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いつもの天井、最後の夜

夜は、最初から最後まで、静かだった。


窓の外で車が一台通り過ぎる音がして、遠くの信号が変わる気配がして、それだけで終わる。部屋の空気は冷えているのに、俺の内側だけが熱い。熱いというより、体温の輪郭が濃い。自分がここにいることが、うるさいくらいにはっきりする。


俺は机の前に座っていた。ノートも開いていない。スマホも触っていない。手持ち無沙汰なのに、手を伸ばす先がない。今、いちばん危ないのは、何かで誤魔化すことだと分かっていた。誤魔化したら、決意が薄くなる。薄くなると、元に戻る。戻る、という言葉を今夜だけは別の意味で使いたかった。


掌を見つめる。指の節。爪の白。乾燥で少しだけひび割れた皮膚。普通だ。普通の手だ。なのに、触れた感覚がまだ残っている。硬いもの。熱いもの。冷たいもの。重いもの。誰かの手の温度。肩に乗った重さ。背中を押す圧。引きずり込む波。息を奪う抵抗。足元が消える瞬間。全部、今の掌にいる。


思い出してしまったからだ。


完全に。


断片じゃない。余韻じゃない。言葉にならない感覚だけが先走っている状態でもない。名前も、順番も、意味も、痛みも、全部揃って戻ってきていた。揃ってしまえば、逃げようがない。逃げようがないから、腹が決まる。


胸の奥が、静かに痛い。


鈍い。尖っていない。逃げたくなる痛みじゃない。むしろ、確認できる痛みだ。ここが自分の中心だと指で示されているみたいな痛み。俺は息を吸って、吐いた。吸って、吐く。吸って、吐く。呼吸を整えると、視界が少しだけ澄む。澄んだ分だけ、決意の形がはっきりする。


戻る。


向こうへ。


やり残した全部の続きへ。


その言葉を頭の中で繰り返すたびに、部屋の中の物が少しだけ遠くなる。机。椅子。教科書。洗濯物。コンビニの袋。俺の生活。俺の現実。全部が軽くなる。軽くなるのに、手放したくはならない。手放さないために戻るんだ、と分かる。


時計を見る。22時を回って、少し過ぎている。母はまだ起きているはずだ。廊下の灯りが半分だけ点いているのが見える。いつもの夜の灯り。寝る前に明るすぎないようにして、でも転ばないようにして、そういう加減のある灯り。


俺は立ち上がる。膝が少しだけ鳴った。体は正直だ。普通に疲れている。普通の疲れがあることが、救いだった。普通があるなら、俺はまだ人間だ。


ドアノブに手をかける。冷たい。手のひらの熱が吸われる。その冷たさだけで、少しだけ現実に引き戻される。引き戻されて、怖くなる。怖いのは、戻ることじゃない。母に言うことだ。言ってしまったら、もうこの夜は取り返せない。取り返せない夜を、俺は今から作る。


ドアを開ける。廊下の空気が部屋より少し冷たい。階段の方から、テレビの小さな音が漏れている。ドラマのセリフ。笑い声。拍手。全部が薄くて、でもちゃんとそこにある。そういう音は、生活の匂いと同じだ。胸が少しだけきゅっとなる。


階段を降りる。踏む。踏む。踏む。木がわずかに軋む。手すりに指を添える。冷たい。冷たいまま、俺は降り切る。


リビングのドアは少しだけ開いていた。中から暖房の残り香が漂う。母がテレビを見ている。ソファの背に寄りかかって、毛布を膝にかけている。髪は少しだけ乱れている。寝落ちしかけている時の顔だ。目が半分。口が少しだけ緩い。俺はその横顔を見て、胸が痛む。さっきの痛みとは違う。柔らかい痛み。触れたら壊れてしまいそうな痛み。


俺はドアをノックするでもなく、そっと声を出した。


「……母さん」


母がこちらを向く。瞬きがゆっくりで、眠いのが分かる。でも、目が合った瞬間にちゃんと覚醒する。母はそういう人だ。子供の気配には敏感だ。


「どうしたの。眠れないの?」


俺は一歩だけ中に入って、ドアを静かに閉めた。テレビの音が少しだけ遠のく。母の呼吸が聞こえる距離になる。


「ちょっと、話したい」


母はリモコンでテレビを消した。画面が暗くなって、部屋の静けさが濃くなる。静けさが濃くなると、言葉の重さも濃くなる。逃げ場が減る。俺は逃げない。


母はソファの端を少しずらして、座る場所を作った。


「座りなさい」


俺は座らなかった。立ったままの方が、言葉が出る気がした。座ったら、毛布の温かさに負ける。負けたら、言えない。


母は俺の顔を見上げて、少しだけ眉を寄せた。心配の顔だ。母の心配は、軽くない。見逃さない。見逃さないからこそ、今夜は逃げられない。


「何かあったの?」


俺は息を吸った。吐いた。吸った。吐いた。二回。三回。整える。整えると、喉の奥の詰まりが少しだけほどける。


「……俺、行く」


母の目が少しだけ見開かれる。でも驚きすぎない。母は、こういう時に大声を出さない。静かに受け止める。受け止めることで、俺が逃げないようにしてくれる。


「どこに?」


「……遠く」


嘘じゃない。正確でもない。でも今の俺には、それがいちばん正しい。


母は少しだけ視線を落とした。膝の上の毛布の端を指でつまむ。指が少し荒れている。料理と洗い物の手だ。冬の乾燥の手だ。その手が今、ほんの少し震えている。


「危ないこと?」


母の声は柔らかい。怒りも責めもない。ただの確認。母の「危ないこと?」は、「止めるため」じゃなく「理解するため」に出る。


俺は少しだけ笑ってしまった。笑ってしまうのが、自分でも分かる。おかしい。こんな場面で笑うのは。でも、笑える自分がいた。笑えるのは、母がそこにいるからだ。


「……多分、危ない」


母は頷いた。


「そう」


それだけ。


それだけで、胸がぎゅっとなる。母は、俺の言葉を信じる。信じた上で、次の言葉を選ぶ。母の強さはそこだ。感情で叩かない。現実で支える。


「いつ行くの?」


「……今日」


言った瞬間、空気が変わる。部屋の温度が少し下がる。息が少しだけ重くなる。母の視線が、俺の顔をなぞる。嘘がないか確認している視線じゃない。俺の決意の輪郭を確かめる視線だ。


「今夜?」


「うん」


母は、少しだけ息を吐いた。吐いた息が見えないのが悔しいくらい、空気が澄んでいる。


「戻ってくる?」


その言葉は、短いのに重い。俺の胸の核に直に触れてくる。逃げ場がない。逃げない。


「戻る」


母のまぶたが一瞬だけ震えた。泣きそうな顔にはならない。でも、目の奥が少しだけ濡れる。母は泣くのが下手だ。泣かないんじゃない。泣く前に、言葉で形にしようとする。


「約束できる?」


「……できる」


約束は嘘じゃない。保証じゃない。意志だ。俺は意志を持って戻る。


母は立ち上がった。毛布をソファに置いて、俺の前まで来る。距離が詰まる。母の体温が近い。匂いがする。柔軟剤と、少しだけ台所の匂いと、母の匂い。生活の匂い。俺はその匂いを吸い込むだけで、喉が痛くなる。


母は俺の肩に手を置いた。優しく。けれど、逃げないように。押さえつけるんじゃない。支えるための手。


「……あんた、昔からそう」


母の声が少しだけ笑いを含む。


「大丈夫な顔して、大丈夫じゃないところに行くの、得意だった」


俺は息を吐いた。図星だ。母はずるい。ずるいくらい、俺の癖を知っている。


「……そうかも」


「そうだよ」


母は一度だけ頷いて、それから真っ直ぐ俺を見る。


「でもね」


母の声が少し低くなる。


「帰ってきてた」


その言葉のあとに続く沈黙が、やけに長い。母は多分、思い出している。俺が熱を出した夜。俺が初めて怪我した日。俺が泣きながら帰ってきた日。俺が強がって、でも最後に抱きついてきた日。母の中には、俺の「帰ってきた」が積もっている。


俺は、頷いた。


「……今回も、帰る」


母は小さく笑った。笑ったけど、目の奥の濡れは消えない。


「じゃあ、言っとく」


母は少しだけ、俺の肩を強く握った。


「帰ってきなさい」


「……うん」


「ちゃんと食べる」


「……うん」


「寝る」


「……うん」


「無茶しない」


「……うん」


「誰かのためだけに壊れない」


その言葉で、俺は息を止めた。


母は、俺が一番弱いところを知っている。優しさを武器にするところ。人のために自分を削ってしまうところ。そこを守るための言葉だ。


俺は、喉の奥が熱くなるのを感じた。泣きそうになる。でも泣き方が分からない。今は、泣くより言うべきことがある。


「……俺、決めたんだ」


母は黙って聞く。


「戻って、終わらせる」


「うん」


「俺がやる」


「うん」


「俺が、選ぶ」


母の「うん」が、短いのに深い。背中を叩くんじゃない。肩を並べる「うん」だ。


俺は少しだけ視線を落として、床を見た。床の木目。小さな傷。生活の傷。俺の足が何度も踏んだ傷。そういうものが、今夜はやけに尊い。


「……母さん」


「なに?」


「ありがとう」


母は少しだけ目を細めた。


「何のありがとう?」


「……全部」


母は、すぐに返さない。間を置く。母の間は、言葉を大事にする間だ。軽くしないための間。


「……こっちこそ」


母はそう言って、俺の肩に置いた手を、ゆっくりと首の後ろに回した。


「生まれてきてくれて、ありがとう」


その言葉は、反則だと思った。


俺は、堪えようとした。でも無理だった。鼻の奥がつんとして、視界が滲む。涙は落ちない。でも滲む。滲むまま、俺は笑った。笑うしかない。泣き方より、笑い方の方が俺は得意だ。


「……俺の方こそ、母さんの息子でよかった」


母の目から、やっと涙が落ちた。落ちたのに、母は慌てて拭かない。拭かないまま、笑う。涙を落としたまま笑う顔が、母の本音だ。


「大きくなったね」


「……なったかな」


「なったよ」


母は俺の頬に触れた。指先が少し冷たい。冷たいのに優しい。母の手はいつもそうだ。荒れているのに、温度がある。


そして、母は俺を抱きしめた。


強くない。

でも、ほどけない抱き方。


俺も腕を回した。大人になってから、母を抱きしめるなんて、そうそうない。恥ずかしいとか、そういうのは今夜はない。今夜は、必要なことだけをする。


母の背中は小さい。昔は大きかった気がしたのに。俺の方が大きくなったからだ。気づくと、胸がまた痛くなる。


「……寒いから、上着」


母が俺の背中越しに呟く。


「うん」


「靴下」


「うん」


「鍵、忘れない」


「うん」


母は、生活の言葉で俺を現実に縛る。そうやって、俺が遠くに行っても戻れるようにする。母の優しさは、いつも生活の形をしている。


抱きしめる時間が終わるのが怖い。でも終わらせないといけない。俺は、ゆっくり離れた。


母は俺の顔を見て、少しだけ笑った。


「泣きそう」


「……泣かない」


「泣いてもいいのに」


「泣くと、行けなくなる」


母は、少しだけ口を結んだ。


「行きなさい」


短い言葉。


でも、その短さの中に全部ある。許しじゃない。手放しでもない。信頼だ。


俺は頷いて、リビングを出た。階段を上がる。足取りが軽いわけじゃない。重い。でも、重いまま進める。進めるのは、今夜、母の言葉をもらったからだ。


部屋に戻る。ドアを閉める。息を吐く。部屋の暗さが、さっきより濃い。電気は点けない。点けない方が、今夜は落ち着く。


俺はクローゼットを開けて、上着を引っ張り出した。母の声が頭の中に残っている。上着。靴下。鍵。生活。生活が、俺の帰り道を作る。


机の上に置いてあった財布を手に取る。重い。紙幣の重さじゃない。現実の重さだ。ポケットに入れる。鍵を取る。金属が鳴る。その音が、やけに切れる。歯切れのいい音。今夜の俺に合う音だ。


スマホを見る。通知はない。SNSもどうでもいい。連絡を入れる相手もいない。今夜は、母に言えた。それで十分だ。誰かに宣言する必要はない。俺の決意は、俺が持つ。


ベッドに腰掛ける。布団に手を置く。布団は温かい。温かいのに、もうここに長く居る気はない。居たら、眠ってしまう。眠ったら、踏み出すのが遅れる。遅れるのが怖い。遅れると、意志が薄くなる。薄いものに負けるのが怖い。


俺は立ち上がって、窓の方へ行った。カーテンを少しだけ開ける。外は曇っている。星は見えない。街灯の光だけが、地面を照らしている。普通の夜だ。普通の夜なのに、今夜は特別だ。


俺は、窓ガラスに額を軽く当てた。冷たい。冷たいと、頭が冴える。


「……行く」


声に出すと、背中が少しだけ軽くなる。軽くなるのに、胸は重い。重いまま進める。それが今の俺の強さだと思った。強いから進むんじゃない。重いのに進むから強い。


ベッドに戻る。靴下を履く。母の言葉が浮かぶ。穴、空いてない? 空いてない。笑いそうになる。こんな時に、靴下。だけど靴下が大事だ。足元が冷えると判断が鈍る。母はそういうところで俺を守る。


上着を羽織る。ファスナーを上げる音が、やけに鋭い。現実が締まる音。


ドアの前に立つ。ドアノブに手をかける。冷たい。冷たいのに、手は震えない。


俺は、一度だけ深呼吸した。


吸って。

吐く。

吸って。

吐く。


整える。

怖いときに、息を整える。

踏み出す前に、体温を確かめる。

泣きそうになっても立っている。


俺の癖。

俺の核。

俺の選び方。


今夜、その全部が、俺を前へ押す。


ドアを開ける前に、ふとリビングの方を見る。階段の下の灯りが、まだ薄く点いている。母は、多分、まだ起きている。起きていなくてもいいのに。起きている。見送るためじゃない。眠れないだけかもしれない。でも、その「起きている」が、俺には分かる。


俺は、声に出さずに言った。


――行ってくる。


返事はない。

でも、返事はいらない。


俺はドアを開けた。


廊下の空気が冷たい。

階段を降りる音が、やけに響く。

一段、一段。

現実に戻る段。

現実から出る段。


玄関に立つ。靴を履く。紐を結ぶ。結び目が固い。固い結び目が、足元を固定する。固定されると、心がぶれない。


鍵を持つ。金属の冷たさ。母の「忘れない」が、ここにある。


玄関の扉に手をかけた瞬間、背後で小さな足音がした。


振り向くと、母が立っていた。毛布を肩にかけている。眠そうな顔。けれど目ははっきりしている。


「……行くの?」


俺は頷いた。


「うん」


母は、玄関の明かりの下で、少しだけ笑った。泣きそうな笑顔じゃない。ちゃんと笑っている笑顔。母が「行きなさい」をもう一度言う顔だ。


「気をつけて」


「うん」


「寒いから、首」


母は俺の襟元を直した。指先が冷たい。冷たいのに、温度が残る。


「……帰ってくるんだよ」


「帰る」


母は頷いた。小さく。確かに。


俺は扉を開ける。外の冷気が流れ込む。冬の匂い。夜の匂い。静けさの匂い。


一歩、外へ出る。


振り返る。母がそこにいる。玄関の灯りが母の顔を照らしている。その光景を、俺は目に焼き付けた。焼き付ける。忘れないためじゃない。戻るためだ。戻る場所の輪郭を、心に固定する。


母は、もう何も言わなかった。言わないまま、頷いた。俺の頷きに、返すように。


俺は小さく頭を下げた。


そして、扉が閉まる。


ガチャ、と鍵が回る音がした。


その音が、妙に胸に響いた。


閉じる音。

切り替わる音。

境界の音。


俺は歩き出す。


夜道は冷たい。

街灯は少し滲む。

吐く息が白い。

足音がコツコツ鳴る。

現実の音。


胸の核が、静かに熱を持つ。

背中の奥で、意志がまっすぐになる。


怖いか、と聞かれたら、怖い。

でも、止まるか、と聞かれたら、止まらない。


俺は、進む。


帰るために。


そして、その「帰る」の意味が、これからもう一度ひっくり返ることを、俺はもう知っている。


知っているのに、歩く。


夜はまだ深い。

けれど、今夜の俺には、深さは怖くない。


深いほど、底がある。

底があるほど、踏める。

踏めるなら、進める。


俺は息を整える。


吸って。

吐いて。

吸って。

吐いて。


歩く。


ただ歩く。


街灯の下を抜けるたび、影が伸びて、消える。伸びて、消える。俺の影も同じだ。消えるのに、俺は消えない。消えないから、歩ける。


曲がり角を一つ曲がったところで、ふいに胸が熱くなる。さっきの玄関の灯り。母の顔。手の冷たさ。言葉。短い言葉の全部。


俺は、唇を噛んだ。


泣かない。

泣くと、足が止まる。

止まると、遅れる。

遅れると、薄くなる。


だから、泣かない。


代わりに、息を吐いた。長く。深く。胸の核を、静かに沈める。沈めても消えない核。消えない核があるから、俺は折れない。


さらに歩く。

コンビニの明かりが見える。

自販機の音がする。

遠くの犬が鳴く。

いつもの夜の素材。


俺は、それらを一つずつ拾う。現実の石を拾うみたいに。拾って、ポケットに入れるみたいに。戻る時の目印になる。


ふと、スマホが震えた。通知。母からでもない。どうでもいいアプリ。俺は画面を見ずにポケットに戻した。今夜、見るべきものは外だ。足元だ。息だ。進む方向だ。


信号が赤になる。俺は止まる。止まったことを、ちゃんと認識できる。遅れない。主語が曖昧にならない。今の俺は、俺だ。


青になる。俺は歩く。


ただ、それだけ。


その「それだけ」が、今夜は決定的だ。


横断歩道を渡り切ったところで、背中の寒さが少しだけ増した。風が吹いた。首元から冷気が入る。母の「首」の声がよぎって、俺は襟を立てた。立てただけで、少しだけ温かい。母の言葉は、生活の形で効く。


俺は歩く。


そして、どこかで、空気が少しだけ変わる気配がする。


変わるのに、まだここは現実だ。

現実の匂いがする。

現実の音がする。

でも、境界が近い。


境界が近づくと、俺の胸の核が、少しだけ脈打つ。トク、じゃない。鼓動でもない。ただ、方向が濃くなる。前が濃くなる。戻る場所が濃くなる。


俺は足を止めない。


止めないまま、息を整える。


吸って。

吐いて。

吸って。

吐いて。


歩く。


夜はまだ、静かだ。


玄関の灯りはもう見えない。

母の匂いも、もう届かない。

だけど、母の言葉だけが、胸の核の上に残る。


帰ってきなさい。

帰る。

帰る。

帰る。


俺はその言葉を、足の裏で踏むみたいに繰り返す。


そして。


どこかへ引かれる感覚が、少しだけ強くなる。


怖くない。

驚きもない。


ただ。


――ああ。


納得だけが、胸の奥で小さく灯る。


俺は、その灯りを消さない。


消さないまま、歩き続ける。


帰還の直前まで。

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