表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/45

霧が重なる場所

 近いのに、辿り着くまでが遠い。

 霧の中の「すぐ」は、現実の距離じゃない。体力の残量と、痛みの種類で測られる。

 足を出すたび、靴の中で水が鳴る。ぐちゅ、ぐちゅ、と、他人の臓器を踏んでいるみたいな音。足裏の裂け目が泥水を吸い上げて、火傷みたいに滲む。痛みは鋭いのに、どこか鈍い。神経が疲れて、正確に「痛い」と叫ぶのを諦めている。

 俺は、息を吸う。

 咳が出る。

 咳のたびに胸の奥が引き裂かれる。肺が、紙みたいに薄くなって、少しの刺激でも破れそうだ。喉の奥に貼り付いた湿気が、粘ついて、呼吸の邪魔をする。吐き気が込み上げてくるが、吐くものはない。胃液だけが、喉を焼いて、酸っぱい味が涙を誘う。

 涙は、すぐ霧に吸われる。

 泣く資格すら、ここでは軽い。

 沼を越えた先は、土の感触が変わった。ぬかるみは続いているのに、泥が違う。より細かく、より黒い。靴の底へ吸い付く力が、少しだけ弱い代わりに、踏むたび沈む。地面が「沈ませる」ことに特化している。

 足が重い。

 重い、じゃない。足首から下が、誰かのものみたいだ。感覚が鈍く、冷たさが遅れて届く。たぶん、血が回っていない。

 俺は、右足を引きずるようにして歩いた。

 引きずる度に、靴の中で皮膚が擦れて、裂ける。痛みが遅れて追いつく。遅れてくる痛みは、逃げ道がない。準備ができていないところへ、いきなり殴り込んでくる。

 木々の形も変わっていった。

 細い幹はそのままに、枝の伸び方が不自然に上を向く。葉は少ないのに、影だけは濃い。光を遮っているのは枝葉じゃなくて、空気そのものだと思った。霧が、ただ漂っているんじゃない。霧が、重ねられている。何層も。薄い布を積むみたいに。

 鼻に刺さる匂いが、濃くなる。

 腐葉土の甘さじゃない。湿った土の匂いでもない。

 薬の匂い。

 苦い草を煮詰めた匂い。

 それから、鉄。

 血の匂いじゃない。血を拭いた布の匂い。拭いたのに、残っている匂い。

 俺の喉が、ひくりと鳴った。

 嫌だ、と言いかけて、飲み込んだ。

 嫌だと言うだけで、少し体力を使う。そんなことに使える力はもう残っていなかった。

 木の根元に、黒い塊が落ちている。

 最初は石に見えた。次に腐った枝に見えた。

 近づいて、それが、布だと分かった。

 布の端は泥に食われている。色が分からない。黒とも灰とも言えない。中心だけが不自然に盛り上がっていて、何かが入っていた――いや、入っていた、じゃない。そこに形があった。

 俺は、視線を逸らした。

 見たら、何かが確定してしまう気がした。

 確定したら、足が止まる。

 止まったら、終わる。

 だから、見ない。

 これが臆病なのか、正しい判断なのか、もう分からない。ただ、今は進むのが正しい。正しいというより、それしかない。

 霧が、さらに濃くなる。

 視界が短くなると、音が大きくなる。

 自分の息。

 咳。

 泥を踏む音。

 骨がきしむ音。

 そして――

 自分の心臓の音。

 ドン、ドン、ドン。

 音が、耳じゃなく胸の内側で鳴る。ギャラルホンが胸にあるせいで、その音が共鳴している気がした。角は冷たく、重い。そこにあるだけで、俺の呼吸を邪魔している。だが、捨てられない。捨てたら、ここまで来た意味が完全に消える。意味なんてもうないのに、それでも「完全に消える」のが怖い。

 歩いていると、指先が痺れてきた。

 寒さじゃない。

 力が抜けていく。

 握るための筋肉が、世界から引き抜かれていくみたいに、段々と働かなくなる。

 俺は木の幹に手をついた。

 樹皮がぬめる。

 指が滑る。

 握り直す。

 爪の間に泥が入る。

 痛い。

 でも、痛いだけだ。

 痛いだけなら、まだ生きている。

 森は、何も起こさない。

 襲ってくる獣もいない。

 枝が折れて落ちてくることもない。

 ただ――身体の方が先に折れていく。

 それが、病という名前に合っていた。敵がいないのに、負けていく。何かと戦う前に、体が自分を裏切る。熱が上がる。喉が乾く。手足が震える。視界が滲む。意識が薄くなる。

 俺は、歩きながら、自分の体が熱を持っているのを感じた。

 背中の中心が熱い。

 額が熱い。

 なのに、指先は冷たい。

 寒気がする。

 歯が、勝手に小さく鳴った。

 これが「病」だ。

 名前だけは分かった。

 原因も治し方も分からない。ただ、ここに入った瞬間から、体の中に種が入った。それが芽を出して、今、根を張っている。

 ふと、舌の上に金属の味がした。

 血の味だ。

 さっき唇を噛み切った血じゃない。喉の奥から滲む血だ。咳のせいでどこかが切れている。肺か、気管か、喉か。分からない。分からないが、味だけが確かにある。

 俺は、笑いそうになった。

 笑えない。

 でも、変に可笑しい。

 こういう時に限って、身体は律儀に生きようとする。痛みを出して、熱を出して、咳を出して、俺を守ろうとする。守る先が、もう「何のためか」分からないのに。

 歩く。

 歩く。

 歩く。

 森の奥で、地形が僅かに下り始めた。はっきりした坂じゃない。気づくか気づかないかの傾き。だが、足が勝手に前へ流れて、止める筋力がない。下り坂は楽なはずなのに、今の俺には怖い。転んだら、滑り落ちる。滑り落ちたら、起き上がれない。

 足元の泥が変わる。

 黒から、灰へ。

 灰から、白へ――

 白、と言っても清潔な白じゃない。膿の白に近い。汚れた白。薄い膜のようなものが地面に張っていて、その上に霧が乗っている。

 匂いが、さらに強くなる。

 薬の匂いが、濃い。

 苦い。

 鼻の奥が痛くなる。

 吸うたび、肺の内側が剥がれていく気がした。

 俺は、咳き込んだ。

 咳が、止まらない。

 しゃがみ込む。

 胸が、痛い。

 背中が、熱い。

 視界が、白くなる。

 だめだ、と分かる。

 ここで座ったら、終わる。

 座ったら、眠る。

 眠ったら、起きない。

 だから、立つ。

 立たないといけない。

 俺は、膝に手をついて、必死に立ち上がった。

 足が、震える。

 膝が、笑う。

 立った瞬間、世界がぐらりと揺れた。

 倒れそうになる。

 木を掴む。

 指が滑る。

 もう一度掴む。

 腕が痙攣する。

 それでも掴む。

 掌の皮が剥けて、樹皮のざらつきが肉に刺さる。

 痛い。

 痛いから、起きていられる。

 俺は、前を見た。

 霧の奥に、さらに暗い線がある。

 森の暗さとは違う。

 「落ちている」暗さ。

 地形の暗さ。

 谷だ。

 見なくても分かる。空気が落ちている。湿気が下へ溜まって、そこだけ重い。森が押し黙っている。音が吸われる。

 ――嘆きの谷。

 まだ、声は聞こえない。

 まだ、何も見えていない。

 でも、名前だけは、先に胸の内側に落ちてきた。

 嘆き。

 俺が、まだ吐き出していないもの。

 俺が、まだ見ないようにしているもの。

 俺が、まだ、真正面から受け止めたくないもの。

 谷に近づくほど、霧が冷える。肌を撫でる湿気が冷たくなって、鳥肌が立つ。熱を持っている体が、外側から冷やされていく。寒気が増す。歯が鳴る。肩が震える。

 俺は、自分の腕を抱えた。

 抱えたところで、暖かくならない。体の内側が熱いのに、外側が冷たい。熱の居場所がない。血が回っていない。

 それでも、歩いた。

 歩くしか、できなかった。

 足元が、また、沈む。

 沼ほどじゃないが、地面が柔らかい。踏むと、じわり、と沈む。引き抜くのに力がいる。力が出ない。足が、つんのめる。転びそうになる。持ち直す。持ち直すたび、体力が削れる。

 谷の縁が近づく。

 木々の間が開ける。

 霧の向こうに、空間が落ちているのが見えた。

 地面が、途切れている。

 向こう側の地面が、低い。

 そこへ霧が流れ込んで、溜まって、動かない。

 谷は、霧の器だった。

 息を吸うだけで、喉が痛む。

 この霧は、森の霧より重い。粒が大きい。肺へ沈む。骨まで濡れる。

 俺は、谷の縁で足を止めた。

 止めたくなかった。

 でも、止まった。

 止まってしまった。

 そこから下を見た瞬間、足が勝手に固まった。

 見える範囲が狭い。

 それでも、分かる。

 下には「道」がある。

 道のように見えるだけの、細い通路が谷底へ続いている。泥と石と、折れた枝の混ざった道。何度も崩れ、踏み固められて、かろうじて形になっている。

 そして、その道の両側――

 黒い影が、点々とある。

 岩か。

 木の根か。

 分からない。

 分からないのに、胸が気持ち悪くなる。

 ここで確定させたくない。

 まだ、確定させたくない。

 幻覚は、まだ来ない。

 来るのは、谷に降りたあとだ。

 そう決めている。自分で。自分の心のために。

 俺は、胸に手を当てた。

 ギャラルホンが、冷たい。

 角は何も言わない。

 でも、角があることで、俺はまだ「次へ行く」ことを強制されている気がした。持ってしまったから。受け取ってしまったから。世界の合図を持ってしまったから。

 俺は、谷の空気を吸って、咳き込んだ。

 咳と一緒に、少しだけ血の味がした。

 喉の奥が熱い。

 目の前が滲む。

 立っているのが、やっとだった。

 それでも。

 ここで引き返す道は、最初からない。

 俺は、足を前に出した。

 谷へ降りる一歩目。

 足首が軋む。

 膝が笑う。

 太ももが震える。

 腰が抜けそうになる。

 でも、出す。

 足を置く。

 石が滑る。

 慌てて体勢を立て直す。

 胸が痛む。

 息が上がる。

 喉が焼ける。

 霧が、喉へ沈む。

 俺は、もう一歩、降りた。

 谷の中の空気が、肌を撫でた。

 森の湿気とは違う。

 これは――声のない湿り気だ。

 言葉にならないものが、濡れて溜まっている。

 俺は、谷底を見下ろした。

 見えない。

 霧の底。

 なのに、そこが「待っている」と分かる。

 俺は、息を吸う。

 咳が出る。

 咳を抑えながら、もう一歩降りる。

 そして、最後に、心の中でだけ言った。

 ――ここから先は、嘆きだ。

 声が出ないうちに、降りてしまおう。

 俺は、霧の中へ、身体を落としていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ