砂杯 ― 失われなかった時間
砂は、音を吸う。
足音が、小さくなる。
呼吸の音が、遠くなる。
心臓の鼓動だけが、やけに近い。
ドン。
ドン。
ドン。
生きている音だった。
俺は、砂の都市へ向かって歩いた。
空は相変わらず、銅色だった。
夕焼けみたいで、でも、時間の終わりみたいでもあった。
砂漠の風は、一定じゃない。
止まったかと思えば、急に、撫でる。
撫でたかと思えば、少しだけ押す。
まるで――
「行け」と言っているみたいだった。
足は、まだ痛い。
裂けた足裏が、砂に擦れて、熱を持つ。
だが、泥と違う。
腐った湿気もない。
肺は、まだ焼けるが、
それでも、呼吸は、戻ってきていた。
俺は、歩いた。
都市は、近づいていた。
塔が、少しずつ大きくなる。
市場の影が、形を持つ。
建物の装飾が、見えてくる。
白い石。
青いタイル。
金の縁取り。
誰もいないのに――
生活の痕跡だけが、残っている。
干した香草。
壊れた壺。
半分だけ砂に埋もれたランタン。
焼いた肉の匂いだけが、風に残っている。
俺は、都市の門をくぐった。
――静かだった。
だが、死んだ静けさじゃない。
「待っている」静けさだった。
砂が、路地をゆっくり流れている。
石畳の隙間に、時間が溜まっているみたいだった。
俺は、中央の塔を見上げた。
巨大だった。
人間が作った大きさじゃない。
都市が、塔のために存在している。
そんな配置だった。
塔の頂上――
空へ向いた巨大な杯が、夕焼けを受けて、鈍く光っている。
砂杯。
胸の奥で、ギャラルホンが、わずかに震えた。
警戒でも、拒絶でもない。
共鳴に近かった。
俺は、塔へ向かって歩いた。
一歩。
一歩。
その途中で。
声がした。
「……遅い」
俺は、止まった。
振り向く。
誰もいない。
だが、今度は、耳で聞いた。
骨じゃない。
幻聴とも違う。
「歩いてきたな」
声は、低かった。
男とも女とも分からない。
年齢も分からない。
ただ――
「時間を長く見ている声」だった。
塔の影の中。
砂が、少しだけ盛り上がる。
そこから、ゆっくりと――
人影が、立ち上がった。
布を纏っている。
白でも黒でもない。
砂色。
顔は、覆われている。
だが、目だけが見えた。
金色だった。
「……砂杯を、見に来たか」
俺は、答えなかった。
答える余力がなかった。
ただ、頷いた。
影は、少しだけ、近づいた。
「いい」
「お前は、まだ、壊れている」
俺の喉が、ひくりと鳴った。
「だが――」
「壊れていない奴は、ここへ来れない」
風が、少し強くなった。
砂が、足元を流れる。
「砂杯は、時間を貯める」
「だが、与えはしない」
「対価を払った者だけに、返す」
俺は、ようやく、声を出した。
「……対価……?」
影は、頷いた。
「お前は、もう払っている」
「痛み」
「喪失」
「恐怖」
「諦め」
「そして――」
「それでも、歩いた時間」
胸の奥が、少しだけ、熱くなった。
影は、塔を見上げた。
「だが、砂杯は、神具の終点ではない」
「始点だ」
俺は、顔を上げた。
「お前は――空を履く」
タラリア。
その言葉が、頭の奥で、静かに響いた。
「だが」
影は、俺を見た。
「空を履く前に」
「時間を、知れ」
その瞬間。
塔の頂上の砂杯が、光った。
砂が、逆流した。
落ちていた砂が、空へ戻る。
空の銅色が、わずかに、深くなる。
影は、言った。
「行け」
「砂杯に触れろ」
「そして――」
「お前が、何を取り戻したいのか」
「決めろ」
俺は、塔を見上げた。
足が、震えた。
怖かった。
だが。
逃げる理由は、もうなかった。
俺は、塔へ向かった。
塔の入口は、開いていた。
中は、涼しかった。
石が、時間を抱えているみたいだった。
螺旋階段。
上へ。
ただ、上へ。
俺は、登った。
一段。
一段。
一段。
呼吸が、荒くなる。
足が、震える。
それでも、止まらない。
止まれない。
止まらないことが、ここまで来た、唯一の証明だった。
やがて。
頂上。
風。
空。
銅色の光。
そして。
巨大な――砂杯。
俺は、手を伸ばした。
まだ、触れていない。
だが、分かる。
ここから。
ここから先で。
時間を知る。
時間を選ぶ。
時間を捨てる。
そして。
その先に。
空を履く旅が、待っている。
タラリアを得る旅が。
世界を取り戻す旅が。
――本当に、始まる。
風が、止まった。
塔の頂上は、音がない。
完全な無音じゃない。
――音が、意味を持たない。
そんな静けさだった。
俺は、砂杯の前に立っていた。
巨大だった。
都市のどの建造物よりも、塔そのものよりも、
「存在として」大きかった。
空へ向けて開いた器。
そこへ、空から、絶え間なく砂が落ち続けている。
だが――
砂は、積もらない。
落ちる。
消える。
また落ちる。
時間みたいだった。
胸の奥で、ギャラルホンが、静かに重い。
懐の中で、ラジエルの書が、微かに熱を持つ。
逃げるな。
言葉はない。
だが、そう言われているのは分かった。
俺は、一歩、前に出た。
足裏が、まだ痛む。
だが、その痛みは――今は、必要だった。
現実に繋がっている証拠だった。
砂杯の縁は、俺の身長より高い。
だが、近づくほど、距離が歪む。
あと数歩のはずなのに。
永遠に辿り着かない気がする。
俺は、歩いた。
止まらない。
止まらない。
止まらない。
そして。
――触れた。
指先が、砂杯の縁に触れた瞬間。
世界が――
止まった。
風が、止まる。
砂が、空中で止まる。
俺の呼吸が、途中で止まる。
心臓が、半拍だけ、遅れる。
そして。
――流れ込んできた。
時間が。
砂じゃない。
記憶でもない。
感情でもない。
「経過」。
俺が、生まれてから、ここへ来るまでの、
すべての「過ぎ去った時間」。
子供の頃。
何も考えず、ただ笑っていた時間。
何もしていない時間。
逃げた時間。
諦めた時間。
誰かに優しくされた時間。
何も返さなかった時間。
後悔した時間。
後悔すらしなかった時間。
全部。
押し込まれた。
脳に。
心に。
骨に。
血に。
俺は、膝をついた。
息ができない。
違う。
――時間が、多すぎる。
処理できない。
俺は、砂杯に、額を押し付けた。
その瞬間。
声が、した。
今度は、はっきり。
「何を、取り戻す」
俺は、答えられなかった。
取り戻したいもの。
家族。
過去。
やり直し。
失敗しなかった未来。
全部、欲しかった。
だが。
砂杯の奥から。
もう一度。
「一つだけだ」
喉が、震えた。
俺は、目を閉じた。
思い出した。
霧の谷。
底なし沼。
病の森。
荒野。
そして。
――あの光。
俺は、震える声で、言った。
「……前に進む時間……」
沈黙。
砂が、少しだけ、流れた。
「過去ではないな」
「……はい」
「やり直しではないな」
「……はい」
「失ったものを、取り戻すのではないな」
俺は、唇を噛んだ。
血の味がした。
「……違う」
沈黙。
長い沈黙。
やがて。
砂杯の中の砂が――
光った。
そして。
ほんの一瞬だけ。
砂が、満ちた。
溢れなかった。
ただ。
「満ちた」という状態を、一度だけ、取った。
その瞬間。
俺の胸の奥に、何かが――
戻った。
体力じゃない。
記憶でもない。
勇気でもない。
――「折れない時間」。
完全に壊れる前の、まだ、立てていた時間。
それが。
戻ってきた。
次の瞬間。
砂杯が――
縮んだ。
都市サイズの存在が、人間の両手で持てる大きさに。
音もなく。
俺の目の前に。
浮かんだ。
砂杯。
逆さでも、正でもない。ただ、存在している器。
俺は、震える手で――
それを、掴んだ。
軽かった。
だが。
――重かった。
時間の重さだった。
その瞬間、ラジエルの書が、強く光った。
文字が、浮かぶ。
【砂杯――取得】
【時間を一度、返還】
【使用権:一度】
光が、収まる。
俺は、立っていた。
まだ、壊れている。
まだ、弱い。
だが。
――折れてはいない。
塔の上空。
銅色の空の向こう。
風が、流れた。
空が、少しだけ――
開いた。
俺は、理解した。
次。
次は――
タラリア。
空を履く。
そのための旅が。
今。
本当に、始まる。




