砂に預けた、失われた時間
風が、変わった。
谷の湿気でも、森の腐りでもない。
乾いている。
だが、冷たくはない。
熱でもない。
――砂。
それを理解した瞬間、喉の奥がざらついた。
咳が出る。
だが、谷の霧ほど重くない。
肺の奥に沈み込む感じがない。
軽い。
それなのに、逃げ場がない。
俺は、ゆっくりと目を開け。
空があった。
青じゃない。
灰でもない。
淡い、金色。
太陽は見えない。
だが、世界全体が、光っている。
俺は、膝をついていた。
足元は、砂。
白に近い砂。
光を受けて、金色に見える。
指を埋める。
乾いている。
温度がある。
生き物じゃない。
――現実だ。
胸の奥が、少しだけ緩む。
その瞬間。
胸の内側が、熱を持った。
ラジエルの書。
俺は、反射でそれを取り出した。
ページは、勝手に開いた。
俺が開いたんじゃない。
開かされた。
砂が、ページの上に落ちる。
だが、砂は――
文字を隠さない。
むしろ、浮かび上がらせた。
そこに、書いてあった。
『空間を渡る者は、空を履け』
『タラリア』
『天空を自在に駆ける神具』
『地を捨てよ』
『恐怖を捨てよ』
『重さを捨てよ』
『ただし――』
『逃げるために履くな』
俺の喉が、ひくりと鳴った。
ページが、さらにめくれる。
『砂の王朝の空に、風を従える靴あり』
『それは盗めない』
『奪えない』
『願っても、与えられない』
『ただ――』
『歩き続けた者だけが、履くことを許される』
指が、震えた。
ラジエルの書は、静かだった。
ラジエルの気配は、ない。
ただ――
最初から、ここにあった。
最初から、決まっていた。
タラリア。
俺は、ゆっくり顔を上げた。
砂の地平線の向こう。
都市があった。
白い塔。
青い装飾。
金の縁。
アラビアンナイトの幻想みたいな都市。
俺は、歩き出した。
足が重い。
だが、泥じゃない。
沈まない。
それだけで、救いだった。
歩く。
歩く。
歩く。
何度も吐いた。
血を吐いた。
膝をついた。
それでも、歩いた。
書の文字が、頭の奥で反響する。
――歩き続けた者だけ。
都市は、近づいた。
門は、開いていた。
誰もいない。
だが、生活の匂いだけが残っている。
香料。
乾いた花。
焼いた油。
甘い煙。
俺は、都市の中心へ進んだ。
そこに――
塔があった。
異様に高い。
空へ突き刺さっている。
塔の周囲だけ、風が流れていた。
砂が、舞う。
だが、塔の周囲だけ、砂が“落ちない”。
風に、持ち上げられている。
俺は、理解した。
――ここだ。
ラジエルの書を、もう一度開く。
新しい文字が、浮かぶ。
『風が落ちない場所へ行け』
『そこに、空を履く者の試練がある』
俺は、塔の入口に手をかけた。
石が、温かい。
重い扉が、音もなく開く。
中は、暗い。
だが――
上から、光が落ちていた。
螺旋階段。
空へ向かって続く。
俺は、階段を登り始めた。
足が震える。
膝が笑う。
呼吸が焼ける。
それでも、登る。
登る。
登る。
途中で、何度も倒れた。
吐いた。
血が混じった。
それでも、登った。
やがて。
塔の頂上に、出た。
そこには――
何もなかった。
ただ。
風。
空。
光。
そして。
宙に浮く――
一対の靴。
羽根がついている。
白じゃない。
金じゃない。
空の色。
俺は、立ち止まった。
まだ、触れない。
まだ――
その時じゃない。
ラジエルの書が、静かに閉じた。
そして。
俺は、理解した。
ここから。
ここから、神具の旅が、本当に始まる。
世界を取り戻すための旅が。
空を履く、その瞬間の――
直前で。
霧の底で見た光は、消えていなかった。
それは、空にある光じゃなかった。
地面でもない。
前方でもない。
――時間の「隙間」みたいな場所に、浮いていた。
俺は、ふらつきながら、その光の方向へ進んだ。
足は相変わらず重い。
肺は焼ける。
頭はぼんやりしている。
胸の奥にある冷たい重さ――ギャラルホンと、
懐に収めたラジエルの書が、同じ方向へ、俺を押していた。
霧が、少しずつ薄くなる。
いや、違う。
霧の「時間」がズレている。
流れている霧と、止まっている霧がある。
落ちている霧と、逆に昇っている霧がある。
俺は、そこで初めて気づいた。
――ここは、世界の地形じゃない。
――時間の地形だ。
一歩、踏み出す。
その瞬間、靴の泥が、乾いた。
次の一歩。
乾いたはずの泥が、また濡れた。
時間が、前後している。
俺は、思わず、ラジエルの書を取り出した。
表紙は、相変わらず白い。
紙でも、革でも、石でもない。
触れると、ほんの少しだけ温度がある。
俺が開く前に、ページが、勝手にめくれた。
ぱら、と。
風はないのに。
ページの中央に、見慣れない文字列が浮かび上がっていた。
――砂杯。
その下に、ゆっくりと、意味が浮かぶ。
【時間は流れない。
流れていると「思われている」だけである。】
喉が、鳴った。
ページは、さらに光った。
【砂杯は、時間を“貯める”。
そして、時間を“返す”。】
その瞬間。
霧の奥で、何かが、鳴った。
音じゃない。
――「遅れ」。
世界の動きが、一瞬だけ、遅れた。
心臓の鼓動が、半拍、ズレた。
俺は、顔を上げた。
霧が、裂けていた。
そこにあったのは――
砂。
果てしない砂。
空は、銅色だった。太陽は見えないのに、世界全体が、夕焼けの中にあるみたいだった。
風が吹く。
乾いた砂の匂い。
そして――
香辛料の匂い。
焼いた肉の匂い。
遠くの、人の気配。
俺は、理解した。
――アラビアンナイトの世界。
ラジエルの書の文字が、変わる。
【時間は、ここでは、
砂として数えられる。】
【砂杯は、この世界に在る。】
俺は、一歩踏み出した。
足元が、砂に変わった。
柔らかい。
沈む。
だが――沼と違う。
沈むけど、押し返してくる。
生き物みたいな砂。
俺は、膝をついた。
体が、もう限界だった。
砂は、少し温かかった。
その温かさが、異様に、優しかった。
意識が、少しだけ、揺れる。
眠りそうになる。
だめだ。
俺は、砂を掴んだ。
指の間から、時間が、零れた。
――景色が、変わる。
昼。
夜。
嵐。
静寂。
市場の喧騒。
砂漠の孤独。
一瞬で、何百年分もの「時間の断片」が流れた。
俺は、息を呑んだ。
ラジエルの書が、さらに光る。
【砂杯は、器である。】
【砂を、時間として蓄える器。】
【満ちた時――
持つ者は、“失った時間”を一度だけ取り戻す。】
俺は、震えた。
取り戻す。
何を?
人生?
過去?
選択?
それとも――
あの日、失った、全部?
俺は、ゆっくり、立ち上がった。
遠くに、建造物が見える。
尖塔。
ドーム。
市場。
灯り。
砂の都市。
そして――
都市の中央。
塔。
塔の頂上に。
――逆さの砂時計。
いや。
違う。
杯。
巨大な、杯。
空に向けて、砂を受け続けている。
あれが――
砂杯。
胸の奥で、ギャラルホンが、小さく震えた。
ラジエルの書の文字が、最後に変わる。
【時間を持つ者は、世界を失う。】
【時間を捨てる者は、世界を取り戻す。】
俺は、砂の都市を見た。
まだ、何も始まっていない。
まだ、神具は手に入れていない。
まだ、俺は、壊れかけのままだ。
ここから、ここから先は――
神具を探す旅になる。
世界を取り戻すための旅になる。
そして、その先に。
タラリアがある。
天空を駆けるための神具がある。
俺は、砂を踏みしめた。
一歩。
もう一歩。
砂は、俺を沈めなかった。
ただ、時間を、少しだけ、俺に返してくれた。




