底に触れたまま歩く
一歩。
世界が、ほんの少しだけ、感情を持った。
――それで終わるはずがなかった。
深海心核は、握った瞬間から、俺の体温に馴染んだ。
馴染んだ、というより。
勝手に、根を張った。
掌の内側。
皮膚の下。
骨の隙間。
そこに、温かい重さが居座る。
温かいのに、安らがない。
抱きしめられているのに、息ができない。
それが、深海の温度だった。
俺は、空を歩く。
タラリアが風を編む。
風はいつも通り、俺を支える。
だが――支え方が変わった。
風が、水に似た抵抗を持つ。
空気が、水圧の手触りを持つ。
俺の肺は、まだ乾いているのに、呼吸が「泳ぎ」に変わっていく。
おかしい。
深海心核は、感情を逃がさない。
なら、これは――俺の感情か?
違う。
胸の奥で、大釜が打つ。
ドン。
少し遅れて、ドン。
その間に。
また、あの拍動が混ざる。
ズク。
心臓じゃない。
気持ちの鼓動だ。
誰かの気持ち。
俺は、足を止めた。
止めると、風が薄くなる。
落ちない。
落ちないのに、沈む。
沈むというより、引かれる。
深海心核が、掌の中で小さく脈打つ。
ドクン。
その鼓動が、俺の視界を「内側」に押し広げた。
音が、戻ってくる。
ただし、鳴子の音じゃない。
風の擦れじゃない。
鼓動でもない。
――感情の音。
ざわ。
ぴり。
きゅう。
ぐら。
言葉にならない雑音の群れが、遠くから押し寄せる。
俺は眉を寄せた。
耳を塞いでも意味がない。
これは耳じゃない。
深海心核が、俺の中の「受信機」を勝手に開いている。
副作用。
それが、遅れて来た。
星辰環が右手の内側で呼吸している。
航路は見える。
だが、航路の上に――色がついていた。
赤。
黒。
鈍い金。
透明に近い青。
色は感情の濃度だった。
その航路を辿れば、誰が泣く。
その航路を辿れば、誰が怒る。
その航路を辿れば、誰が諦める。
その航路を辿れば、誰が救われる。
見える。
だから、苦しい。
俺は、息を吸った。
冷たい空が肺に入る。
だが、冷たいのは空じゃない。
俺の中の焦りが、冷えたフリをしている。
深海心核が、もう一度、脈打った。
ドクン。
その瞬間。
視界の端に、顔が浮かんだ。
知らない。
なのに、分かる。
子ども。
小さな手。
泣いている。
声が出ない。
喉が潰れるまで叫んだあとみたいに、息だけが震えている。
俺の胸が、ぎゅう、と縮む。
自分の胸じゃない。
あいつの胸の縮みが、俺に流れ込んでいる。
俺は、思わず膝をついた。
タラリアが、風を強める。
支える。
だが止めない。
俺が沈むなら、沈む速度を遅くするだけだ。
俺は、歯を食いしばった。
鳴子が、遠くで小さく鳴る。
カン。
文明の音。
「形にしろ」という音。
だが、今は形にできない。
今は――飲み込まれるか、立つか。
天命書が左手の中で、重く熱を持つ。
開かない。
書かない。
だが、警告みたいに、熱だけが増える。
星辰環は、航路を見せる。
深海心核は、航路の「痛み」を流し込む。
この二つを同時に持つと。
未来は見えて。
その未来の感情まで、先に来る。
それが、暴力だった。
俺は、ゆっくり立ち上がった。
息を吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
呼吸を整えた瞬間、また別の波が来た。
怒り。
鈍い熱。
耐えきれない焦燥。
誰かの拳が、震えている。
俺の指が勝手に握られる。
拳が固くなる。
俺は、境界鍵を握り直した。
冷たい。
その冷たさが、怒りの熱を切り分ける。
――これは俺の怒りじゃない。
そう分かった瞬間、ほんの少しだけ楽になる。
だが、楽になるだけだ。
消えない。
深海心核は、逃がさない。
俺は、理解した。
深海心核の副作用は――「共感」じゃない。
共感は、距離がある。
これは距離がない。
他人の感情が、俺の血圧を変える。
俺の呼吸を奪う。
俺の足を止める。
つまり。
感情の引力。
俺は、空を見上げた。
世界樹の方向。
濃い。
濃すぎる。
そこに近づくほど、世界中の「気持ち」が集まる気がした。
世界樹は、生命の中心じゃない。
文明の中心でもない。
――感情の集積点。
そう思った瞬間。
深海心核が、掌でふいに熱くなった。
熱い、じゃない。
温度が上がったわけじゃない。
「惹かれた」。
俺の中から、何かが引き剥がされる感覚。
喪失。
後悔。
執着。
救えなかったものへの執念。
それらが、心核の中心へ落ちていく。
俺は、息を止めた。
――吸われる。
感情が、持っていかれる。
楽になる。
なのに、怖い。
楽になるのは、危険だ。
楽になりすぎたら、俺は「痛みを避けるために」心核を使う。
心核は、逃がさない。
逃がさない代わりに、沈めて濃縮する。
沈め続けたら、どうなる?
俺の中の海が、底なしになる。
底なしになったら、いつか――浮上できない。
俺は、深海心核を握りしめた。
温かい。
その温かさが、母性みたいに優しい。
優しいからこそ、怖い。
楽にしてくれる道具は、依存を呼ぶ。
俺は、ゆっくり言った。
誰にでもなく。
自分に。
「……使うな、じゃない」
「……溺れるな、だ」
その言葉に反応したように、始原音叉が、掌の中で微かに震えた。
……ィン。
揃える音。
俺の呼吸を、俺のものに戻す音。
大釜が、ドン、と打つ。
生命のリズム。
鳴子が、カン、と遠くで鳴る。
文明のリズム。
星辰環が航路を示し続ける。
天命書が確定の杭として重い。
境界鍵が冷たい。
タラリアが、風で床を編む。
そして深海心核が――
俺の中の「逃げ道」を塞ぐ。
逃げ道がない。
だから、歩ける。
その理屈は、分かる。
分かるのに、心が拒む。
拒む心すら、心核は濃くする。
俺は、空を踏んだ。
一歩。
その瞬間、また波が来た。
今度は、静かな絶望だった。
声もない。
涙もない。
ただ、心が沈み切って、底に貼り付いている。
俺は、歯を食いしばった。
それを振り払わない。
追い出さない。
深海心核が逃がさない以上、俺がするべきことは一つだけだ。
――識別する。
これは俺か。
俺じゃないか。
俺のものなら、抱える。
他人のものなら、流し込まれても、飲み込まれない。
俺は、息を吸った。
吐いた。
吸った。
吐いた。
呼吸が「俺」に戻る。
深海心核が、静かに脈打つ。
ドクン。
今度は優しくない。
ただの事実。
「まだ波は来る」と告げる鼓動。
遠く。
世界樹の方向で、空間がまた僅かに歪んだ。
見られている。
警戒されている。
期待されているわけじゃない。
――監視。
俺は、星辰環の光を見た。
航路が、以前より少ない。
天命書の杭が、確率を収束させている。
深海心核が、感情の引力で、寄り道を許さない。
自由が削れていく。
だが、道は濃くなる。
濃くなった道は、逃げを許さない。
俺は、深海心核を胸に近づけた。
温かい。
そこに居ていい、と言う温かさ。
だが、同時に。
そこに居続けろ、と命じる温かさ。
俺は、小さく笑った。
笑えたのが、逆に驚きだった。
「……逃げられないのは、もう慣れた」
そして、空を踏む。
二歩。
世界が、ほんの少しだけ――「痛みの意味」を得た。
痛いから、逃げるんじゃない。
痛いから、分かる。
分かるから、選べる。
俺は、星と、運命と、振動と、感情を連れて。
世界樹へ向かって、また歩き出した。
深海心核の副作用は、終わらない。
ただ――
終わらないまま、俺が折れない限り。
それは「暴走」じゃなく、「深度」になる。




