病の匂いがする方へ
足元が、ふっと軽くなった。
軽くなった、じゃない。
踏んだはずの地面が、そこになかった。
ずぶり。
音が、遅れてやってくる。布を水に沈めたときみたいな、湿った、嫌な音。
俺は反射で片足を引いた。
引けない。
粘る。吸う。掴む。
足首のあたりから下が、ぬるい泥に包まれていた。
霧の向こうの地面は、土じゃなかった。
沼だった。
底が見えない。
水面はない。水面があるはずなのに、泥と腐葉土の膜が覆っていて、境界が曖昧だ。
踏み外したら、沈む。
沈んだら、戻れない。
喉の奥が、ひくりと鳴った。
嫌だ。
また、同じ言葉が浮かぶ。
嫌だ。
でも、引き返せない。
引き返す体力も、方向を確かめる余裕も、もうない。
俺は、ゆっくり息を吸った。
腐った匂いが肺に入る。
吐きそうになる。
吐けない。
胃はもう、空っぽだ。胃液だけが、喉を焦がす。
足首が、じんじんする。
冷たいわけじゃない。熱いわけでもない。
ただ、ぬるい。
生き物の体温みたいな、気持ち悪いぬるさ。
――沼が、俺の足を「覚えようとしている」。
そんな感覚が、背中を這った。
俺は、歯を食いしばった。
顎が痛い。
奥歯が軋む。
唾液は出ない。
血の味だけが、口の中に残る。
目線を上げる。
霧の中、木がある。
細い木。背は高い。根元が水を吸って太くなっている。
俺は、その幹に手を伸ばした。
指が震える。
握る。
樹皮は湿っていて、ぬめる。
でも、握れた。
そこだけ、現実だ。
腕に力を入れる。
肩が悲鳴を上げる。
背中が引きつる。
俺は、体を引き上げるようにして、泥から足を抜いた。
ずぶ、ずぶ。
抜ける音が、やけに大きい。
足首が引っ張られる。
皮膚が擦れて、痛い。
膝が笑う。
やっと抜けた。
泥が糸を引いた。
靴の中が、一気に重くなる。
水が入った感触。
冷たい泥が、足の指の間に入り込む。
気持ち悪い。
足が、もう自分のものじゃないみたいだ。
それでも、次の一歩を出さないといけない。
沼は、ここだけじゃない。
霧の奥一面が、ぬかるんでいる。
木の根が、ところどころに盛り上がっている。
そこを足場にするしかない。
俺は、根に足を乗せた。
ぐにゃり、と沈む。
木の根なのに、固くない。
水を含んだ筋肉みたいに、しなる。
怖い。
でも、泥よりはマシだ。
一歩。
足の裏が痛い。
靴の中で擦れた皮膚が、泥水でふやけて、さらに裂ける。
痛みが、遅れて追いつく。
遅れて追いついた痛みは、容赦がない。
足首。
ふくらはぎ。
膝。
太もも。
腰。
全部、順番に、訴えてくる。
「無理だ」と。
「ここで終われ」と。
俺は、息を吐いた。
吐いた息が、霧に溶ける。
霧は、溶けない。
霧は、ずっとそこにいて、俺を見ているみたいだった。
……いや。
見ている、なんて言い方は、まだ早い。
幻覚は、まだ来ない。
来るのは、もっと後だ。
ここで俺が壊れるのは、想像のせいじゃない。
現実のせいだ。
現実が、俺を削っている。
足を出す。
木の根を選ぶ。
滑る。
慌てて体勢を立て直す。
腕が、痙攣する。
肩が、抜けそうになる。
息が上がる。
喉が痛い。
咳が出る。
咳をした瞬間、胸の奥が刺すように痛む。
肺が、紙みたいに薄くなっている気がした。
視界が揺れる。
霧が濃いせいじゃない。
俺の血が薄い。
酸素が足りてない。
栄養がない。
水もない。
身体は、もうとっくに限界を越えている。
それでも、足は止まらない。
止めたら、沈む。
止めたら、ここで終わる。
沼は、止まったものを許さない。
動いているものだけを、少しずつ許して、少しずつ奪う。
――嘆きの森。
名前をつけるなら、きっとそうなる。
ここは、声がないのに、胸の内側が勝手に呻く。
声が出ない代わりに、骨が呻く。
筋肉が呻く。
関節が呻く。
全身が、低い音で泣いている。
俺は、木の根に手をついて、体を支えた。
手のひらが痛い。
擦れている。
泥水が染みる。
それが、現実だと分かる。
痛い。
痛い。
痛い。
痛いのに、まだ動ける。
それが、余計に残酷だ。
どこかで、「まだいける」と身体が嘘をつく。
その嘘に乗った分だけ、あとで利息が来る。
沼は、利息を取り立てるのが上手い。
俺は、次の根へ移ろうとした。
その瞬間、足元が、ずるりと滑った。
根が、苔でぬめっている。
足が外れる。
身体が傾く。
反射で手を伸ばす。
掴めない。
泥へ落ちる。
ずぶっ。
今度は、両足。
膝まで沈む。
泥が、太ももを掴む。
冷たいのに、ぬるい。
矛盾した感触が、脳を混乱させる。
俺は息を呑んだ。
動くと沈む。
動かなければ沈む。
どっちでも沈む。
心臓が跳ねる。
胸の内側で、ギャラルホンが冷たく重い。
出してはだめだ。
出したら、ここで終わる。
出したら、鳴らしたくなる。
鳴らしたら――
その先を考える余裕はなかった。
俺は、腕を前に伸ばし、泥の上の根に指をかけた。
指が滑る。
泥と苔で、摩擦がない。
爪が割れそうになる。
痛い。
でも、痛いだけだ。
俺は、もう一度、深く息を吸った。
肺が拒む。
喉が焼ける。
咳が出る。
咳をした瞬間、泥が胸まで迫った気がして、背筋が凍った。
沈む。
このまま沈む。
――底なし沼。
名前は、冗談じゃない。
本当に、底がない気がする。
泥が、ただの泥じゃない。
重い。
引く。
吸う。
奪う。
俺の体温を。
俺の力を。
俺の決意を。
俺は、歯を食いしばった。
息が漏れる。
「……っ、く……」
声にならない。
叫びにならない。
助けを呼ぶ相手がいない。
呼んでも、誰も来ない。
来るはずがない。
それが分かっているから、声は出ない。
出るのは、息だけだ。
俺は、腕に全力を込めた。
肩が裂ける。
肘が抜ける。
そう思った瞬間、身体が少しだけ前に進んだ。
泥が、抵抗する。
後ろへ引き戻す。
俺は、根に体重を乗せる。
指が滑る。
爪が剥がれるように痛い。
でも、離すわけにはいかない。
もう一度、引く。
筋肉が、焼ける。
腕が、痙攣する。
視界が、白くなる。
音が遠くなる。
――だめだ。
ここで意識を飛ばしたら、終わる。
俺は、唇を噛み切った。
血が出た。
温かい。
それが、現実に引き戻してくれた。
痛い。
痛い。
痛い。
でも、痛いから、生きている。
俺は、もう一度、引いた。
泥が、ずるりと音を立てて離れた。
膝が抜ける。
身体が根の上に倒れ込む。
胸が、根に打ち付けられる。
息が詰まる。
咳が出る。
胃液が上がって、喉が焼ける。
吐く。
少しだけ吐いた。
胃液だけ。
酸っぱくて、苦くて、涙が出る。
涙は、出た。
出た瞬間、俺は妙に腹が立った。
出るんじゃない。
今さら。
でも、止められない。
目から落ちる液体は、霧に吸われるみたいにすぐ消えた。
俺は、根の上で、しばらく動けなかった。
動けない、じゃない。
動いたら、筋肉が切れる気がした。
呼吸が、痛い。
胸が、痛い。
背中が、痛い。
足が、痛い。
痛みが、全部、同じ高さで鳴っている。
それは、現実の音だ。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
霧は、相変わらず濃い。
森は、相変わらず静か。
でも、違う匂いが混ざってきていた。
腐葉土より濃い。
湿気より濃い。
鉄の匂いが、強くなる。
薬みたいな匂い。
苦い草を煮詰めたような匂い。
――病の匂い。
俺は、息を吸って、咳き込んだ。
胸が、ひりつく。
肺の奥がざらつく。
霧が、さらに重くなる。
沼の縁を越えた先に、さらに深い闇がある。
俺は、それを見ただけで分かった。
ここは、まだ入口だ。
底なし沼は、「止まらせる場所」じゃない。
止まれないまま、次へ運ぶ場所だ。
俺は、根の上に這いつくばりながら、足を探した。
泥の中の足は、まだ重い。
引き抜くたびに、皮膚が剥がれるように痛い。
足の指が、痺れている。
感覚が鈍い。
冷たくもないのに、冷たい。
俺は、ゆっくり立ち上がった。
膝が笑う。
腰が抜けそうになる。
でも、立つ。
立たないといけない。
立てるうちに、立たないといけない。
俺は、前を見た。
霧の奥。
沼の奥。
もっと濃い匂いのする方向。
そこが、出口だと、本能が言っていた。
出口。
そう呼んでいいのか分からない。
ただ、次の地獄への入口が、そこにあるだけかもしれない。
俺は、一歩、足を出した。
靴の中で、水が鳴る。
足裏が裂けて、痛みが走る。
でも、歩く。
歩く。
歩く。
底なし沼は、背中で音もなく口を閉じた。
まだ、俺を飲み込めるぞ、と言いたげに。
そして、霧の向こうから、さらに重い湿気が、俺の皮膚を撫でた。
病の森は、もう、すぐそこだった。




