余韻だけを連れて
夜は、まだ終わらない。
終わらないまま、街は静かに呼吸している。
俺は歩く。
足音が一定の間隔で地面に触れる。コツ、コツ、コツ。音は小さい。でも確かだ。俺がここにいる証明みたいに、一定に鳴る。吐く息が白い。白はすぐにほどける。ほどけるのに、確かに一度、形になる。形になって、消える。それだけで十分だと思える夜だった。
道は見慣れた道だ。何度も通った。帰り道の曲がり角も、街灯の位置も、電柱の影も、全部知っている。知っているのに、今夜は少しだけ違う。空気が薄い。薄いというより透明に近い。音が遠い。遠いのに消えない。世界が、ほんの少しだけ俺を邪魔しない。
信号を渡る。渡りながら、寒さを確かめる。寒い。頬も、指先も、ちゃんと冷える。なのに体の芯は冷えない。胸の奥の核が、静かに温度を持っている。その温度が、方向を濃くする。こっちだ、と言葉じゃなく位置で示す。
俺は歩く。
曲がり角をもう一つ曲がる。街灯が減る。住宅の明かりも減る。静けさが少しだけ深くなる。ここから先は夜の密度が変わる。俺は立ち止まらない。立ち止まらないまま息を整える。吸って、吐いて。胸の奥が少しだけ重くなる。重いのに苦しくない。重さは圧じゃない。中心の位置だ。ここにある、という位置。
靴底がアスファルトの粒を踏む。小さな振動が足から膝へ、腰へ、背中へ上がる。現実の振動。現実の重力。現実の摩擦。それを一つずつ拾う。戻るとき失わないように。失わないために進むんだと、今夜の俺は分かっている。
前方の空気が少しだけ変わる。
歪む、というほどじゃない。けれど密度が違う。冬の空気の中に、別の冷たさが混ざる。冬の冷たさじゃない。深さの冷たさ。底がある冷たさ。俺は怖くない。怖くない理由は分からない。でも怖くない。代わりに静かな緊張がある。踏み出す前の筋肉の緊張。息を止める直前の肺の緊張。俺はその緊張を解かない。解かないまま進む。
胸の核が、静かに、脈を打つ。
ドクンじゃない。トクでもない。ただ「方向」が濃くなる。前が濃くなる。戻る場所が濃くなる。俺は歩く。コンビニの光はもう背中にある。自販機の音も遠い。犬の声も遠い。代わりに静けさが近い。静けさが近いほど、余計なものが落ちていく。言い訳とか、迷いとか、確認とか。残るのは癖だけだ。怖いときに息を整えること。踏み出す前に体温を確かめること。泣きそうになっても立っていられること。誰に教わったのか分からない。いつ身についたのかも分からない。でも、その癖が今の俺を支える。
風が少しだけ強くなる。首元から冷気が入る。俺は襟を立てる。その動作がやけに現実的で、やけに救いになる。こんな瞬間に襟、と思って笑いそうになる。でも襟が大事だ。生活が俺を繋ぐ。戻る場所の輪郭を、ちゃんと今の俺に留める。
俺は歩く。
ある一点で、空気の温度がほんのわずかに変わる。冷たいまま。けれど違う。冬の冷たさじゃない。もっと、何も混ざっていない冷たさ。音が吸われる。コツ、……コツ、……間が伸びる。伸びるのに、俺は止まらない。止まったら薄くなる。薄くなると戻ってしまう。戻る、という言葉を、今夜だけは別の意味で使いたかった。
俺は胸に手を当てる。
核がそこにある。
母の言葉がそこにある。
帰ってきなさい。帰る。帰る。帰る。
その言葉を胸の内側に置く。握るんじゃない。押し込むんでもない。置いて、重さにする。重さがあると、俺は前に傾ける。前に傾けると、足が出る。足が出るなら、進める。
前方が、少しだけ深くなる。
暗いわけじゃない。奥行きが増える。奥行きが増えるのに、距離じゃない。距離じゃないものが、こちらへ寄ってくる。寄ってくるのに、見えない。見えないのに、否定できない。俺は理解する。ここだ。境界だ。境界は門みたいに見えない。境界はただ、触れ方が変わるだけだ。
俺は一歩踏み出す。
地面はまだある。けれど抵抗が少し減る。軽いのに、浮かない。浮かないのに、進む感覚だけが濃くなる。俺は息を吸う。肺が少しだけ重い。吐く。白が少しだけ濃い。濃いまま消える。その消え方が、いつもより遅い。遅いのに、俺の足は遅れない。
俺は、笑う。
声は出ない。
でも確かに笑った。
胸の核が、静かに灯る。
怖くない。驚かない。逃げない。ただ、ああ、だけが胸の奥で静かに広がる。俺はその灯りを消さない。消さないまま歩く。歩くという行為が、ただの移動じゃなくなる。選ぶという行為になる。今の俺は、それを選ぶ。
そして、空気がもう一度、ほんの少しだけ変わる。
世界の境界が俺の足元に静かに重なる。
重なるのに、線は見えない。見えないのに、越えると分かる。
越えると分かる。
俺は呼吸を整える。吸って、吐いて。吸って、吐いて。整えると、胸の核が沈む。沈むのに消えない。消えないから折れない。俺は次の一歩を迷いなく踏み出した。
――その瞬間。
足の裏の感触が、消えた。
消えたのに落ちない。落ちないのに進めない。進めないのに立っている。立っているのに「立っている」という言葉の意味が薄くなる。薄くなるのに、怖くない。怖くないまま、現実の音が遠のく。車の音が遠のく。風の音が遠のく。街灯の滲みが遠のく。遠のくのに、暗くならない。暗くならないまま、白くもならない。ただ、色という概念が薄くなる。薄くなると、匂いだけが残る。冬の匂い。夜の匂い。アスファルトの匂い。そういう匂いが、最後の最後まで現実を繋いでくれる。
俺は息を吸おうとした。
吸ったつもりだった。
でも肺に入った感覚が遅れて来る。遅れて来るのに、空気は冷たい。冷たいのに、喉の奥が熱い。熱いのは恐怖じゃない。言葉だ。言葉にならない言葉。言えないのに、言いたい言葉。
俺は唇を噛む。
泣かない。
泣くと足が止まる。止まると遅れる。遅れると薄くなる。薄いものに負けるのが怖い。怖いのに、怖さがどこか遠い。遠いまま、胸の核だけが近い。近い核が、俺を押す。押すんじゃない。支える。
背後が、静かに閉じる気配がした。
扉の音はしない。鍵の音もしない。けれど、確かに「戻る側」が遠くなる。遠くなるほど、現実の石みたいなものがポケットからこぼれ落ちていく感覚がする。コンビニの光。信号の赤。犬の声。街灯の滲み。全部が、手から滑るみたいに離れていく。離れていくのに、俺は焦らない。焦らないまま、胸の内側にあるものだけを確かめる。
母の手の冷たさ。
襟を直された指先。
玄関の灯り。
「気をつけて」
「帰ってくるんだよ」
「帰る」
その短いやりとりが、今の俺の全てになる。
俺は、それを離さない。
離さないまま、足を出そうとする。
足が出たのか、分からない。
でも、進んでいる。
進んでいるという確信だけが増える。
確信だけが増えると、世界の輪郭がさらに薄くなる。薄くなるのに、俺の中心だけが濃くなる。濃い中心が、まっすぐになる。まっすぐになると、視界の奥に「これ以上は言葉が届かない」場所が見える。見える、というより、理解する。ここから先は、説明じゃない。出来事になる。
俺は息を整える。
吸って、吐いて。
吸って、吐いて。
その癖だけが、最後まで残る。
残るから、俺は俺だ。
そして。
体が、ほんの一瞬だけ引かれる感覚が強くなる。
引かれるのに、引きずられない。引きずられないのに、抗えない。抗えないのに、納得だけがある。ああ、と胸の奥で小さく灯る。灯ったまま、世界が一段、落ちる。
音が、落ちる。
色が、落ちる。
重さが、落ちる。
言葉が、落ちる。
落ちるのに、底に届かない。
底という概念が薄い。
薄いまま、落ち続ける。
落ち続けながら、俺は最後にひとつだけ思う。
――帰る。




