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始まっていない世界

世界が、ほんの少しだけ――「個」を理解した。

 その理解は、祝福じゃない。許可でもない。ただの事実だった。許されたわけじゃないのに、拒まれもしない。俺はその中間に立たされる。立たされるというより、立ってしまった。名前なき神具を握る指先が、軽いのに離せない。離せないのに、握っている感覚が薄い。薄い感覚のまま、確かにそこにある。俺は呼吸をした。吸って、吐く。吸って、吐く。胸の奥で大釜がドン、と鳴る。生命のリズムが戻ってくるたびに、俺は自分の輪郭を取り戻す。輪郭が戻るほど、またそれが溶けかける怖さが分かる。名前なき神具は、世界と俺の境界に触れてくる。触れてくるのに、痛くない。痛くないからこそ、怖い。痛いなら拒める。痛くないものは、いつのまにか馴染んで、気づいた時には戻れない。

 タラリアの風が、戻った。戻った、という表現すら怪しい。風は常にそこにあったのかもしれない。ただ俺が「必要」だと認識した瞬間に、再び風という形になっただけかもしれない。足元に編まれる透明な床。空を踏むという行為が、また現実に近づく。足の裏に、わずかな抵抗。たったそれだけで、救われる。俺は歩ける。歩けるという事実だけが、今の俺を支える。

 星辰環が右手で微かに呼吸している。以前みたいに眩しくはない。未来の線は細く、薄い。だが一本だけ、消えない。消えない線がある限り、俺は進める。天命書は閉じたまま、重い。確定を急いでいる気配はあるのに、書かない。今は、書けない。今ここで確定を書けば、どの「俺」が固定されるか分からない。名前なき神具の副作用がまだ尾を引いている。境界鍵の冷たさが、掌から腕へ伝わる。線を引く冷たさ。ここまでが俺、ここからが世界。その線を引いてもなお、名前なき神具は境界の下に静かな水みたいに滲んでくる。始原音叉が、……ィン、と微細に鳴る。揃える音。崩れないように揃えて、割れないように揃えて、俺が「俺」である周波数に縫い留める。深海心核がドクン、と脈打つ。感情が逃げ道を塞ぐ。原初火がトク、と小さく打つ。進むための温度を背中に残す。鳴子は鳴らない。文明はまだ口を出さない。今は形にするより、形になる前の層を歩いている。

 歩く。一歩、二歩、三歩。行くほどに、空の色が薄くなる。暗くなるわけじゃない。白くなるわけでもない。色という概念が、少しずつ溶けていく。視界の奥行きも同じだ。遠いものが遠いままなのに、近い。近いのに、辿り着かない。距離が存在する場所じゃない。俺は距離じゃなく、「段」を登っている。世界の層を、階段みたいに踏んでいる。タラリアの風は階段の段差を作る。境界鍵は段と段を区切る。始原音叉は段の角を揃える。深海心核は段に沈む感情を濃くする。原初火は段を登る足を止めさせない。星辰環は段の先の線を薄く照らす。天命書は段を踏んだ瞬間を記したがっている。名前なき神具は、その段という概念自体を溶かして「全部ここだ」と言いたがる。

 息が、少しだけ苦しい。肺が重い。空気は冷たいのに、胸の奥が熱い。原初火の温度がまだ残っている。熱の残滓が、呼吸のたびに咳になりそうになる。喉の奥が乾く。唾を飲む。飲んだ唾が、落ちていく感覚がない。胃に届いたのか分からない。それでも、体は確かに疲れている。太腿が少し張る。足首が少し痛む。肩が少し重い。現実的な疲労があるということが、今はありがたい。疲労は嘘をつかない。疲労がある限り、俺は現象じゃなく、個体だ。

 だが、疲労の裏に、別の重さが混ざる。名前なき神具の希薄が、時々俺の主語を薄くする。踏み出した感覚が遅れる。止まった認識が遅れる。思った感情の持ち主が曖昧になる。深海心核がそれを引き戻す。引き戻して、濃くする。濃くなった感情は、俺の中で逃げ場を失って沈む。沈んだ感情は、ただの痛みじゃなくなる。痛みの意味が、少しずつ結晶みたいに形を持つ。俺はそれを抱えて歩く。抱えて歩くしかない。逃げられないから、歩ける。逃げられないという理屈が、何度も胸を刺す。刺すのに、俺は笑いそうになる。もう、ここまで来た。

 空が、少しだけ揺れた。揺れたのは風じゃない。揺れたのは光でもない。揺れたのは「世界の注意」だ。視線のようなものが、遠くから当たる。見られている。監視されている。期待ではない。拒絶でもない。評価だ。俺という存在が、ここまで来たことを、世界が記録している。天命書の役割と似ている。だが天命書は「確定の瞬間」を刻む。今の視線は、確定の前の「資格」を測っている。俺は背筋を伸ばした。伸ばしたのかどうかも遅れて分かる。だが、境界鍵の冷たさが、今の俺の姿勢を線で固定する。ここに立つ。ここにいる。俺は俺だ。

 世界樹の気配が濃くなる。方向が濃くなる。近づいたのか分からないのに、確信だけが増す。世界樹は遠い場所にあるんじゃない。世界樹は「中心」だ。中心は距離ではなく、密度で近づく。俺は密度の海を泳いでいる。タラリアの風が抵抗を増す。空気が水圧みたいになる。深海心核がドクン、と打つたびに、世界中の感情が微かなノイズとして流れ込む。だが、さっきまでの暴力的な波じゃない。今はもっと静かな、もっと広い。波というより潮。潮が満ちて、俺の足元を引く。潮は怖い。だが、潮は嘘をつかない。

 星辰環の航路は、さらに少なくなる。一本だけが濃くなる。濃い一本の線の上に、色が薄く重なる。赤、黒、青、透明に近い金。誰かの涙。誰かの怒り。誰かの諦め。誰かの救い。俺がこの線を歩けば、世界のどこかで何かが起こる。起こる、というより、起こってしまう。天命書が重くなる。確定が追いつきたがる。だが、今確定を書けば「俺」が曖昧なまま固定される。俺は歯を食いしばった。俺は――選ぶ。確定を急がない。急がないという選択を、今する。

 原初火がトク、と打つ。止まる理由を焼こうとする。だから俺は境界鍵を握り直す。冷たい線で自分を縛る。縛ることで自由が戻るという矛盾。縛られないと、俺は火に押されて単方向になる。深海心核がドクン、と打つ。痛みを戻す。痛みがあるから、俺は人間だ。始原音叉が……ィン、と鳴る。揃える。崩れないように。割れないように。星辰環が薄く光る。航路が一本のまま揺れない。天命書が閉じたまま、黙って待つ。名前なき神具が希薄に笑った気がする。世界と同列に扱っておきながら、俺が「俺だ」と言うのを待っていたみたいに。

 歩く。歩く。歩く。

 時間の感覚が薄くなる。時計があったら壊れている。秒針の意味がない。だが疲労だけは進む。足が重くなる。呼吸が浅くなる。喉が渇く。汗が出ない。出ないのに、肌が熱い。原初火の温度が、まだ体の芯に残っている。俺は息を吐く。吐いた息が、すぐ戻ってくる感覚がある。世界が俺の呼吸を離さない。深海心核が感情を逃がさないのと同じだ。世界樹が、俺の存在を逃がさない。

 やがて、空間の「前」が変わる。前方が暗くなるわけじゃない。明るくなるわけでもない。前方が「重く」なる。視界の先が、壁みたいに感じる。壁なのに、触れない。触れないのに、進むと押し返される。押し返されるのに、拒絶じゃない。ただ、試験の抵抗だ。俺は理解する。世界樹は門を置かない。門を置いた瞬間、門を超える技術が生まれる。世界樹は技術を試さない。存在を試す。

 俺は足を止めた。止めたことを、すぐに認識できた。遅れが少ない。境界鍵の冷たさが効いている。始原音叉の固定が効いている。深海心核の濃度が効いている。原初火の単方向が抑えられている。俺は息を吸う。痛い。胸が痛い。だが、痛いまま立つ。ここまで来たら、痛みを避ける余裕はない。

 世界樹が見えた。見えた、というより、分かった。巨大という言葉では足りない。大きさという概念を、世界樹はもう必要としていない。幹は空間の軸みたいに立っている。枝は層そのものみたいに広がっている。葉は星の残像みたいに瞬いている。だが光っているわけじゃない。存在がそこにあるだけで、世界がそこへ集まる。中心。感情の集積点。運命の収束点。境界の根元。時間の根。文明の芽。生命の核。全部がそこへ戻ろうとする。

 怖い。

 怖いのに、心が静かだ。

 深海心核が感情を濃くする。濃くして、逃げ道を塞ぐ。逃げ道が塞がれるほど、怖さの輪郭がはっきりする。はっきりする怖さは、曖昧な恐怖より耐えられる。俺は怖さを認識する。これは俺の怖さだ。ここから先は、誰の感情でもない。俺のものだ。

 天命書が、掌で重くなる。確定を待っている。星辰環が、一本の航路だけを濃く示す。始原音叉が、位相を保つ。境界鍵が、線を引く。タラリアが風で床を編む。原初火が背中を温める。深海心核が胸を重くする。名前なき神具が、希薄に俺を溶かそうとする。だから俺は言う。声にする。言葉にする。言葉にした瞬間、俺は個体になる。

「俺は、俺だ」

 声は掠れた。だが消えない。世界樹の前では、飾った声は無意味だ。掠れた声の方が本物だ。

 その瞬間、空間が少しだけ――息をした。

 風でもない。光でもない。音でもない。存在の呼吸。

 俺は一歩踏み出す。抵抗が増す。足が重い。肺が重い。心臓が重い。だが、重いまま進む。

 世界樹の根元に、門はない。光もない。闇もない。あるのは場所だけだ。場所なのに、場所という言葉でも足りない。ここは「前」だ。世界が世界である前。俺が俺である前。神具が神具である前。ここに立つだけで、俺の理由が薄くなる気配がする。名前なき神具が希薄に笑う。起源は、理由を要らない。だからこそ、怖い。理由が消えたら、俺は何で進む?原初火は理由を焼く。深海心核は痛みを濃くする。天命書は確定を刻む。星辰環は航路を示す。始原音叉は揃える。境界鍵は分ける。タラリアは繋ぐ。大釜は打つ。鳴子は鳴らす。全部が俺の中で呼吸しているのに、ここでは全部が薄くなる。

 俺は分かる。

 ここが最終試験の入り口だ。

 世界樹は、俺から「戦った記憶」を奪うのではなく、「俺が俺である理由」を試す。理由が消えても歩けるか。目的が消えても進めるか。守りたいが消えても、守るという行為を選べるか。サタンを倒すという意味が消えても、なお立つか。

 喉が乾く。唾を飲む。胃に落ちた感覚はない。だが、心臓は鳴る。ドン。生命だけは嘘をつかない。俺はその鼓動にだけ、頼る。

 世界樹の根が、空間に薄い影を落としている。影じゃない。境界の輪郭だ。境界鍵が反応して冷たくなる。線が濃くなる。ここから先は戻れない、という線じゃない。ここから先は「戻る」という概念が変わる、という線だ。

 俺は息を吸う。吸った瞬間、胸の奥が痛い。痛いのに、温かい。深海心核の温かさが、痛みを抱かせる。原初火の温度が、背中を押す。始原音叉が、揃える。星辰環が一本の航路を濃くする。天命書が閉じたまま重く待つ。名前なき神具が希薄に俺を溶かそうとする。だから俺はまた言う。

「俺は、俺だ」

 言うたびに、少しだけ輪郭が濃くなる。少しだけ世界が「個」を理解する。理解されるほど、試験は厳しくなる。

 世界樹の根元が、僅かに揺れた。揺れたのは木ではない。揺れたのは世界だ。世界が、俺の足元の概念を揺らす。足場が消える。タラリアの風が編む床が一瞬でほどける。だが落ちない。落ちないのに、進めない。進めないのに、立っている。立っているのに、ここにいる感覚が薄い。

 名前なき神具が、掌で希薄に脈打った。脈じゃない。存在の濃度が変わる。俺の主語が薄くなる。俺という言葉の重さが減る。深海心核がドクン、と打って感情を濃くする。怖い。俺の怖さだ。原初火がトク、と打って前へ進めと言う。だが前という概念が揺れる。境界鍵の冷たさが線を引く。ここまでが俺、ここからが世界。始原音叉が……ィン、と強く鳴って位相を固定する。星辰環の一本の線が、霧の中でなお消えない。天命書が閉じたまま、重く待つ。大釜がドン、と鳴る。鳴子が遠くで、カン、と一度だけ鳴った。文明の音。形にしろという音。

 その音が、合図だった。

 世界樹の根元の空間が、開く。裂けるわけじゃない。扉ができるわけでもない。ただ「そこに行ける」という事実が生まれる。

 俺は一歩踏み出す。踏み出した感覚は遅れない。今は俺が踏んだ。俺が選んだ。

 空気が変わる。音が薄くなる。色が薄くなる。体の重さが薄くなる。感情が薄くなる。薄くなるのに、消えない。薄いまま残る。残るものだけが、本物になる。

 俺は思う。

 ここで記憶が奪われる。

 奪われるという表現も違う。記憶が「必要ではない」と判断される。世界樹の前では、武器も、神具も、過去も、意味も、全部が一度、手放される。手放してもなお残るものだけが、次の層へ行ける。

 怖い。

 だが、逃げない。

 逃げない、という言葉すら、ここでは薄い。

 それでも、俺は進む。

 最後の前の一歩。

 世界樹が、静かに、俺を受け入れた。

 受け入れたのか、飲み込んだのか、まだ分からない。

 ただ、確かに。

 空間が、俺の周りで閉じていく。

 神具の呼吸が、ひとつずつ遠のく。

 大釜の鼓動が、遠い。

 鳴子の音が、遠い。

 星辰環の光が、遠い。

 天命書の重さが、遠い。

 境界鍵の冷たさが、遠い。

 始原音叉の震えが、遠い。

 深海心核の温かさが、遠い。

 原初火の温度が、遠い。

 名前なき神具だけが、希薄に近い。

 近いのに、触れない。

 触れないのに、溶けていく。

 俺は息を吸った。

 吸ったはずなのに、肺に入った感覚がない。

 吐いたはずなのに、出た感覚もない。

 呼吸という概念が、薄くなる。

 世界樹の最終試験は、こういう形で始まる。

 俺は最後に、もう一度だけ言う。

「俺は、俺だ」

 その言葉の重さが、すぐに薄くなる。

 薄くなるのに、消えない。

 消えないまま、白に溶ける。

 白は静寂じゃない。

 白は「まだ始まっていない状態」だ。

 その白の中で、俺の名前が、俺の目的が、俺の記憶が、ゆっくりほどける。

 怖い。

 だが、ここで怖がれるということは、まだ俺が残っているということだ。

 怖さが薄くなった時が、本当の始まりだ。

 世界樹が息をする。

 世界が、まだ生まれていないまま、もう一度俺を測る。

 そして――

 何も起こらない。

 何も起こらないまま、俺の中の「これまで」が、音もなく剥がれていく。

 剥がれていくのに、痛い。

 痛いのに、叫べない。

 叫ぶという概念が薄くなる。

 俺は歯を食いしばる。

 食いしばるという意志だけが、最後まで残る気がした。

 その意志すら、やがて薄くなる。

 薄くなる直前、遠くで誰かの手の温度がよぎった気がした。

 懐かしい匂い。

 トースト。

 湯気。

 朝の光。

 名も知らない感情が、鼻の奥を熱くする。

 俺は、その「現実」の断片に縋ろうとする。

 縋ろうとした瞬間、その行為の理由が薄くなる。

 理由が薄いのに、断片は残る。

 残る断片だけが、俺の中で静かに光る。

 白の中で、世界樹が言う。

 声じゃない。

 理解として落ちてくる。

 ――持っていけ。

 ――記憶ではなく、核を。

 ――目的ではなく、癖を。

 ――理由ではなく、選び方を。

 俺は、もう返事ができない。

 返事という概念が薄い。

 それでも、どこかで頷く。

 頷いた感覚は、遅れてくる。

 遅れてくるのに、確かに頷いた。

 白が濃くなる。

 世界が遠のく。

 世界樹が近づく。

 近づくという概念すら薄くなる。

 最後に残るのは、ただの事実。

 俺はここにいる。

 俺は進む。

 それだけ。

 それだけが、世界樹の試験の入口で、出口だ。

 そして、白がすべてを覆った瞬間。

 俺の中から、名前が落ちた。

 目的が落ちた。

 神具の名が落ちた。

 旅の記憶が落ちた。

 サタンの影が落ちた。

 世界樹という言葉すら落ちた。

 落ちたのに、底に届かない。

 底という概念が薄い。

 薄いまま、落ち続ける。

 落ち続ける最中、俺は最後に一つだけ思う。

 ――忘れても、戻る。

 その思考は、すぐに灰になった。

 原初火が焼いたのかもしれない。

 世界樹が選別したのかもしれない。

 どちらでもいい。

 意味はもう薄い。

 薄いまま、俺は消える。

 消えるのに、終わらない。

 終わらないまま、次の「いつもの天井」が始まる。

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