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夢のない朝に残るもの

 目が覚めると、いつもの天井だった。

薄いカーテンの隙間から、朝の光が四角く床に落ちている。エアコンの音はしていない。冬の冷えが部屋の角に溜まっていて、布団から出るのを少しだけ躊躇した。

――夢を見ていた気がする。

けれど、もう何も思い出せない。起き抜けの脳が、手を伸ばして掴もうとした瞬間に、霧みたいにほどけてしまった。残っているのは、内容じゃなく、余韻だけだ。胸の真ん中に、何かが沈んだままの感じ。重いのに、痛くない。痛くないからこそ、気になる。

携帯を手探りで拾い、画面を点ける。時刻の数字はちゃんとそこにあって、俺はそれを見て「遅刻しない」と判断できる。判断できるのに、その判断が当たり前すぎて、どこか奇妙な安心を覚えた。数字があることが、救いみたいだった。

体を起こすと、肩と背中に軽い張りがあった。昨日、何かしたっけ。思い当たるのはバイトで立ちっぱなしだったことくらいだ。筋肉の疲れは、理由がはっきりしている。だから安心できる。

階段を降りる途中、足音が思ったよりも小さく響いた。木の段のきしみ。手すりの冷たさ。こういう感覚が、妙に鮮明だった。鮮明すぎて、かえって落ち着く。

リビングに近づくにつれて、トーストの匂いが強くなる。バターの甘さと、焼けた小麦の香り。いつも通りのはずなのに、鼻の奥が熱くなる。

泣きそうになる。

理由が分からない。分からないのに、体が先に反応してしまう。俺は咄嗟に咳払いをした。意味もなく喉を鳴らして、誤魔化す。

「おはよう」

キッチンから母が顔を出す。いつも通りの声。いつも通りの動き。俺は、少しだけ遅れて返事をした。

「おはよう」

遅れたのは眠いからだろうか。そういうことにしておく。そういうことにしておけば、世界は崩れない。崩れないことが、今は大事だった。

「今日は、何時に帰ってくるの?」

「大学終わって、その後バイト行くから……八時くらいかな」

言葉は普通に出る。出るのに、自分の声が少しだけ遠く聞こえた。遠いというか、薄い。薄い声を、俺は自分で聞き直している気がした。

母は「そっか」と短く言って、皿を並べる。トーストの縁がこんがりしている。湯気が立つ。味噌汁の匂いが混ざる。現実の匂いが、きちんとそこにある。

俺は座って、口に運んだ。

噛む。飲み込む。

その行為が、やけにありがたい。ありがたい理由がないのに、ありがたい。

食後、鏡の前で髪を軽く整える。寝癖が少しだけ頑固で、指が引っかかる。引っかかる感触が、妙に嬉しい。指先が「ここにいる」と確認できるからだ。

玄関を出る。冷たい空気が頬に触れる。外の音が耳に入る。遠くの車。近くの足音。鳥の声。網戸越しじゃなくても、鳥は鳴く。鳴いているだけなのに、空を見上げたくなる。

空は普通に青い。普通に青いから、安心する。

大学までの道を歩く。歩く速度は普段通りのはずなのに、時々だけ、自分の足が自分のものじゃないみたいに感じる。感じる、というより、足が先に出て、俺が少し遅れて「歩いた」と理解する。

変だ。

けれど、それを誰かに言うほどではない。言ったところで説明できないし、説明できないことを口にすると、余計に自分が怖くなる。だから俺は、歩くことに集中する。踵が地面に当たる音。つま先が蹴り出す感触。息の出入り。

吸って、吐く。

吸って、吐く。

呼吸が整うと、薄い違和感も薄くなる。薄くなるだけで、消えはしない。消えないものを抱えたまま、俺は講義を受ける。

教室の空気は乾いていて、暖房のせいで眠くなる。友達の笑い声が近くで跳ねる。ペンが紙を擦る音。教授の声。全部、いつもの大学だ。

それなのに、たまに、どうしようもなく「懐かしい」感覚が込み上げる。

大学が懐かしいのはおかしい。毎日来ている。昨日もいた。なのに懐かしい。懐かしいという言葉が、ここでは間違っているのに、他に当てはまる言葉がない。

昼休み、自販機でコーヒーを買う。缶の温かさが掌に乗る。温かさが、胸の奥の沈みに触れる。触れた瞬間、沈みが一瞬だけ浮く。浮いて、すぐ沈む。沈むのに、内容は出てこない。出てこないまま、胸の奥がきゅっと縮む。

俺は缶を持ち替えて、息を吐いた。

吐いた息が白い。冬だ。現実だ。

バイトは忙しかった。注文、皿、レジ、笑顔。体が勝手に動く。勝手に動くことが助かる。頭で考えずに済むからだ。頭で考えると、あの薄い違和感が少し濃くなる気がする。

夜、帰り道の街灯が滲んで見えた。疲れのせいだろう。疲れなら理由がある。理由があるなら安心できる。俺はそうやって、全部を「理由」で囲っていく。囲っていけば、胸の奥の沈みは暴れない。

家に帰る。ドアを開ける。

また匂いがする。夕飯の匂い。味噌と醤油と、焼いた魚の匂い。生活の匂い。

鼻の奥が熱くなる。

俺は、もう誤魔化さない。誤魔化せない。目が勝手に潤む。理由がない涙は厄介だ。厄介なのに、嫌じゃない。

「どうしたの?今日なんかあった?」

母が心配そうに覗く。俺は首を振る。

「ううん。何にもない」

本当に、何にもない。少なくとも、言葉にできる出来事はない。

それでも、胸の奥には「何にもないはずなのにあるもの」がある。俺はその正体を探すのをやめた。探すと、余計に手が届かない気がする。届かないものを追うと、人は疲れる。今日の俺は、もう十分疲れている。

風呂に入って、歯を磨いて、部屋に戻る。布団に潜り込む。布団の匂いがする。洗剤の匂い。俺の家の匂い。

安心が来る。

安心が来るのに、胸の奥の沈みはまだ残る。残るけれど、今夜はそれでいい。残るものがあるのは、生きている証拠みたいに思えた。

目を閉じる。

眠りに落ちる直前、また「夢を見ていた気がする」という感覚だけが戻ってくる。戻ってくるのに、内容はない。ないまま、消える。夢は記憶に残らない。残らないのが当然だ。だから、俺は追わない。

ただ、ひとつだけ。

言葉にもならない癖みたいなものが、胸の奥で小さく動いた。

怖いときに、息を整えること。

踏み出す前に、自分の体温を確かめること。

泣きそうになっても、立っていられること。

誰に教わったのか分からない。いつ身についたのかも分からない。けれど、その癖は、今の俺を支える。

俺は、布団の中で小さく息を吐いた。

明日も起きる。

大学へ行く。

バイトへ行く。

帰ってくる。

それだけのことが、今日は少しだけ、尊い。

そして眠りが深くなっていく中で、胸の奥の沈みは、名前のないまま、静かにそこに居続けた。

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