霧が重なる場所
近いのに、辿り着くまでが遠い。
霧の中の「すぐ」は、現実の距離じゃない。体力の残量と、痛みの種類で測られる。
足を出すたび、靴の中で水が鳴る。ぐちゅ、ぐちゅ、と、他人の臓器を踏んでいるみたいな音。足裏の裂け目が泥水を吸い上げて、火傷みたいに滲む。痛みは鋭いのに、どこか鈍い。神経が疲れて、正確に「痛い」と叫ぶのを諦めている。
俺は、息を吸う。
咳が出る。
咳のたびに胸の奥が引き裂かれる。肺が、紙みたいに薄くなって、少しの刺激でも破れそうだ。喉の奥に貼り付いた湿気が、粘ついて、呼吸の邪魔をする。吐き気が込み上げてくるが、吐くものはない。胃液だけが、喉を焼いて、酸っぱい味が涙を誘う。
涙は、すぐ霧に吸われる。
泣く資格すら、ここでは軽い。
沼を越えた先は、土の感触が変わった。ぬかるみは続いているのに、泥が違う。より細かく、より黒い。靴の底へ吸い付く力が、少しだけ弱い代わりに、踏むたび沈む。地面が「沈ませる」ことに特化している。
足が重い。
重い、じゃない。足首から下が、誰かのものみたいだ。感覚が鈍く、冷たさが遅れて届く。たぶん、血が回っていない。
俺は、右足を引きずるようにして歩いた。
引きずる度に、靴の中で皮膚が擦れて、裂ける。痛みが遅れて追いつく。遅れてくる痛みは、逃げ道がない。準備ができていないところへ、いきなり殴り込んでくる。
木々の形も変わっていった。
細い幹はそのままに、枝の伸び方が不自然に上を向く。葉は少ないのに、影だけは濃い。光を遮っているのは枝葉じゃなくて、空気そのものだと思った。霧が、ただ漂っているんじゃない。霧が、重ねられている。何層も。薄い布を積むみたいに。
鼻に刺さる匂いが、濃くなる。
腐葉土の甘さじゃない。湿った土の匂いでもない。
薬の匂い。
苦い草を煮詰めた匂い。
それから、鉄。
血の匂いじゃない。血を拭いた布の匂い。拭いたのに、残っている匂い。
俺の喉が、ひくりと鳴った。
嫌だ、と言いかけて、飲み込んだ。
嫌だと言うだけで、少し体力を使う。そんなことに使える力はもう残っていなかった。
木の根元に、黒い塊が落ちている。
最初は石に見えた。次に腐った枝に見えた。
近づいて、それが、布だと分かった。
布の端は泥に食われている。色が分からない。黒とも灰とも言えない。中心だけが不自然に盛り上がっていて、何かが入っていた――いや、入っていた、じゃない。そこに形があった。
俺は、視線を逸らした。
見たら、何かが確定してしまう気がした。
確定したら、足が止まる。
止まったら、終わる。
だから、見ない。
これが臆病なのか、正しい判断なのか、もう分からない。ただ、今は進むのが正しい。正しいというより、それしかない。
霧が、さらに濃くなる。
視界が短くなると、音が大きくなる。
自分の息。
咳。
泥を踏む音。
骨がきしむ音。
そして――
自分の心臓の音。
ドン、ドン、ドン。
音が、耳じゃなく胸の内側で鳴る。ギャラルホンが胸にあるせいで、その音が共鳴している気がした。角は冷たく、重い。そこにあるだけで、俺の呼吸を邪魔している。だが、捨てられない。捨てたら、ここまで来た意味が完全に消える。意味なんてもうないのに、それでも「完全に消える」のが怖い。
歩いていると、指先が痺れてきた。
寒さじゃない。
力が抜けていく。
握るための筋肉が、世界から引き抜かれていくみたいに、段々と働かなくなる。
俺は木の幹に手をついた。
樹皮がぬめる。
指が滑る。
握り直す。
爪の間に泥が入る。
痛い。
でも、痛いだけだ。
痛いだけなら、まだ生きている。
森は、何も起こさない。
襲ってくる獣もいない。
枝が折れて落ちてくることもない。
ただ――身体の方が先に折れていく。
それが、病という名前に合っていた。敵がいないのに、負けていく。何かと戦う前に、体が自分を裏切る。熱が上がる。喉が乾く。手足が震える。視界が滲む。意識が薄くなる。
俺は、歩きながら、自分の体が熱を持っているのを感じた。
背中の中心が熱い。
額が熱い。
なのに、指先は冷たい。
寒気がする。
歯が、勝手に小さく鳴った。
これが「病」だ。
名前だけは分かった。
原因も治し方も分からない。ただ、ここに入った瞬間から、体の中に種が入った。それが芽を出して、今、根を張っている。
ふと、舌の上に金属の味がした。
血の味だ。
さっき唇を噛み切った血じゃない。喉の奥から滲む血だ。咳のせいでどこかが切れている。肺か、気管か、喉か。分からない。分からないが、味だけが確かにある。
俺は、笑いそうになった。
笑えない。
でも、変に可笑しい。
こういう時に限って、身体は律儀に生きようとする。痛みを出して、熱を出して、咳を出して、俺を守ろうとする。守る先が、もう「何のためか」分からないのに。
歩く。
歩く。
歩く。
森の奥で、地形が僅かに下り始めた。はっきりした坂じゃない。気づくか気づかないかの傾き。だが、足が勝手に前へ流れて、止める筋力がない。下り坂は楽なはずなのに、今の俺には怖い。転んだら、滑り落ちる。滑り落ちたら、起き上がれない。
足元の泥が変わる。
黒から、灰へ。
灰から、白へ――
白、と言っても清潔な白じゃない。膿の白に近い。汚れた白。薄い膜のようなものが地面に張っていて、その上に霧が乗っている。
匂いが、さらに強くなる。
薬の匂いが、濃い。
苦い。
鼻の奥が痛くなる。
吸うたび、肺の内側が剥がれていく気がした。
俺は、咳き込んだ。
咳が、止まらない。
しゃがみ込む。
胸が、痛い。
背中が、熱い。
視界が、白くなる。
だめだ、と分かる。
ここで座ったら、終わる。
座ったら、眠る。
眠ったら、起きない。
だから、立つ。
立たないといけない。
俺は、膝に手をついて、必死に立ち上がった。
足が、震える。
膝が、笑う。
立った瞬間、世界がぐらりと揺れた。
倒れそうになる。
木を掴む。
指が滑る。
もう一度掴む。
腕が痙攣する。
それでも掴む。
掌の皮が剥けて、樹皮のざらつきが肉に刺さる。
痛い。
痛いから、起きていられる。
俺は、前を見た。
霧の奥に、さらに暗い線がある。
森の暗さとは違う。
「落ちている」暗さ。
地形の暗さ。
谷だ。
見なくても分かる。空気が落ちている。湿気が下へ溜まって、そこだけ重い。森が押し黙っている。音が吸われる。
――嘆きの谷。
まだ、声は聞こえない。
まだ、何も見えていない。
でも、名前だけは、先に胸の内側に落ちてきた。
嘆き。
俺が、まだ吐き出していないもの。
俺が、まだ見ないようにしているもの。
俺が、まだ、真正面から受け止めたくないもの。
谷に近づくほど、霧が冷える。肌を撫でる湿気が冷たくなって、鳥肌が立つ。熱を持っている体が、外側から冷やされていく。寒気が増す。歯が鳴る。肩が震える。
俺は、自分の腕を抱えた。
抱えたところで、暖かくならない。体の内側が熱いのに、外側が冷たい。熱の居場所がない。血が回っていない。
それでも、歩いた。
歩くしか、できなかった。
足元が、また、沈む。
沼ほどじゃないが、地面が柔らかい。踏むと、じわり、と沈む。引き抜くのに力がいる。力が出ない。足が、つんのめる。転びそうになる。持ち直す。持ち直すたび、体力が削れる。
谷の縁が近づく。
木々の間が開ける。
霧の向こうに、空間が落ちているのが見えた。
地面が、途切れている。
向こう側の地面が、低い。
そこへ霧が流れ込んで、溜まって、動かない。
谷は、霧の器だった。
息を吸うだけで、喉が痛む。
この霧は、森の霧より重い。粒が大きい。肺へ沈む。骨まで濡れる。
俺は、谷の縁で足を止めた。
止めたくなかった。
でも、止まった。
止まってしまった。
そこから下を見た瞬間、足が勝手に固まった。
見える範囲が狭い。
それでも、分かる。
下には「道」がある。
道のように見えるだけの、細い通路が谷底へ続いている。泥と石と、折れた枝の混ざった道。何度も崩れ、踏み固められて、かろうじて形になっている。
そして、その道の両側――
黒い影が、点々とある。
岩か。
木の根か。
分からない。
分からないのに、胸が気持ち悪くなる。
ここで確定させたくない。
まだ、確定させたくない。
幻覚は、まだ来ない。
来るのは、谷に降りたあとだ。
そう決めている。自分で。自分の心のために。
俺は、胸に手を当てた。
ギャラルホンが、冷たい。
角は何も言わない。
でも、角があることで、俺はまだ「次へ行く」ことを強制されている気がした。持ってしまったから。受け取ってしまったから。世界の合図を持ってしまったから。
俺は、谷の空気を吸って、咳き込んだ。
咳と一緒に、少しだけ血の味がした。
喉の奥が熱い。
目の前が滲む。
立っているのが、やっとだった。
それでも。
ここで引き返す道は、最初からない。
俺は、足を前に出した。
谷へ降りる一歩目。
足首が軋む。
膝が笑う。
太ももが震える。
腰が抜けそうになる。
でも、出す。
足を置く。
石が滑る。
慌てて体勢を立て直す。
胸が痛む。
息が上がる。
喉が焼ける。
霧が、喉へ沈む。
俺は、もう一歩、降りた。
谷の中の空気が、肌を撫でた。
森の湿気とは違う。
これは――声のない湿り気だ。
言葉にならないものが、濡れて溜まっている。
俺は、谷底を見下ろした。
見えない。
霧の底。
なのに、そこが「待っている」と分かる。
俺は、息を吸う。
咳が出る。
咳を抑えながら、もう一歩降りる。
そして、最後に、心の中でだけ言った。
――ここから先は、嘆きだ。
声が出ないうちに、降りてしまおう。
俺は、霧の中へ、身体を落としていった。




