれないまま、俺は続ける。
「……お前が言った言葉だ」
サタンの黒さが僅かに濃くなる。
濃くなるのは、刺さった証拠だ。
刺さるはずがない。
刺さるのは、俺が「同じ言葉を別の意味にした」からだ。
俺は吐き捨てるみたいに、でも、揺らがずに言う。
「お前がゴミだという世界を愛している。だから、戦うんだ!!」
言い切った瞬間、深海心核がドクン、と大きく打つ。
胸の奥が痛い。
痛いのに、折れない。
痛みが、俺の核を固定する。
サタンの黒さが、一斉に伸びる。
伸びた黒さが、俺の腕を、足を、喉を、輪郭ごと削りに来る。
削られるのに、痛くない。
痛くないから怖い。
怖いから、息を整える。
吸って。
吐いて。
吸って。
吐いて。
整えた瞬間、始原音叉が鳴る。
位相が揃う。
揃った「俺」の輪郭は、削られながらも崩れない。
崩れないなら、踏み出せる。
タラリアの風が、足元に透明な床を編む。
床は薄い。
薄いのに、確かにある。
薄い床は、俺の「進む」という選択を支えるためにある。
俺は踏む。
踏んだ瞬間、病の谷の粘りが最後に足を奪いに来る。
ぬるり、と滑る。
足首が捻れそうになる。
捻れそうになる瞬間、俺は膝を曲げる。
腰を落とす。
地に足を付ける。
力を入れて踏ん張る。
踏ん張った足首が痛む。
痛い。
痛いから、俺はここにいる。
ここにいるなら、終わらせられる。
星辰環の一本の線が、俺の視界の中心に落ちる。
落ちた線の先に、黒さの「継ぎ目」がある。
そこに向けて、俺は境界鍵を引く。
引く。
冷たい線が走る。
線が走った瞬間、黒さが線の下から滲む。
滲むなら、太極図で捻る。
捻って、滲みの向きを変える。
サタンの刃が来る。
来るのが分かる。
分かっているのに、避けない。
避けるんじゃない。
俺は「置く」。
境界鍵で線を置く。
始原音叉で揃える。
大釜で生命のリズムを叩く。
深海心核で痛みを抱く。
原初火で恐怖を燃料に変える。
全部を同時にやる。
同時にやった瞬間。
世界が、ほんの少しだけ息をした。
息をした隙間で、俺は言葉を叩き込む。
「人知が及ばない境地だということは百も承知。だが、それで俺が諦める要因にはならない!」
叩き込んだ言葉が刃になる。
刃になった言葉が、意味を削る黒さに刺さる。
刺さった黒さが、初めて「痛み」の気配を出す。
痛みの気配だけで十分だ。
痛みがあるなら、そこは個体だ。
個体なら、境界を引ける。
境界を引けるなら、終わらせ方を選べる。
サタンが、笑止千万、と言いかける。
言いかけた言葉が薄くなる。
薄くなるのは俺が奪ったからじゃない。
世界が、今だけ俺の側に揃ったからだ。
俺は、踏み出す。
最終の距離は距離じゃない。
選ぶかどうかだ。
俺は選ぶ。
「終わりじゃない」
小さく。
でも、はっきり。
そして、俺は角笛を持ち上げないまま、角笛の冷たさを掌の中で握り潰すみたいに、意志を固める。
呼んだ。
繋いだ。
なら、次は「鎮める」。
崩壊しつつある世界に、どうか鎮魂歌を。
その言葉が、俺の胸の奥で形になる。
祈りじゃない。
命令でもない。
これは「やること」だ。
サタンの黒さが、最後の重さを落とす。
圧が増す。
肺が潰れる。
視界が揺れる。
足が震える。
唇が震える。
震えは恐怖じゃない。
守りたいが残っている証拠だ。
俺は深呼吸する。
心を平穏に保つ。
吸って。
吐いて。
吸って。
吐いて。
そして、思い出す。
母の手の冷たさ。
玄関の灯り。
「帰ってきなさい」
おじいちゃんの手の重さ。
「応援しているから、頑張って」
こんな俺にも、頑張ってと応援してくれる人が居る。
その揺るぎない事実だけで、何度も立ち上がることが出来る。
俺は、立っている。
足が痛い。
肺が重い。
喉が乾く。
全部、現実だ。
現実だから、俺は折れない。
「根拠のない揺るぎない自信を、手に入れた俺は無敵になった」
俺は言った。
言った瞬間、無敵になるのは体じゃない。
選び方だ。
俺はサタンに向けて、最後に言う。
「お前には、その世界を扱えない」
サタンの黒さが揺れる。
揺れるのは怒りじゃない。
理解だ。
俺が「終わらせ方」に到達したことへの理解。
俺は続ける。
「お前がゴミだと言った世界を、俺は最後まで愛する」
サタンの黒さが、僅かに細る。
細るのは弱ったからじゃない。
世界の前提が、剥がれたからだ。
俺は、踏み出す。
踏み出した足裏が、粘りを踏む。
滑る。
でも倒れない。
踏ん張る。
踏ん張った瞬間。
角笛が、掌の中で微かに震えた。
二度目は吹かない。
吹くのは音のためじゃない。
俺が今、必要なのは「音」じゃなく「余韻」だ。
俺は角笛を、胸の前に当てる。
口じゃない。
胸だ。
胸の核に、冷たさを当てる。
冷たさが核を締める。
締めると、散らばらない。
散らばらないなら、終わらせられる。
俺は吐く。
吐いた息は白くない。
白さも冬もない。
それでも、吐ける。
吐けるなら、終わらせられる。
俺は、境界鍵を前に出す。
線を引く。
引いた線の上に、太極図の回転が重なる。
捻れた因果が、黒さの「意味」をほどく。
ほどけた意味は、刃になれない。
刃になれないなら、世界を削れない。
始原音叉が、……ィィィン、と高く鳴る。
揃う。
揃った俺が、揃った世界に触れる。
大釜が、ドン、と鳴る。
生命のリズムが、世界側にまで広がる。
広がった瞬間、黒さが「生」を飲めなくなる。
深海心核が、ドクン、と鳴る。
悲しみも怒りも愛も、全部が濃くなる。
濃いまま、俺の中心に沈む。
沈むから、ブレない。
原初火が、トク、と鳴る。
燃える。
燃えるのに、壊さない。
燃えるのは「止まる理由」だけだ。
そして、名前なき神具が、掌の奥で希薄に笑った。
笑った気がした、じゃない。
確かに笑った。
それは、俺が選んだからだ。
終わらせ方を。
俺は最後に、静かに言った。
「終わりだ」
サタンの黒さが、止まる。
止まるのに、消えない。
消えないのに、世界を削れない。
削れない黒さは、ただの「在る」になる。
在るだけの黒さは、支配になれない。
支配になれないなら、退くしかない。
サタンは、笑った気配を残して、退いた。
消滅じゃない。
死でもない。
敗北でもない。
ただ「この世界では、もう削れない」と理解して退いた。
それが、俺の勝ち方だった。
勝ったのに、膝が笑いそうになる。
足首が痛い。
肺が痛い。
喉が痛い。
全身が痛い。
痛い。
痛いから、俺は生きている。
俺は息を整える。
吸って。
吐いて。
吸って。
吐いて。
その癖だけが、最後まで残る。
残るから、俺は俺だ。
空気が、少しだけ軽くなる。
病の谷の匂いが薄くなる。
深い沼の嘆きの森の湿り気が遠のく。
代わりに、世界樹の密度が、遠くで静かに脈打つ。
終わった。
終わったのに、終わっていない。
終わらせたのは、サタンとの決戦だけだ。
これから、俺は「戻る」をやらないといけない。
戻るために、代償が来る。
代償は、痛みじゃない。
疲労でもない。
血でもない。
もっと静かで、もっと残酷なものだ。
名前なき神具が、掌の中で、ふっと軽くなる。
軽くなるのに、離せない。
離せないのに、握っている感覚が薄くなる。
薄くなる。
薄くなるのに、怖くない。
怖くないのは、もう選んだからだ。
俺は角笛を見た。
冷たい。
冷たいのに、温かい。
矛盾が、今は救いだ。
「……帰る」
言った瞬間、世界が少しだけ遠のく。
音が薄くなる。
色が薄くなる。
距離が薄くなる。
薄くなるのに、俺の中心だけが濃い。
濃い中心に、母の声が残る。
「帰ってきなさい」
おじいちゃんの手の重さが残る。
「応援しているから、頑張って」
その二つを、胸の核に沈める。
沈めると、消えない。
消えないなら、戻れる。
俺は息を整える。
吸って。
吐いて。
吸って。
吐いて。
そして、世界が、また一段落ちる気配がした。
落ちる。
でも落下じゃない。
帰還のための、切り替えだ。
俺は目を閉じる。
最後に、心の中でだけ言った。
崩壊しつつある世界に、どうか鎮魂歌を。
その言葉が消える前に、俺は確かに歩き出した。
戻るために。




