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戻れない未来の重さ

 天命書は、閉じているのに――開いていた。

 正確には、紙が開いたんじゃない。

 「確定」が開いた。

 俺の左手の中で、小さな本が、熱でも冷えでもない温度を持つ。

 握りしめた指が、わずかに震える。

 震えは恐怖だけじゃない。

 疲労。

 呼吸の浅さ。

 胸の奥の二拍目の鼓動が、遅れて追いつこうとする焦り。

 ドン。

 少し遅れて、ドン。

 星辰環の航路は、薄くいくつも見えていた。

 だが、どれも細い。

 どれも遠い。

 どれも――「間に合わない」の匂いがする。

 そのとき、風が変だった。

 タラリアの風が、足首で編まれる前に、ほどけた。

 ほどけたというより、勝手に「一本」に揃ってしまった。

 一本の風。

 一本の航路。

 一本の未来。

 俺は足を止める。

 止めた瞬間、空が硬くなる。

 空気が、紙の繊維みたいにきしむ。

 星が、再現をやめる。

 今度は、動かないんじゃない。

 ――「動けない」

 天命書が、勝手にページをめくった。

 俺は開いていない。

 俺は触っていない。

 なのに、文字が浮かぶ。

【誤用】

 喉が鳴る。

 乾いていて、音だけが出る。

 次の行。

【“確定”は意思ではなく、状況で発火する】

 俺は、理解した。

 これは、便利さの罠だ。

 俺が「乱用しない」と言った、その言葉自体が――条件だった。

 つまり、俺はもう「天命書を使う人間」になっている。

 使うつもりがなくても、使う準備が整った瞬間に、天命書は反応する。

 星辰環が、右手の内側で冷たく光った。

 航路が、一斉に広がる。

 回避。

 遅延。

 介入。

 無視。

 全部、見せてくる。

 だが、天命書のページに新しい文字が刻まれた瞬間――それらが、ひとつずつ遠のく。

 遠のくというより、薄くなる。

 可能性が消えるんじゃない。

 「俺の手が届く可能性」だけが、削れる。

 そして、俺は、見てしまった。

 未来の断片。

 いや、断片じゃない。

 断片が、勝手につながって――一本の映像になった。

 俺は、地にいた。

 空じゃない。

 風もない。

 地面は、黒い土。

 腐っていないのに、湿っている。

 空は低く、雲が重い。

 雨が降っているのに、音がない。

 音がない雨。

 俺の足元に、倒れている誰か。

 顔が見えない。

 見えないのに、分かる。

 ――文ちゃんじゃない。

 だが、「誰か」だ。

 俺が救いたいと思う側の誰か。

 俺が手を伸ばすはずの誰か。

 その胸から、赤がにじむ。

 俺は駆け寄ろうとする。

 だが、足が動かない。

 足が動かないんじゃない。

 足が動く前に、未来が「確定」する。

 天命書の文字が、目の前に浮かぶ。

【ここで】

 次の行が刻まれる前に、俺は叫んだ。

「やめろ……!」

 俺の声が、雨のない空に吸われる。

 吸われた声が、戻ってこない。

 天命書が、淡々と続ける。

【お前は】

 星辰環が、狂ったように航路を示す。

 右。

 左。

 跳躍。

 停止。

 巻き戻しに似た何か。

 だが、全部「似ている」だけだ。

 星辰環は未来を隠さない。

 それは救いじゃない。

 見える地獄は、逃げる力を削る。

 天命書が、最後まで刻む。

【“遅れる”】【“届かない”】【“間に合わない”】【“それでも、見る”】【“そして”】【“固定する”】【】

 俺の肺が、潰れる。

 息が入らない。

 入っているのに、使えない。

 大釜が、強く打つ。

 ドン。

 ドン。

 ドン。

 生きろ。

 生きて、この映像を見ろ。

 そう言っているみたいに。

 鳴子が、ようやく鳴った。

 カン。

 でも、その音は文明の鼓動じゃない。

 警鐘だ。

 カン、カン、カン。

 ――作れ、じゃない。

 ――壊すな、だ。

 俺は必死に左手を握りしめる。

 天命書を閉じようとする。

 閉じられない。

 紙が閉じないんじゃない。

 「確定」が閉じない。

 俺は、境界鍵を思い出す。

 右手にある星辰環は、今、航路で視界を埋め尽くしている。

 左手は天命書で塞がっている。

 それでも、掌の冷たさが残っている。

 境界鍵。

 俺は腹の底から息をひねり出し、声にならない音で言った。

「……切れ」

 誰に言ったのか分からない。

 境界鍵か。

 自分か。

 世界か。

 次の瞬間、俺の視界が二枚に割れた。

 一枚は、確定する未来。

 一枚は、今の空。

 空の中で、俺は膝をついていた。

 足首の風が、ひどく弱い。

 支える気がない風。

 ただ「落ちるのを遅らせる」だけの風。

 天命書が、暴走している。

 ページが、勝手にめくれていく。

 白い紙が、次々に黒くなる。

 インクじゃない。

 “確定した瞬間”の痕跡が、焼き付くように増えていく。

 書かれていく内容は、一つじゃない。

 俺が避けようとした未来。

 俺が見ないふりをした未来。

 俺が、まだ選んでいないはずの未来。

 全部が、勝手に「確定した瞬間」になって、記録され始める。

 矛盾の連鎖。

 確定が増えるほど、確率が収束する。

 収束するほど、確定が起こりやすくなる。

 起こりやすくなるほど、天命書が反応する。

 悪循環。

 俺の脳が、遅れて理解した。

 ――誤って使った場合の暴走って、こういうことだ。

 未来を固定しすぎると、世界は「動く余地」を失う。

 余地を失った世界は、動く代わりに――“確定”で埋める。

 流れが止まる。

 止まった流れを、無理やり進めるために、瞬間瞬間を杭で打っていく。

 杭。

 杭。

 杭。

 その杭は、未来の地面に打つんじゃない。

 ――俺の中に打つ。

 胸が、きしんだ。

 背骨の内側が、折れそうな音を立てた。

 骨の奥に、文字が刺さる感覚。

【ここで】

 また同じ行が浮かぶ。

 天命書が、同じ冒頭を繰り返す。

 再試行を拒否するはずなのに、同じ「確定の形式」だけが何度も発火している。

 それは再試行じゃない。

 ――上書きだ。

 世界が、俺を「止まらない者」として固定したせいで、

 止まらないための理由を、世界が勝手に量産する。

 誰かが倒れる。

 誰かが泣く。

 誰かが叫ぶ。

 そして俺が「歩く」ことでしか繋がらない展開を、世界が勝手に並べる。

 俺は、歯を食いしばった。

 唇が裂けて、血の味がする。

 血の味が、今を戻してくる。

 俺は、天命書を胸に押し当てた。

 重い。

 確定した未来の重さが、肋骨を押し潰そうとする。

「……止まれ」

 声が、やっと出た。

「……俺が、止める」

 その瞬間、星辰環が――一つの航路を強く光らせた。

 普段なら、選択肢の一つにすぎないはずの線。

 だが今は違う。

 それは「回避」じゃない。

 「遅延」でもない。


 ――遮断。

 境界鍵が、掌の冷たさだけで返事をした気がした。

 俺は、見えない鍵を、見えない鍵穴に差し込む感覚で――空に手を伸ばした。

 そして、切った。

 切った瞬間、音が戻った。

 風が鳴る。

 血が鳴る。

 大釜が鳴る。

 鳴子が鳴る。


 カン――ッ!


 文明の音が、暴走する確定を叩き割るみたいに響く。

 天命書が、ぎくりと止まった。

 ページが、止まる。 

 文字が、止まる。

 止まった瞬間、俺の膝が崩れた。

 落ちる。

 落ちるのに、落ちきらない。

 タラリアが、最後の力で俺を支える。

 支えて、床を作る。

 薄い床。

 俺はその床の上で、肩で息をした。

 息が、痛い。

 肺が、砂を噛んでいるみたいに乾く。

 天命書は、閉じていた。

 閉じているのに、分かる。

 中で、まだインクが冷えていない。

 俺は、天命書を見下ろした。

「……これが、代償か」

 声が震えたのは怖さだけじゃない。

 自分の責任の重さが、ようやく“手触り”になったからだ。

 星辰環は、航路を示し続ける。

 天命書は、確定を刻み続ける。

 便利さは毒になる。

 砂杯の声が、遠い過去から笑った気がした。

 俺は、天命書を胸に抱え直す。

 抱えた瞬間、重さが「落ち着く」。

 ――理解されれば、重さは暴れない。

 俺は、息を吸った。

 痛い。

 だが、痛いまま吸う。

 そして、空を踏んだ。

 一歩。

 今度は、天命書が勝手に開かない。

 星辰環が、無数を見せすぎない。

 境界鍵の冷たさが、余計な枝を切り落とす。

 俺は知った。

 天命書を“誤って”使うとは、

 未来を固定することじゃない。

 ――自分の弱さを固定してしまうことだ。

 弱さを固定すれば、世界はそれを材料に確定を増やす。

 確定が増えれば、逃げ場がなくなる。

 逃げ場がなくなれば、また誤る。

 だから。

 俺は、次からは誤らない。

 誤らないために、止まらない。

 俺は、世界樹へ向かって、また一歩踏み出した。

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