病の森
荒野の風が、頬を撫でた。
さっきまでの、腐った熱を含んだ風じゃない。
ただ、冷たいだけの風だった。
それが、逆に、残酷だった。
世界は、何もなかったみたいに、続いている。
雷鳴も。
あの存在も。
四人の罵声も。
全部、嘘だったみたいに。
俺は、まだ、膝をついていた。
立てない。
いや――
立つ理由が、分からなかった。
胸の奥が、空洞みたいだった。
呼吸をすると、冷たい空気が、その空洞を通り抜ける。
痛みすら、ない。
それが、怖かった。
指先が、震えている。
寒さじゃない。
恐怖でもない。
俺は、ゆっくりと、手を地面についた。
砂と、石。
硬い。
現実だ。
現実だけは、残っている。
腕に力を入れる。
震える。
肘が、軋む。
肩が、重い。
それでも、押す。
体を、持ち上げる。
膝が、笑う。
足裏が、地面を掴めない。
立った。
視界が、ぐらりと揺れる。
吐き気が、上がってくる。
何も食べていない胃が、痙攣する。
口の中が、苦い。
俺は、空を見上げた。
灰色だった。
何もない。
何も、意味を持っていない空。
「……は……」
声が、漏れる。
笑いでも。
泣きでもない。
ただ、空気が抜けただけの音。
胸の内側に、重さがあった。
ギャラルホン。
忘れていた。
いや、忘れようとしていた。
服の奥に手を入れる。
冷たい。
確かに、そこにある。
俺は、それを取り出さなかった。
今、それを見たら――多分、壊れる。
完全に。
足を、一歩、出す。
重い。
信じられないくらい、重い。
砂に、足が沈む。
筋肉が、軋む。
関節が、痛む。
今まで、こんな風に「歩くこと」を意識したことがなかった。
もう一歩。
肺が、焼ける。
呼吸が、浅い。
頭が、ぼんやりする。
でも、止まれなかった。
止まったら。
止まってしまったら、そのまま、終わる。
理由は、ない。
使命感も、ない。
ただ、止まるのが、怖かった。
歩く。
歩く。
どれくらい時間が経ったのか、分からない。
この荒野では、時間は、形を持たない。
ただ、疲労だけが、積み重なる。
足が、痛い。
太ももが、震える。
腰が、重い。
肩が、石みたいだ。
喉が、乾く。
舌が、張り付く。
唾液が、出ない。
それでも、歩く。
やがて――
地平線に、線が見えた。
最初は、影に見えた。
次に、霧に見えた。
最後に、それが――
「森」だと、分かった。
色が、濁っている。
緑じゃない。
灰色に近い、くすんだ色。
空気が、違う。
遠くにいるのに、分かる。
匂い。
腐葉土。
湿気。
そして――
微かに、鉄みたいな匂い。
血を薄めたみたいな匂い。
俺の喉が、ひくりと鳴る。
嫌だ。
そう思った。
はっきりと。
嫌だ。
でも――
足は、止まらなかった。
逃げる方向も、分からない。
戻る場所も、ない。
俺は、歩き続けた。
森が、近づく。
空気が、湿る。
風が、重くなる。
皮膚が、粘つく。
呼吸が、しづらくなる。
地面が、変わる。
砂から、土へ。
乾いた土じゃない。
水を含んだ、柔らかい土。
靴が、沈む。
足を抜くたびに、余計に体力を奪われる。
膝が、悲鳴を上げる。
足首が、軋む。
ふらつく。
何度も、転びそうになる。
でも、転ばない。
転んだら、もう、立てない気がした。
森の手前、あと、数十歩。
空気が、さらに重くなる。
霧が、低く漂っている。
白じゃない。
灰色。
どこか、濁っている。
呼吸をするたびに、肺の奥が、ざらつく。
嫌な予感がする。
ここに入ったら、何かが、壊れる。
もう、戻れない。
でも、戻る場所なんて、最初から、なかった。
俺は、立ち止まった。
足が、震えている。
全身が、痛い。
頭が、重い。
目が、熱い。
涙は、出なかった。
もう、出るものが、残っていないみたいだった。
俺は、ゆっくり、息を吸った。
湿った空気が、肺に入る。
少しだけ、咳き込む。
喉が、痛い。
胸の奥が、ひりつく。
森は、何も言わない。
待っている。
俺が、入るのを。
俺は、唇を、噛んだ。
血の味がした。
それが、妙に、安心した。
まだ、生きている。
多分。
多分――
俺は、もう一度、足を動かした。
森の中へ、踏み込むために。
足が、森の境界を越えた。
空気が、変わった。
重い。
重力が、増えたみたいだった。
肺が、空気を吸うのを拒む。
湿気が、喉に貼り付く。
息を吸うたび、肺の奥に、水を流し込まれるみたいだった。
「……っ」
咳が、出る。
一回じゃ、止まらない。
喉が、焼ける。
胸が、痛む。
肺が、ひくつく。
呼吸が、浅く、速くなる。
空気が、足りない。
だが、酸素が薄いわけじゃない。
ただ――
吸い込みたくない。
身体が、本能が、拒んでいる。
森の中は、暗かった。
夜じゃない。
影でもない。
ただ、光が、弱い。
すべての色が、薄く削られている。
地面は、柔らかかった。
腐葉土。
湿った土。
靴が、沈む。
ぐちゅ、と、小さな音がする。
その音が、やけに大きく感じた。
静かすぎる。
風が、ない。
葉も、揺れない。
虫の声も、ない。
何も、ない。
俺の呼吸音だけが、浮いている。
歩く。
一歩。
重い。
二歩。
太ももが、震える。
三歩。
ふくらはぎが、痙攣する。
足の裏が、痛い。
靴の中で、皮膚が擦れているのが分かる。
靴擦れ。
今まで、こんなことで、痛いと思ったことはなかった。
集中すると、そこだけ、世界があるみたいだった。
汗が、出る。
冷たい汗。
背中を、流れる。
服が、張り付く。
気持ち悪い。
吐きそうになる。
だが、吐くものは、もうない。
胃液だけが、上がってくる。
口の中が、酸っぱい。
俺は、歩いた。
歩くしか、できなかった。
頭が、ぼんやりする。
思考が、まとまらない。
言葉が、浮かばない。
ただ、重い。
それだけが、残っている。
木々は、細かった。
だが、異様に、背が高い。
空が、遠い。
空気が、下に溜まっているみたいだった。
霧が、足元を流れる。
冷たい。
だが、どこか、生ぬるい。
足が、もつれる。
体が、前に傾く。
倒れると、思った。
だが――
倒れなかった。
倒れたら、起きられない。
それが、分かっていた。
俺は、必死に、足を出す。
もう、意志じゃない。
反射でもない。
ただ、止まれない。
止まったら、終わる。
それだけ、分かっていた。
時間が、分からない。
何分。
何時間。
何日。
分からない。
だが、疲労だけが、増える。
筋肉が、悲鳴を上げる。
関節が、熱を持つ。
肩が、痛い。
首が、重い。
背中が、張る。
腰が、抜けそうになる。
足が、上がらない。
それでも、引きずる。
俺は、木に、手をついた。
樹皮が、湿っている。
冷たい。
少し、安心した。
体温が、分かるものに、触れたかった。
いや――
体温が、ないものでもいい。
息が、荒い。
喉が、痛い。
胸が、重い。
心臓が、速い。
ドン、ドン、ドン、と、重い音。
胸の中で、何かが、暴れている。
俺は、目を閉じた。
立ったまま。
ほんの、一瞬だけ。
――危ない。
分かる。
ここで、力を抜いたら、多分、倒れる。
そして、そのまま、起きれない。
俺は、歯を食いしばった。
顎が、痛い。
奥歯が、軋む。
血の味が、する。
少しだけ、意識が、戻る。
俺は、目を開けた。
森は、変わらない。
何も、起きない。
何も、助けない。
何も、殺さない。
ただ――
削られる。
体力を。
気力を。
思考を。
存在を。
少しずつ。
少しずつ。
俺は、歩いた。
歩く。
歩く。
歩く。
もう、自分が、誰なのか。
何をしているのか。
分からなくなりかけていた。
前へ。
前へ。
前へ。
それだけ。
やがて――
森の奥から、空気が、少しだけ、変わった。
湿気が、さらに、濃くなる。
土の匂いが、強くなる。
腐葉土じゃない。
もっと、古い。
もっと、重い。
俺は、ふらつきながら、前を見る。
霧が、濃くなっている。
地面が、さらに、柔らかくなっている。
足が、沈む。
引き抜くたびに、体力を、奪われる。
俺は、理解した。
それでも、足は、止まらなかった。
俺は、もう、戻れない。
戻る場所も、ない。
進むしかない。
呼吸が、浅い。
視界が、揺れる。
体が、重い。
心が、空だ。
それでも――
俺は、歩いた。
霧の奥へ。
さらに、深い場所へ。
壊れきっていない何かを、引きずりながら。




