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帰るための決戦

角笛の冷たさは、掌の骨まで染みていた。


握ったまま歩くと、重さの意味が少しずつ変わる。

物の重さじゃない。

「戻る」と決めた意志の重さだ。


道は、道らしくない。

舗装もない。

標もない。

ただ、進めるという事実だけが、先にある。

進めるから歩く。

歩けるから、まだ俺は個体だ。


湿り気が濃くなる。

腐葉土の匂いが鼻に張り付く。

水の匂いが混ざる。

冷たさが、冬の冷たさじゃなくなる。

深さの冷たさ。

底がある冷たさ。


深い沼の嘆きの森。


名前の通り、空気が泣いているみたいだった。

音はない。

でも、湿った葉が擦れるたび、胸の奥が微かに沈む。

沈むのに、落ちない。

落ちないのは、息を整えているからだ。


吸って。

吐いて。

吸って。

吐いて。


靴の裏が、ぬるりと滑る。

土じゃない。

土のふりをした、粘りだ。

足首が少しだけ取られる。

取られた瞬間に、膝の筋肉が勝手に締まる。

痛い。

痛いのに、ありがたい。

痛みは嘘をつかない。

痛みがあるなら、俺は現象じゃない。


枝が頬を掠める。

冷たい水が葉から落ちて、首筋に触れる。

ぞくりとする。

ぞくりとしたまま、俺は襟を直す。

現実の動作が、ここでも役に立つ。

生活の癖が、俺の輪郭を守る。


歩く。

踏む。

抜く。

踏む。

抜く。


沼は、足を奪うんじゃない。

足を「忘れさせよう」としてくる。

どこに力を入れればいいか。

どこに体重があるか。

そういう当たり前を、薄くしてくる。


だから俺は、毎歩、確かめる。

足裏のどこが沈んだか。

踵が残っているか。

つま先が生きているか。


確認するたび、胸の核が少しだけ濃くなる。

濃くなると、方向がまっすぐになる。


深海心核が、ドクン、と打つ。

ノイズが流れ込む。

誰かの悲鳴。

誰かの諦め。

誰かの祈り。

波じゃない。

潮だ。

潮が満ちて、俺を引く。


引かれるのに、足を止めない。

止めたら、薄くなる。

薄くなると、戻ってしまう。

戻るという言葉を、今は違う意味で使いたい。


角笛が、微かに震えた。

震えは音にならない。

でも「近い」と分かる。


森の奥が、開ける。


開けた場所は、空がない。

空がないのに、暗くない。

上が存在しているのに、上という概念が薄い。

視界の中心だけが濃い。


そこに、谷の匂いが混ざっていた。


病の谷。


空気が苦い。

湿り気が重い。

吸った瞬間、喉の奥がざらつく。

肺が少しだけ拒む。

拒むのに、吐ける。

吐けるなら、進める。


一歩目で分かる。

ここは、疲労が増える場所だ。

増えるというより、体の「余裕」を削る場所だ。


肩が重くなる。

背中が張る。

太腿がじわじわ痛む。

足首の関節が固くなる。

汗は出ないのに、皮膚が熱い。


原初火が、背中の奥でトク、と打つ。

前へと言う。

でも、押しすぎると単方向になる。

単方向は、俺を俺じゃなくする。


境界鍵を握り直す。

冷たい線で、俺を縛る。

縛ることで自由が戻る。

矛盾が、今は助けになる。


谷の底へ降りるほど、匂いが濃くなる。

鉄みたいな匂い。

薬みたいな匂い。

吐き気に近い匂い。

鼻の奥が痛む。


俺は息を整える。


吸って。

吐いて。

吸って。

吐いて。


大釜が、胸の奥でドン、と鳴る。

生命のリズムが戻る。

戻るたび、俺は自分の輪郭を取り戻す。

取り戻すほど、また溶けかける怖さが分かる。


名前なき神具が、掌で希薄に脈打つ。

溶かそうとする。

「全部ここだ」と言いたがる。


だから俺は、指に力を入れた。


「俺は、俺だ」


言う。

言うと、痛みが自分のものになる。

怖さが自分のものになる。

選び方が自分のものになる。


谷の奥で、空気が刃になる。


あの冷たさだ。

氷じゃない。

刃の冷たさ。


来ている。


俺は立ち止まらないまま、角笛の位置を掌で確かめる。

口をつけるためじゃない。

握るためだ。

握って、持つためだ。

持てるなら、俺はまだ人間だ。


谷のさらに奥。

音が薄い。

色が薄い。

距離が薄い。


そして、そこだけ濃い。


黒さが、周囲を食っている。

黒い影じゃない。

黒さの概念そのものが、意味を削っている。


サタンが、待っていた。


待っている、という言葉すら優しい。

ここでは、待つことが支配だ。

時間を持っている側の余裕だ。


視線が刺さる。

刺さるのに痛くない。

痛くないから怖い。


俺は一歩、前に出た。

踏み出した感覚は遅れない。

今の俺は、俺だ。

薄くならない。

薄くさせない。


サタンの声が落ちる。


「このゴミ同然の世界を作り変えてやるのだ。感謝しろ」


傲慢な口ぶり。

傲慢という言葉が軽いくらい、冷たい。

胸の奥で、怒りが熱を持つ。

唇が、震える。


でも震えているのは恐怖じゃない。

「守りたい」が残っている証拠だ。


俺は、歯を食いしばったまま言う。


「人知が及ばない境地だということは百も承知。だが、それで俺が諦める要因にはならない!」


声は掠れる。

掠れてもいい。

ここでは飾った声が嘘になる。


サタンが、わずかに笑った気配を出す。

気配だけで、空気が削れる。


「お前には、その剣を扱えない。戦ってこなかったお前に、何が出来るというのか」


剣。

言葉が、俺の記憶を引きずり出す。

俺の掌が熱い。

神具が、息をする。

太極図が回る気配。

星辰環が一本の線を濃くする。

始原音叉が、……ィン、と鳴って位相を揃える。

境界鍵が、冷たく線を引く。


俺は言う。


「お前がゴミだという世界を愛している。だから、戦うんだ!!」


言った瞬間、深海心核がドクン、と強く打つ。

感情が濃くなる。

濃くして逃げ道を塞ぐ。

塞がれた感情は痛みになる。

痛みは俺を折らない。

痛みは俺を立たせる。


サタンの声が落ちる。


「笑止千万」


その言葉で、空間が一段冷える。

谷の匂いが薄くなる。

代わりに、意味が薄くなる。

俺の言葉の意味を削ろうとする。


削られる前に、俺は息を整える。


吸って。

吐いて。

吸って。

吐いて。


息を整えるたび、俺の核が沈む。

沈むのに消えない。

消えないから折れない。


サタンが動く。


動いたというより、世界の「前提」がずれる。

俺の足元の硬さが、少しだけほどける。

重力が薄くなる。

距離が薄くなる。

薄くなると、踏み外す。


俺は踏み外さない。

タラリアの風が、足元に透明な床を編む。

編まれる抵抗が、足裏を救う。

救われると、次の一歩が出る。


サタンの黒さが伸びる。

伸びた黒さが、俺の輪郭を削る。

削るのに痛くない。

痛くないから怖い。


境界鍵を握り直す。

冷たい線が走る。

ここまでが俺。

ここからが世界。

線を引くたび、黒さが線の下から滲む。


滲むなら、揃える。


始原音叉が、……ィィン、と鳴る。

位相が固定される。

俺が俺である周波数に縫い留める。


サタンが腕を振る。


刃は見えない。

でも「斬られた」と理解できる冷たさが来る。

来た瞬間、太極図が回って、斬撃の意味をズラす。

ズラされた斬撃は、俺の横を通り過ぎるだけになる。

通り過ぎた後、遅れて皮膚が痛む。

薄い切れ目。

血が滲む。

滲むのに、深くない。


痛い。

痛いから、俺は笑いそうになる。


「……効く」


誰に言ったのか分からない。

多分、自分にだ。


サタンが近づく。

距離じゃない。

認識が近づく。


近づいた瞬間、星辰環の航路が一本だけ濃くなる。

濃い一本の線の先に、刃の冷たさの「隙」が見える。


天命書が重くなる。

確定を書きたがる。

でも今は書かない。

確定を急げば、「俺」が曖昧なまま固定される。


俺は選ぶ。

今は、選び方を守る。


原初火が背中でトク、と打つ。

止まる理由を焼こうとする。

焼かせない。

焼きすぎると、俺は単方向になる。


だから、深海心核で痛みを抱く。

痛みを抱いたまま、足を出す。


踏む。

踏む。

踏む。


距離が消える瞬間に、俺は角笛を持った手を前に出した。

武器としてじゃない。

「呼ぶため」に。


サタンの黒さが、角笛に触れようとして止まる。

止まった、というより。

黒さが、わずかに警戒する。


俺は理解した。

これは器だ。

音のための器。

呼べば応じる。

呼ばなければ、ただの形。


俺は口をつけない。

まだ吹かない。

今吹けば、確定が走る。

確定が走れば、何かが一つに固定される。

固定される前に、俺はもう一度、息を整える。


吸って。

吐いて。

吸って。

吐いて。


サタンが嗤う気配を強める。


「――お前は、一人で来る」

「――一人で、壊れる」

「――一人で、選べ」


俺は、笑った。


声は出ない。

でも確かに笑った。


「選ぶのは、俺だ」


言った瞬間、名前なき神具が掌で希薄に反応する。

笑った気がした。

錯覚かもしれない。

でも、俺が折れていないと認識された。


サタンの黒さが、今度は「重さ」になる。

重さで俺を潰しに来る。

圧じゃない。

存在の重さで、俺の存在を薄くする。


胸が苦しい。

肺が重い。

喉が乾く。

唾を飲む。

胃に落ちた感覚はない。

それでも、体は疲労する。

太腿が張る。

足首が痛む。

肩が重い。


現実的な疲労があることが、ここでもありがたい。

疲労は嘘をつかない。

疲労がある限り、俺は個体だ。


俺は地に足を付ける。

力を入れて踏ん張る。


「崩壊しつつある世界に、どうか鎮魂歌を」


言葉が、勝手に口から出た。

祈りじゃない。

逃げでもない。

これは、俺の決意の形だ。


サタンの黒さが、一瞬だけ揺れる。

揺れたのは同情じゃない。

嫌悪でもない。

ただ「面倒だ」という気配。

俺が折れないことが、面倒だという気配。


その面倒を、俺は利用する。


深呼吸をする。

心を平穏に保つ。

平穏は、恐怖がないことじゃない。

恐怖があるまま、崩れないことだ。


こんな俺にも、頑張ってと応援してくれる人が居る。

その揺るぎない事実だけで、何度も立ち上がることが出来る。


俺の中で、玄関の灯りが一瞬だけ灯る。

母の手の冷たさが残る。

「帰ってきなさい」が、胸の核に沈む。


沈んだ核が、俺を前に傾ける。

前に傾けると、足が出る。

足が出るなら、進める。


サタンが、もう一度斬る。

今度は意味を削る斬撃。

俺の「守りたい」を削ろうとする。


俺は、境界鍵で線を引く。

ここまでが俺。

ここからが削る側。

線は溶ける。

溶けても引く。

引き続けることが、俺の抵抗だ。


同時に、始原音叉で揃える。

割れないように。

崩れないように。


太極図が回る。

因果の向きを、ほんの少しだけ捻る。

サタンの刃が、俺の核を直撃するはずの角度を失う。


その「失う」一瞬。

星辰環の一本の線が、俺の足元に落ちる。

落ちた線の上に、俺は踏み込む。


踏む。


原初火がトク、と鳴る。

背中が温かい。

温かさが、恐怖を焼かない。

恐怖を「燃料」に変える。


俺は角笛を、初めて持ち上げた。


今だ。


天命書が掌で重くなる。

確定を刻みたがる。

でも、刻ませるのは今じゃない。

今刻むのは、勝利の瞬間じゃない。

「呼ぶ」という選択だ。


俺は口をつける。


息を吸う。

肺が膨らむ。

吐く息を、角笛に通す。


音が、出た。


大きな音じゃない。

世界を揺らす轟音でもない。


それでも、確かに。

確かに「呼んだ」と分かる音。


音が出た瞬間、黒さが一度だけ止まる。

止まった黒さの隙間に、空間の密度が変わる。

密度の変化が、サタンの「前提」を一つ剥がす。


剥がれた。


剥がれた分だけ、サタンの輪郭が遅れて露わになる。

黒さの奥に、形になりきれない「何か」がいる。

そこが、弱点じゃない。

ただ、そこが「ここにいる」証明だ。


証明できるなら、斬れる。


俺は前に出た。

足が重い。

肺が重い。

心臓が重い。


重いまま進む。


「根拠のない揺るぎない自信を、手に入れた俺は無敵になった」


言葉が、胸の奥から出る。

自慢じゃない。

虚勢でもない。

これは、折れないための宣言だ。


サタンが、初めて苛立つ気配を出した。

苛立ちの気配が、刃の冷たさを増す。


「――まだ、抗うか」


俺は答える。


「抗うんじゃない」


一歩。


「戻るんだ」


もう一歩。


「守るんだ」


もう一歩。


そして、俺は叫ぶ。


「このゴミ同然の世界を作り変えてやるのだ。感謝しろ」


サタンの台詞を、そのまま返す。

返した瞬間、怒りが燃える。

燃えるのに、俺は飲まれない。

飲まれないように、息を整える。


吸って。

吐いて。


「お前がゴミだという世界を愛している。だから、戦うんだ!!」


言い切る。


言い切った瞬間、黒さの圧が一段落ちる。

落ちた分だけ、俺の輪郭が濃くなる。


濃くなる輪郭で、俺は踏み込む。

踏み込んだ足元が、ぬるりと滑る。

病の谷の粘りが、最後に足を奪おうとする。


奪わせない。


膝を曲げる。

腰を落とす。

地に足を付ける。

力を入れて踏ん張る。


踏ん張った瞬間、足首が痛む。

痛い。

痛いから、ここが現実だ。


俺は角笛を、もう一度吹かない。

一度呼んだ。

呼んだ事実が、まだ残っている。

残っているなら、今は「選ぶ」の番だ。


サタンの刃が来る。

来る瞬間が見える。

星辰環の一本の線が、刃の「意味」を示す。


俺は境界鍵で線を引き、太極図で因果を捻り、始原音叉で揃え、深海心核で痛みを抱き、原初火で踏み込む温度を得る。


全部を同時にやる。


同時にやった瞬間、世界が少しだけ息をする。

息をした世界の隙間で、俺はサタンの黒さの奥へ、言葉を叩き込む。


「人知が及ばない境地だということは百も承知。だが、それで俺が諦める要因にはならない!」


叩き込んだ言葉が、刃になる。

刃になった言葉が、意味を削る黒さを逆に削る。


削られた黒さが、初めて「痛み」を出す気配を見せる。

気配だけだ。

それでも十分だ。


俺は息を吐く。

吐いた息は白くない。

白さも冬もない。

それでも、吐ける。


吐けるなら、終わらせられる。


サタンが、笑止千万、と言いかけた。

言いかけたまま、言葉が薄くなる。

薄くなるのは、俺が奪ったからじゃない。

世界が、今だけは俺の側に揃ったからだ。


俺は、前に出た。


最終の距離は、距離じゃない。

選ぶかどうかだ。


俺は選ぶ。


「終わりじゃない」


小さく。

でも、はっきり。


その言葉と同時に、角笛の冷たさが掌で重くなる。

重いのに持てる。

持てるから、俺はまだ人間だ。


俺は、サタンを見据える。


唇が震えている。

足が痛い。

肺が重い。

喉が乾いている。


全部、現実だ。


現実だから、勝てる。


俺は深呼吸する。

心を平穏に保つ。


吸って。

吐いて。


そして、踏み出す。


ここから先は、出来事になる。

言葉が届かない場所で、俺は俺の選び方を突き通す。


崩壊しつつある世界に、どうか鎮魂歌を。


その祈りを、俺は祈りで終わらせない。


終わらせるのは、俺だ。

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