崖縁の一歩、踏めないままに
霧の中へ身体を落としていくたび、世界が「下へ行け」と言っている気がした。
谷は器だ。森の湿気を集めて、音を集めて、言葉にならないものを集めて――底へ沈める器。
足元の石は滑る。泥が膜みたいに張り付いて、踏むたびに足裏の裂け目がひらく。
痛い。
痛いのに、痛みの輪郭がぼやけている。熱に浮かされて、どこがどう痛いのかを説明する余力がない。ただ「痛い」だけが、全身で鳴っている。
霧が濃い。
濃いというより、重い。
吸うと肺の奥に沈む。吐くと戻ってこない。呼吸が、自分のものじゃなくなっていく。
咳が出た。
一度、二度。
止まらない。喉の奥が裂けて、金属の味が増える。血が、薄く、しつこく、舌の上に残った。
視界が白くなる。耳の奥がきゅう、と鳴る。
――倒れるな。
頭の中の誰かが言った。俺じゃない声だ。俺が俺に命令しているみたいな、変な距離感。
谷底へ続く細い道は、道というより「落ちた傷」だった。
大地が裂け、そこへ霧が溜まり、溜まり続け、腐っていないのに腐っているみたいな匂いが、ずっと居座っている。
両側の黒い影が近づく。岩じゃない、木の根じゃない、と胸の奥だけが先に知って、喉が勝手に締まった。
見ない。
確定させない。
そう決めたはずなのに、谷は決めさせてくれない。近づくほど、視界の端が勝手に拾う。布の端。濡れた髪。折れた指みたいな形。
――違う。
そう思っても、違わない。
霧の中で、音が増えていった。
水を踏む音。骨がきしむ音。自分の息。咳。
それに混ざって、ほんの少しだけ――声。
最初は風の擦れる音に似ていた。次に、木の枝が鳴る音に似ていた。
でも、谷に入った瞬間、それが「言葉の形をした湿気」だと分かった。
『……お前……』
『……ここまで来て……』
『……まだ……生きてるの……?』
耳じゃない。骨で聞く。
胸の内側で鳴る。ギャラルホンの冷たさが、その声をよく響かせた。
角は何も言わないのに、角があるせいで、世界の雑音が全部こちらに向かってくる。
足がもつれた。
滑った。
踏ん張る力がない。膝が折れて、泥に手をつく。掌が刺すように痛い。樹皮に裂かれた肉が、泥を吸って、じわりと熱を持つ。
起き上がろうとすると、背中の中心の熱がずん、と落ちて、代わりに寒気が首筋を噛んだ。歯が鳴った。勝手に鳴った。止められない。
俺は、這うようにして進んだ。
立って歩くのは、もう贅沢だった。立つだけで眩暈がする。立ったら吐く。吐いたら倒れる。倒れたら起きない。
だから、這ってでも進む。進むことだけが、まだ残っている。
谷は、どこまで行っても同じ顔をしていた。
霧。泥。黒い影。
なのに、途中から、空気の「圧」が変わった。
ここから先は、落ちる。そういう圧。
空間が、さらに下へ折れている。霧が、そこへ吸い込まれていく。
気づけば、崖の縁だった。
谷底へ向かう道は、途中で途切れていて、そこから先は――霧の底へ落ちていくしかないみたいに見えた。
下を覗いても何も見えない。霧の底。
なのに、「深い」と分かる。深淵は、見えなくても深いと分かる。
胸の内側で、ギャラルホンが重く冷たく、じっとしていた。
持っているだけで、俺を引きずる重りだ。
捨てれば楽になる。落とせば軽くなる。
そう思った瞬間、別の声が笑った。
『捨てろよ』
『落とせよ』
『全部、ここで終わらせろよ』
笑い声が、霧に溶けていく。
俺は笑えない。
強がることすら、もうできない。
……ここまで来たのに、俺は結局、何もできない。
そのまま、心がほどけていった。
怖いとか、悲しいとか、そういう言葉になる前に。
ただ、崩れた。
そして、あなたが指定したこの文章が、嘆きの谷の中でそのまま俺の中から落ちてきた。
『見せかけの強気すら見せることが出来ない。情けなさが募って、どうしようもない。
気づけば、崖のふちに立っていた。その気になれば、深淵に落ちそうだった。
それが救いだとも思った。
目を閉じて、一歩踏み出そうとした瞬間、俺はあと一歩が出なかった。自ら命を絶つ勇気すら、俺には持つことが出来なかった。こんなにも、死ぬということが怖いなんて知らなかった。平和で恵まれた環境にいたことを、今更ながら気が付いた。
「昔から最後までやり遂げたことなんてない」
一人で弱音を吐く。今までぬるま湯に浸かり続けて来た人生の清算がやってきたように感じる。
俺という人間を振り返ると、思い出も特にあるわけでもない。友人は居ないに等しいし、異性とのかかわりなど一切なかった。それでいて、怠惰という言葉が似合う男。誇れることもなく、何一つ成し遂げることのなかった人生。
多分この後の人生も、似たり寄ったりの下り坂だろう。かといって、その堕落しきった人生をひっくり返すほどの行動力も信念もない。つくづく俺という人間のつまらなさに飽き飽きしてくる。
暗い感情が、心を、体を支配する。そして、怯えるしか出来ない俺は、みじめで小さな小さな生き物でしかなかった。
幾時間、幾日と経った。相も変わらず、しゃがみ込んだまま、ずっとそこに居た。
辺りに立ち込めている霧と同化しつつある。立ち上がる気力もなく、このまま同化して消え去る方が良いのかもしれない。
昔のことを思い出していた。漠然とした記憶が、走馬灯のように駆け巡る。
子供の頃に抱いていた夢も忘れてしまっていた。何か壮大で漠然とした夢を持っていた気がするが、今更そんなことはどうでもいい。
好きだった同級生、高校の間遊んでいた友人、出会ってきた人々の顔が、一気に流れ去っていた。そして、最後に家族の顔を見た。沢山迷惑をかけてきたのに、嫌な顔をされた記憶が無い。何かあれば、自分のことよりも心配してくれた。
最後に、家族に会いたい。家に帰りたい。
「帰らなきゃ」
今まで一切力が入らなかった足に、ほんの少しの力が宿ったのを感じた。
生まれたての小鹿のような貧弱な立ち方で、立ち上がる。
足を一歩一歩、小さな小さな歩幅で前へ送り出す。
幸せになりたいと人生で一番願った。
その時、遠く遥か彼方、曇天から差し込んできた一筋の光を見た。それが、何であれ向かうしかなかった。
気持ちが先走り、何度も何度もつまずく。下を向く暇もなく、光明を目指す。
俺を嘲笑う幻聴も聞こえてくるが、その声に耳を傾ける余裕はなかった。』
――幻聴。
そうだ。谷に降りたあとで来る、と決めていた。
決めた通りに、来た。
『帰らなきゃ?』
『今さら?』
『誰が待ってる? 誰が許す?』
霧の底から、声がいくつも湧いてくる。
四人の罵声とは違う。あれは外からの刃だった。
これは、俺の内側から出てくる腐った釘だ。抜けない。抜こうとすると肉ごと持っていかれる。
それでも、俺は立ち上がった。
文章の通りに。小鹿みたいに、情けない足で。
足裏の裂け目が開いて、熱い痛みが走った。だが痛みは現実だ。現実なら、まだ進める。
崖の縁から離れる。
一歩ずつ。
霧に濡れた道を、何度もつまずきながら、光のある方へ――「ある」と信じる方へ。
その光を追いかけるにつれ、少しずつ確信していく。その光が、希望という名を持つことに。
根拠なんてものはないが、それでもやはり俺は確信した。




