理由のない温度
――朝は、次の日も来た。
目覚ましが鳴る少し前に、自然に目が覚めた。
目を開けた瞬間、また天井がある。昨日と同じ、少しだけシミのある白い天井。
それを見て、ほんの一瞬だけ、安心と、説明できない寂しさが同時に胸に広がった。
理由はない。
ないのに、確かにあった。
布団の中で、手を握ったり開いたりする。
指はちゃんと動く。
爪が掌に当たる。
その感触を確かめてから、体を起こした。
カーテンの外は、昨日より少しだけ曇っていた。
光が弱い。
弱いのに、落ち着く。
眩しすぎない朝は、考えすぎなくていい。
――夢は、見た気がする。
けれど、やっぱり何も残っていない。
昨日と同じだ。
内容はない。
余韻だけが、ある。
胸の奥の沈みは、まだある。
消えない。
でも、昨日より少しだけ、形がはっきりした気がした。
重さの位置が分かる。
心臓の少し下。
みぞおちより、ほんの少し上。
俺は、そこに手を当てた。
何も起きない。
当たり前だ。
それでも、触っておくと、落ち着く。
階段を降りると、今日はトーストじゃなくて、焼き魚の匂いだった。
それだけで、少し安心する。
変わるものがあると、「今日」という感じがする。
母は、いつも通りテレビをつけながら味噌汁をよそっていた。
ニュースの声が、妙に現実を強くする。
誰かがどこかで事故に遭ったとか、誰かが何かをしたとか。
そういう情報が流れていると、世界はちゃんと続いていると思える。
「おはよう」
「おはよう」
今日は、遅れず返事ができた。
それだけで、少しだけ嬉しい。
朝食を食べながら、箸の重さを感じる。
茶碗の温かさ。
味噌汁の湯気。
魚の塩味。
全部、ちゃんとここにある。
胸の沈みは、少しだけ静かだった。
――代わりに。
別の感覚が、薄く、浮いていた。
「この時間を、大事にした方がいい」
理由はない。
急に、そう思っただけだ。
大学に向かう途中、信号待ちで立ち止まる。
赤信号の点滅を見ながら、なぜか足の裏の感覚に集中する。
アスファルトは硬い。
靴底越しでも分かる。
体重のかかり方が、左右で少し違う。
右足に、ほんの少しだけ、重さが寄っている。
どうでもいいことだ。
でも、どうでもいいことを認識できると、安心する。
講義は普通だった。
ノートを取る。
ペンを持つ。
文字を書く。
板書を写す。
それなのに、途中で一瞬だけ、手が止まった。
――この手で、何かを掴んでいた気がする。
すぐに消えた。
消えたから、追わない。
昼休み、友達とラーメンを食べる。
笑う。
適当に話す。
適当に相槌を打つ。
普通にできる。
できるのに、時々、会話の外側にいる気がする。
でも、それもすぐ戻る。
戻るから、問題ない。
午後の講義が終わる頃、急に眠気が来た。
体が重い。
ただの疲れだ。
そう思って、コーヒーを飲む。
温かさが、また胸の沈みに触れる。
今日は、少しだけ、浮きやすい。
浮いて、沈むまでの時間が、ほんの少し長い。
バイト先では、忙しさが救いになる。
手を動かす。
声を出す。
注文を覚える。
皿を下げる。
体が勝手に動く。
それがありがたい。
考える時間が減ると、違和感も薄くなる。
夜、帰り道。
空気が冷たい。
街灯が、少しだけ滲む。
昨日と同じなのに、今日は少しだけ違った。
――帰りたい。
家に帰りたい、じゃない。
どこに帰りたいのか分からない。
でも、「帰る」という言葉が、妙に胸に引っかかった。
俺は首を振った。
疲れているだけだ。
家に入る。
匂いがする。
生活の匂い。
安心の匂い。
夕飯を食べながら、ふと母の手を見る。
包丁を持つ手。
少し荒れている指。
それを見て、胸が少しだけ熱くなる。
理由はない。
ないけど、目を逸らした。
風呂に入る。
湯船に浸かる。
体の力が抜ける。
その瞬間。
一瞬だけ。
――水の中で、呼吸していた気がする。
すぐ消える。
消えるから、追わない。
湯船の縁に頭を預けて、天井を見る。
白い天井。
同じだ。
全部、同じだ。
それなのに。
胸の奥だけ、少しだけ、動く。
風呂を出て、部屋に戻る。
布団に入る。
スマホを少し触る。
SNSを流し見する。
何も残らない。
画面を消す。
部屋が暗くなる。
暗くなると、少しだけ、世界の輪郭が薄くなる。
それが、少し怖い。
俺は、無意識に、呼吸を整えた。
吸って。
吐いて。
吸って。
吐いて。
それだけで、少しだけ、落ち着く。
――いつ覚えたんだろう。
思い出せない。
でも、体が知っている。
俺は布団の中で、掌を胸に当てた。
体温が、そこにある。
それだけで、十分だ。
眠気が、ゆっくり降りてくる。
意識が沈む直前。
ほんの一瞬だけ。
どこか遠くで。
「――」
声じゃない。
意味もない。
ただ、「何か」が、あった気がした。
すぐ消える。
夢は、残らない。
残らないまま、眠りに落ちる。
胸の奥の沈みは、まだある。
でも、今日は少しだけ――
深くなった気がした。
重くなったわけじゃない。
底が、少しだけ見えた気がした。
その底に、何があるのか。
俺は、まだ知らない。
そして。
眠りの奥。
意識が完全に落ちる、ほんの直前。
体が、ほんの一瞬だけ――
「どこかへ引かれる」感覚が、あった。
怖くはない。
驚きもない。
ただ。
――ああ。
そんな、納得だけが。
理由もなく、胸の奥で、小さく灯った。
そこで、意識は、完全に落ちた。
おばあちゃんが亡くなってから、二回目の、おじいちゃんの誕生日だった。
親族が集まった。
リビングと和室の境目まで、人と声と匂いで埋まっていた。
テーブルの上には、少しやりすぎなくらいの御馳走が並んでいる。
寿司。
唐揚げ。
煮物。
刺身。
ケーキ。
誰がここまで買ったんだ、と思う量だった。
けれど、誰もそれを指摘しない。
こういう日は、これでいい。
グラスの氷が鳴る。
ビールの泡が揺れる。
笑い声が重なる。
俺は、席の端で、ゆっくり飲んでいた。
アルコールは強くない。
けれど今日は、嫌じゃなかった。
体の中が、少しだけ柔らかくなる。
おじいちゃんは、いつもより少しだけ、よく喋っていた。
同じ話を、少しずつ形を変えて、何度もする。
それを、誰も止めない。
酒が、皆の体の中で回り始めた頃だった。
おじいちゃんの手が、
そっと、俺の肩に乗った。
重くない。
でも、軽すぎもしない。
「応援しているから、頑張って」
ゆっくり。
少しだけ舌が回っていない声。
でも。
嘘じゃない、と分かった。
「……うん」
それしか言えなかった。
「頑張れ」
もう一度。
「……うん」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
理由はない。
でも、確かに温かい。
⸻
アルコールが、体の中でゆっくり回る。
思考が、少しずつ鈍くなる。
会話の輪郭が、柔らかくなる。
笑い声が、遠くと近くを行き来する。
瞼が重くなる。
眠い。
抗う理由は、なかった。
椅子にもたれ、視界が少しずつ落ちていく。
光が、滲む。
音が、遠のく。
⸻
その、境目で。
一瞬だけ。
――強い光が、走った。
夢、というには、輪郭がはっきりしすぎていた。
現実、というには、触れられなかった。
白い。
ただ、白い。
その白の奥で、
何かが、形になりかけて、崩れる。
言葉にならない。
映像にもならない。
でも。
「感情」だけが、流れ込んでくる。
苦しい。
悲しい。
悔しい。
でも――
大切だった。
どうしようもなく。
取り戻せないくらい。
大切だった。
誰かの気配が、近くにあった気がした。
手。
手を、握られた感覚。
温かい。
必死に、掴もうとする。
けれど。
指の隙間から、水みたいに逃げていく。
「待って」
言った気がした。
声になったかは、分からない。
白が、さらに強くなる。
何かが、形になりかける。
風。
音。
温度。
涙。
全部が、
もう少しで、思い出せそうで――
そこで。
全部、ほどけた。
⸻
目を開けると、
親族の笑い声が、すぐ近くにあった。
「大丈夫?眠い?」
誰かが、笑いながら言う。
「あー……ちょっと酔ったかも」
俺は、そう答えた。
それが、一番自然だった。
胸の奥が、少しだけ痛い。
でも。
嫌な痛みじゃない。
何かを、失った痛みじゃない。
何かを、
「確かに持っていた」と分かる痛みだった。
おじいちゃんが、もう一度、肩を軽く叩いた。
「大丈夫だ」
小さく。
「ちゃんとやれる」
俺は、頷いた。
理由は、分からない。
でも。
その言葉は、
なぜか、深く沈んだ。




