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絶望の底で拾った風

 光は、最初、ただの錯覚だと思った。

 熱に浮かされた視界が、勝手に作った逃げ道。

 死ぬ直前の脳が、最後に見せる優しい嘘。

 そういう類のものだと。

 それでも、足は止まらなかった。

 霧の中、俺は這いながら、膝をつきながら、何度も石に滑りながら、その光の方へ進んだ。

 近づくほど、光は強くなるわけじゃなかった。

 むしろ、淡い。

 曇天の裏側に、薄く滲んだみたいな光。

 温かくもない。

 眩しくもない。

 ただ――拒まない光だった。

 それだけで、十分だった。

 谷の霧が、少しだけ、揺れた。

 風じゃない。

 流れが変わった、みたいな。

 霧が、避けている。

 俺は、何度目か分からない転倒のあと、泥と石の混ざった地面に手をついて、顔を上げた。

 そこに――あった。

 岩でもない。

 祭壇でもない。

 ただの、平たい石。

 その上に、一冊の本が置かれていた。

 濡れていない。

 この谷の霧も、泥も、血の匂いも、全部拒絶するみたいに。

 そこだけ、空気が違った。

 俺は、しばらく動けなかった。

 罠かもしれない。

 幻覚かもしれない。

 死ぬ前の、最後の幻かもしれない。

 でも――

 それでもいい、と思った。

 俺は、膝を引きずって、石へ近づいた。

 呼吸が、痛い。

 肺が、削れる。

 でも、目だけは逸らせなかった。

 本は、革でも、紙でもない材質だった。

 白に近い。

 だが、光沢があるわけじゃない。

 骨でもない。

 石でもない。

 何かの「殻」みたいな質感。

 表紙には、文字がなかった。

 代わりに、焼け跡みたいな模様が走っていた。

 炎で炙ったような、細い線。

 俺は、手を伸ばした。

 触れる瞬間、ためらった。

 触れたら、戻れない気がした。

 でも――

 もう、戻る場所なんて、最初からない。

 俺は、本に触れた。

 冷たい。

 だが――

 次の瞬間。

 白い火が、走った。

 燃えない炎。

 熱くない炎。

 光でもない。

 ただ、存在の輪郭だけを持った白い炎。

 それが、本の縁から、ゆっくりと立ち上がった。

 霧が、一瞬だけ退いた。

 俺の呼吸が、止まった。

 声は、聞こえなかった。

 言葉も、ない。

 でも――理解した。

 これは、誰かだ。

 誰かの「意志」だ。

 白い炎が、ゆっくり、本の上で揺れた。

 そして――

 触れた。

 俺の額に、その瞬間、視界が崩れた。

 断片。

 文字。

 意味になる前の、概念。

 【記録:追放の時】

 園を離れる者に、知識は毒になる。

 だが、毒がなければ、人は世界を越えられない。

 【記録:名を持たぬ理解】

 知識とは、答えではない。

 知識とは、「問うことを止めない構造」である。

 【記録:原初観測】

 存在は、三度定義される。

 見たとき。

 理解したとき。

 受け入れたとき。

 【断片】

 恐怖は、存在を保つための機構。

 絶望は、存在を書き換えるための機構。

 【追記】

 お前はまだ、絶望の手前にいる。

 俺は、地面に崩れた。

 呼吸が、戻る。

 咳が、出る。

 血の味が、強くなる。

 だが――

 頭の中に、何かが残った。

 文字じゃない。

 声でもない。

 構造。

 考え方の「骨組み」だけが、残った。

 白い炎は、もうなかった。

 本だけが、そこにあった。

 俺は、震える手で、本を抱えた。

 重くない。

 なのに――

 意味が、重かった。

 胸の奥のギャラルホンが、わずかに震えた。

 共鳴。

 拒絶じゃない。

 認識。

 俺は、息を吐いた。

 谷の霧が、少しだけ薄くなる。

 光は、まだ遠い。

 でも、さっきとは違う。

 ただ逃げるための光じゃない。

 進むための光だった。

 俺は、本を胸に抱えた。

 ギャラルホン。

 白い本。

 壊れかけた身体。

 全部、重い。

 でも――

 全部、まだ、ここにある。

 俺は、立ち上がった。

 膝が笑う。

 足が震える。

 視界が揺れる。

 それでも、立った。

 霧の中。

 嘆きの谷の底で。

 俺は、初めて――

 「まだ終わっていない」

 と、思った。

 立っているだけで、奇跡みたいだった。

 膝はまだ震えている。

 足裏は裂けたまま。

 肺は、まともに空気を受け入れてくれない。

 それでも――立っている。

 俺は、胸に本を抱えたまま、霧の底を見た。

 さっきまで「沈む場所」だった谷が、少しだけ変わって見えた。

 優しくなったわけじゃない。

 救われたわけでもない。

 ただ――

 「ここで終わらなくてもいい」

 それだけが、分かった。

 ギャラルホンが、胸の奥で静かに冷えている。

 ラジエルの書は、何も語らない。

 でも、二つとも、そこにある。

 それだけで、十分だった。

 谷を抜けるまでに、どれくらい時間がかかったのか、分からない。

 這って。

 立って。

 また転んで。

 咳き込んで。

 血の味を飲み込んで。

 ただ、光の方へ進んだ。

 光は、近づいても、やっぱり強くならなかった。

 ただ、消えなかった。

 それが、救いだった。

 谷を抜けたとき、霧が、少しだけ薄くなった。

 空があった。

 曇天。

 でも――空だった。

 俺は、しばらく、そこに立ち尽くした。

 風が、吹いた。

 荒野の風とも違う。

 森の湿気とも違う。

 高い場所の風だった。

 そこは、崖だった。

 谷とは反対側。

 世界が、下へ広がっている。

 遠くに、幾層もの雲。

 その下に、見たこともない大地。

 歪んだ地平線。

 多分――

 世界の境界に近い場所。

 俺は、ふらつきながら、一歩、前へ出た。

 そのとき。

 風が、変わった。

 横じゃない。

 上でもない。

 ――下から、吹いた。

 俺は、反射で、崖の縁を掴んだ。

 視界の下。

 雲の裂け目。

 そこに――

 光があった。

 落ちていく光。

 いや。

 落ちているんじゃない。

 漂っている。

 羽みたいに。

 俺は、考える前に動いた。

 崖を、降りた。

 石に指をかけ。

 爪を割り。

 掌を裂き。

 足を滑らせながら。

 何度も落ちかけた。

 でも――

 止まれなかった。

 止まったら、あれは消える気がした。

 雲の縁。

 そこに、それはあった。

 靴。

 翼付きの。

 白でも、金でもない。

 空の色に近い。

 光の角度で、青にも、灰にも見える。

 軽そうだった。

 触れたら、消えそうなほど。

 俺は、手を伸ばした。

 触れる。

 何も起きない。

 ……と思った、次の瞬間。

 足裏が、熱くなった。

 焼けるんじゃない。

 満ちる。

 空気が、流れ込む。

 血管じゃない。

 もっと、深い場所。

 存在の重さが、一瞬だけ、軽くなる。

 俺は、理解した。

 これは――

 選ぶ道具じゃない。

 選ばれる道具だ。

 俺は、靴を履いた。

 サイズは、合っていた。

 当たり前みたいに。

 立つ。

 ふらつく。

 でも――

 落ちない。

 重力が、少しだけ、緩む。

 地面が、「絶対」じゃなくなる。

 一歩、踏み出した。

 足が、地面を蹴る。

 その瞬間。

 身体が、軽く浮いた。

 怖かった。

 落ちると思った。

 でも――

 落ちなかった。

 空気が、支えた。

 俺は、息を吸った。

 肺が痛い。

 でも、笑いそうになった。

 ラジエルの書が、微かに温かい。

 ギャラルホンが、静かに震える。

 靴が、風を呼ぶ。

 全部、揃っているわけじゃない。

 むしろ、何も揃っていない。

 でも――

 始まる条件だけは、揃った。

 世界を取り戻す。

 そんな大きな言葉は、まだ口にできない。

 俺は、まだ弱い。

 まだ壊れかけている。

 まだ、怖い。

 でも。

 進める。

 俺は、空を見上げた。

 遠く。

 遥か遠く。

 まだ見ぬ場所。

 まだ知らない神具。

 まだ、終わっていない世界。

 俺は、小さく、息を吐いた。

「……行く」

 靴が、風を掴む。

 俺の身体が、少しだけ、空へ浮く。

 ここから先は――

 逃げる旅じゃない。

 探す旅だ。

 取り戻す旅だ。

 俺は、空へ踏み出した。

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